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友情:平和の道 – ダライ・ラマと対話するキリスト教の瞑想者たち –

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(1999/05 ロンドン ローレンス・フリーマン世界キリスト教瞑想共同体所長 )

平和の道は友情の道でなければならない。すべての友情は出会い、分かち合うことから始まる。ダライ・ラマとキリスト教瞑想共同体の共通のプログラムである「平和への道」への旅は1980年に始まった。それはダライ・ラマが世界キリスト教瞑想共同体の創設者であるドム・ジョン・メイン氏の修道院での正午の瞑想と昼食へ誘いに応じた時だった。それ以降、彼らは2人だけで対話の時を過ごし、われわれをロンドンでの94年のジョン・メイン・セミナー「善き心」や98年のブッダガヤ、99年のフローレンスにまで導く種が蒔かれた。

ダライ・ラマと世界キリスト教瞑想共同体の間の友情の種は、多くの美しい形で着実に育ち、それはあらゆる場所で仏教徒とキリスト教徒の間の対話の心的な雰囲気を強めた。それが多くの場合、ダライ・ラマ自身の勇気と謙虚さに負っていることは疑いようもない。彼は誠意を認識し、それを見いだした時にはそれを信じる。そして誠実になり、心を開くことでお返しをするのである。ダライ・ラマは非公式で私的な会話を好んでいるが、それは宗教哲学を並外れて生気にあふれた形で蘇らせる。

98年12月、ブッダが悟りを開いた聖地であるブッダガヤへの巡礼と同地でのダライ・ラマとの会見の招待に約150人のキリスト教徒の瞑想者が応じた。われわれは毎朝、菩提樹の下で一緒に瞑想し、3日間、われわれの宗教的伝統の信条と観念を極めて深く共有した。初めにダライ・ラマは私に非公式な対話が望ましいと伝え、われわれはそれに従った。そうしたやり方をすると、われわれは簡単に公式の仮面の陰に隠れることができなくなるため、リスクも大きくなる。しかし、その見返りは計り知れないほど大きい。

それらの見返りとは何だろうか。真の対話がもたらす果実とは何だろうか。それを描写してみよう。少なくとも私がキリスト教の修道士として個人的に経験した形で。誠実な対話、そこでは言葉と沈黙が正確に釣り合うのだが、その大いなる報酬とは、深い友情である。それはとても人間的でありふれたものだが、キリスト教徒にとっては、極めて神聖で奇跡的なものでもある。

友情は人間にとって全く自然なものである。創世記の中で、男と女を創造した神は人間が1人でいるのは良いことではないと語った。だれも友情のない人生を選びはしないだろう。それは文明社会の結合力であり、歴史上の多くの文化にとって、友情の涵養は至上の芸術とみなされてきた。人間が最初に自分自身について考えを巡らせた時、彼は直ちに自己認識の鍵として友情というテーマに焦点を当てた。友情に対してわれわれが感じる必要と喜びを理解することは、われわれ自身の神秘の理解にも大いに役立つのである。

友情の本性とは何か。それは相互的な善意である。われわれは他人に対して純粋に善のみを祈る。それは自覚である。すなわちわれわれは友人であるということを知らないまま友人になることはできない。友人と共にいる時、われわれは不完全なものとみられているという恥ずかしさを感じることはなく、間違いを犯して拒絶されるという恐れを感じることはない。実際、友情と恐怖は相容れないものだ。人は自分が恐れている相手と友人になることはできない。われわれは友人の友人と友人になることを望む。本当の友情は嫉妬や競争を超えたところに位置するものだ。友情は対等の相手との間に存在する。たとえ友達の能力が自分よりも優れていると認めているとしても、人は友情という聖なる場所では対等な人間として会うのだということを知っている。本当の友情は生きるために必要なものである。もし友情が終われば、彼らは潜在的可能性を全面的に実現することはできない。これらのすべての点に照らせば、世界の宗教が直ちに真の友人になることを学ぶという挑戦は、ほとんど避けられないものであるように見えるかもしれない。それはわれわれを驚かせるとともに希望を抱かせる挑戦でもある。

最後の晩餐でイエスは弟子に向かって、「あなた方をもはやしもべとは呼ばない。友人と呼ぼう」と語った。キリスト教のビジョンの中で、この友情の宣言は人間と神の関係を一変させた。それを全面的に理解し、それが人間性と神聖な生活を送る能力について何を語っているかを知るには長い時間−少なくとも一生−がかかった。ブッダが心的な生活にとって友情はどれほど大切かと尋ねられた時、彼は躊躇なく友情は心的生活であり、その全体にほかならないと答えた。そして彼が意味していたものを理解することも、少なくとも一生かかるのである。

キリスト教徒は長いこと「神は愛である」と信じてきた。ある者はこれを分かりやすく「神は友情である」と述べた。これは千年紀のための神の新しいイメージを提示しているが、新千年紀の大いなる挑戦である宗教間の対話が勇気をもって支持されるためにはさらに新しいイメージが必要となろう。われわれが深い対話や思慮分別のある瞑想、知的な議論、社会的協力に入る時、われわれはいかに親密であるかということとともに、いかに遠く離れているかを発見する。時にはダライ・ラマとの対話においてわれわれの異なる宗教的信条について語り合っている時、私はわれわれの間に違いの深淵が口を開けているのを感じた。しかし、それはけっして分断の感情を伴うことはなかった。違いを耐えられるものとし、喜びさえ感じるものとするのは友情である。私にとって、ダライ・ラマとの会合においてこれは神の体験の源泉であった。われわれが言葉や考えを言い尽くし、もう1度話し合うためにリフレッシュが必要な時、ダライ・ラマの偉大な才能である笑いが友情が行き渡っていることを示したのである。分断の乾いた砂漠や孤独な場所となったかもしれないところにオアシスがあり、友人を持つ喜びがあったのだ。それゆえ、多年にわたるダライ・ラマとのわれわれの対話の果実として友情を語る時、私は特別な便宜を意味していはいない。ダライ・ラマが分かち合う天分を持っている本当の友情は、個人を超えた性質を備えている。それは個人の間で発火するものでもあるが、同時にそれは文化や伝統を包み込んでいる。私はこれが世界におけるダライ・ラマの重要性であり、またすべての存在するものの幸福のために彼が行った膨大な自己犠牲の賜であると信じる。彼はすべての人の友人となることができる。彼はこのようにしてわれわれが皆お互いの友人となることができるということを示す極めて稀な人間の1人である。今日、平和に至る道が他にあるだろうか?

ダライ・ラマが私の故国である英国を訪問する時、私は彼がわれわれと分かち合うすべてのことに感謝し、歓迎する。彼がつくりだした対話の精神が意味するものに関して、キリスト教徒として私は、彼の友情が私にとって神の体験であると言うことができる。それはまた、彼がこの体験をどのように描写するかに耳を傾けることに私が限りない興味を持っているということも意味する。そして私は彼の描写から私が学ぶべき多くのことがあると知っているが、私も誇りとする伝統から発するその描写は、人間性の栄光の1つである。