ダライ・ラマ法王

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ダライ・ラマとパンチェン・ラマの起源

チベット亡命政権 情報・国際関係省著「チベット入門」より抜粋

中国の白書に、次のような1節がある。

「1653年と1713年、ときの清朝皇帝は、それぞれダライ・ラマ5世とパンチェン・ラマ5世に尊称を贈った。それ以来、ダライ・ラマとパンチェン・ラマの称号が使われるようになり、チベットの政教一致体制が確立した。ダライ・ラマはラサにあってチベットの大部分を治め、パンチェン・ラマはシガツェにいて残りの地域を治めた。」

ところが、この記述にはまったく根拠がない。

チベットの宗教学者であった賢人ツォンカパ(1357〜1419)は、チベット仏教のゲルク派[黄帽派]を開き、これはニンマ派、サキャ派、カギュー派に続いてチベット仏教4つ目の主要宗派となった。そのツォンカパの高弟に、パンチェン・ゲドゥン・トゥプパという僧がいた。

そのパンチェン・ゲドゥン・トゥプパの3代目の生まれ変わりを、ソナム・ギャツォという。
ソナム・ギャツォはモンゴルのアルタン・ハーンに招かれ、そこではじめてダライ・ラマの称号を与えられた。称号は先々代にさかのぼって追贈され、ソナム・ギャツォはダライ・ラマ3世となる。かくしてダライ・ラマの系譜が始まるのである。したがって中国政府の言うように、ダライ・ラマの称号が清の皇帝によって17世紀に授けられたとするのは誤りである。

ダライ・ラマ3世とアルタン・ハーンとの関係は宗教的なものだったが、2世紀後の1642年、両者の関係は政治的なものへと発展する。ダライ・ラマ5世(1617〜1682)が、モンゴルの部族王グシリ・ハーンの支援により、政教両界においてチベットの最高権威になるのである。

ダライ・ラマ5世はその恩賞として、グシリ.・ハーンにチューキ・ギェルポ(「法の王(ダルマ・ラジャ)」)の称号を与えた。歴代ダライ・ラマは、この時から最高統治者としてチベットを治めるようになる。したがって、ダライ・ラマの政治権威の確立は、白書に書かれるような清の皇帝によるものではなく、ダライ・ラマ5世がモンゴルの首長の支援を得て築いたものだ。それは、清朝が成立する2年前の出来事であった。

タシルンポ寺は、ダライ・ラマ1世であるパンチェン・ゲドゥン・トゥプパによって、1447年に建てられた。歴代のは、その深遠な学識ゆえに「パンチェン」という称号が与えられている。ダライ・ラマ5世は、その師パンチェン・ロサン・チューキ・ギェルツェン(1570〜1662)に、タシルンポ寺と若干の領地を与えた。それ以来、パンチェン・ラマはその転生者によって継承され、タシルンポ寺とその寺領地を受け継いでいく。この相続形式は、チベット政府から私有地をもらっていたサキャ、パスパ、ダキャプ・ロデン・シェラプなどの転生ラマにも多くみることができた。ただ、そこに政治の色合いは含まれない。パンチェン・ラマなどの高僧がもちえたのは、中国の内容とは違い、ひとえに宗教権威のみであって、行政にはいっさい関知することがなかった。シガツェやタシルンポ寺の行政権は、ラサ政府の任命した地方行政官がもっていたのである。

このように、ダライ・ラマが政治・宗教の権威を確立するに際し、清の皇帝が何らかの役割を果たしたという事実はまったくない。パンチェン・ラマについても同じである。中国共産党政府はチベット占領後、チベットにおける中国の位置づけを合法化するため、先代パンチェン・ラマ10世を利用しようとした。

中国政府はパンチェン・ラマに政治的地位をちらつかせ、ダライ・ラマを非難してその地位を奪うよう、何度となく持ちかけた。しかしパンチェン・ラマは、ついにこれを容れることがなかった。そのため、パンチェン・ラマ10世は長年にわたる投獄と虐待に苦しむことになる。

中国政府は、かつて国民党政府が主張したのと同様、1940年のダライ・ラマ14世の就任に際し,中国が特使・呉忠信をとおして決定的役割を果たしたと主張する。白書には次のように記されている。
ダライ・ラマ14世の就任に、国民党政府の承認が必要だったという状況を一顧するだけもチベットに当時(1911年〜1949年)、独立した権限が何ひとつ備わっていなかったことが見てとれる

しかし実際のところ、ダライ・ラマの転生者探しは、チベットに古くから伝わる信仰と伝統にって行われており、中国政府の承認など必要なかったのである。第1、摂生レティンがチベット国民議会にて現ダライ・ラマの名前を発表したのは、呉忠信がラサに到着する前年の1939年のことである。議会は満場一致でこの候補者を承認していた。

1940年2月22日、即位式が挙行された。

ブータンやシッキム、ネパール、英領インドの代表と同様、呉忠信は即位式において何ら特別な役割を果たすことがなかった。英領インド代表として列席したイギリス人行政官バシル・グールド卿は、当時を振り返って、中国の一連の公式見解は就任式に準備された作り話だったと述べている。中国は今日でも呉忠信によるこの虚偽の報告を下敷きにしているが、それは中国側のを書いたものであり、けっして事実ではない。また、中国政府広報紙のニュース記事に、ダライ・ラマ14世が呉忠信と一緒に写った写真が載り、そこに就任式で撮ったとの説明がつけられたことがある。しかし、全国人民代表大会[=国会。全人代と略す]のアポ・アワン・ジクメー常務委員会副委員長によれば、この写真は、呉忠信が就任式の数日後にダライ・ラマと個人的謁見をしたときのものだという。

「呉忠信がこの写真を根拠に就任式を取り仕切ったというのは、まったく歴史事実を歪曲するものです。」
アポ・アワン・ジクメー副委員長は、1989年8月31日付けの『西蔵日報』紙でそう述べている。

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