「テールズ・オブ・テラー チベットでの拷問」 1999 TCHRD発行

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血液、体液の強制抽出

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強制的に血液を抽出する手法は、身体的にも心理的にもダメージを与える拷問として知られる。 この手法は囚人たちを衰弱させる。チベットのような高地では十分血液がなければ生きてはいけない。栄養不良や普段の暴行に加え、繰り返し血液を抽出されれば、死に至ることもある。 尼僧のピュンツォク・ゾンキは、89年から3年間刑に服していたが、暴行と拷問を繰り返し受けた後、トリサム刑務所で強制的に血液を抽出された。

血液抽出は「健康チェック」という名のもとに行われることもある。 ツプテン・ツェリンは96年11月にチベットから逃れた70歳の僧だ。彼の語ることによると、90年、ドラプチ刑務所の政治囚たちは「健康チェック」を受けるよう命令された。「血液が囚人の体から摘出されたが、その後、私たちには何の診断結果も下されなかった」

これらの血液抽出は、とりわけ僧や尼僧たちに、精神面での深刻な影響を与える。60年代の大飢饉の時、中国当局は血液と交換で食料を配給していたが、その時でさえ自ら進んで血液を与えるチベット人はいなかった。この動きは、62年の中印国境紛争の際、血液を強制的に寄付させる運動に発展した。
「雪の国からの亡命」という本の中でジョン・アヴェドンは語る。通常の1.5倍もの血液が、15歳〜35歳までのチベット人から抽出された。 「階級闘争の敵」が格好の対象になった。この運動は飢餓で苦しんでいた多くのチベット人を死に至らしめた。

尼僧ジンパ・ラモは独立デモに参加したため、91年に6ヶ月半セイツ刑務所で過ごした。彼女はある日、病院に行って血液を抽出してくるよう言われた。
「最初私は、軍の病院に連れて行かれた。私を看た医者が公安当局に、血液の状態は悪く抽出することはできないと告げた。そこで私は刑務所近くの病院に連れて行かれ、2瓶分の血液を抽出された。公安当局は私に立つよう命令したが、とても気分が悪く立てなかった。 そのため公安当局は私を棒で殴打し始めた。 彼らはまたゴムの管を私の口に押し込め、それに放尿した。彼らは私を何度も殴り、私はついに怒ってこう叫んだ。『殺したいんなら、早く殺せ!』 彼らは私を殺さず、その代わりに汚物まじりの塵のたくさんある独房に私を連れ戻したのだった。」

医療目的ということで、体液が抽出されることもある。 ピュンツォク・ヤルギはラサのミチュンギ尼僧院の尼僧であったが、92年2月3日逮捕された。94年の中頃、警察病院に転送された際、彼女は中国人の医者に2度にわたって背中に注射を打たれた。 チベットでは生気を増すと信じられている体液を医者は抽出したのだった。ピュンツォクはその後昏睡状態になり、毒のまわっている証拠に、爪、舌、そして唇は青みを帯びた黒色に変色した。 病院に収容されてから6日後、94年6月4日に20歳の若さで亡くなった。中国当局が彼女の両親に遺体の面会を許可したが、それは面会について一切公表しないとの条件で、警察の同伴のもと許されたものだった。 遺体がトプデンに引き渡された際、彼は埋葬の儀式を行うことを拒否した。それは彼女の遺体がかなり酷く損傷していたためだった。 チベットの風習では鳥葬は自然死の場合に限って行われる。 このことは彼女の両親、刑務所関係者たちの前で告げられた。報告によれば、酷い暴行のため、遺体は全身にわたって黒色、青色に変色していた。右足は真っ黒に、そして眼と口は血で染まっていた。