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チベット人元政治犯ナムキ氏、記者会見で自身の体験を証言

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2024年4月19日

記者会見するチベット人元政治犯ナムキ氏。写真  Tenzin Jigme Taydeh(CTA)

ダラムサラ:昨年チベットから亡命してきた元政治犯ナムキ氏は、故郷チベットでの抗議活動に至るまでの経緯、中国の刑務所に収監されていた間の苦難、釈放後の亡命、そしてチベットの危機的状況について、自身の体験を証言した。

そのなかでナムキ氏は、「私はチベットのンガバ県チャロ村のペマ・ラタンの典型的な遊牧民の家庭に生まれました。他の多くの遊牧民の子供たちと同じように、私は学校に行く機会がなく、遊牧民として子供時代を過ごしました。私は両親や年長者から、「赤の中国(共産主義の中国)」がチベットを強制的に占領し、何千人ものチベット人を殺害したことで、精神的指導者であるダライ・ラマ法王やキルティ・リンポチェ、その他の偉大な人物が亡命することになったという苦難の歴史を聞いて育ちました。そしていつかチベットが自由になり、ダライ・ラマ法王に直接お目にかかり、教えを聞くことができるよう祈りました。」と、自身について述べ、「チベットの仏教徒たちは、老若男女を問わず、私たちの宗教、文化、言語を守り、向上させようとしています。しかし、中国政府はそれらを戦略的に阻止し、チベット人の移動の自由を厳しく制限しています。私は、国連や外国政府が、チベット内部におけるチベット人の悲惨な日常の状況や苦悩の真実を知っているのだろうかと、とても不安に思っていました。」と付け加えた。

以下はナムキ氏により語られた証言の一部始終である。

「2015年9月から、妹のテンジン・ドルマと私は、牛の放牧中に秘密裏に抗議するための計画を立てていました。そして、2015年10月21日午後3時(北京現地時間)、私たち二人はチベットの衣装を身にまとい、ダライ・ラマ法王の大きな肖像画2枚を手に持ち、ンガバの「殉教者の道」を群衆の中、行進し、『チベットに自由を!ダライ・ラマ法王万歳!キルティ・リンポチェ万歳!お二人のチベットへの速やかな帰還を!』と訴えました。10分もしないうちに大きな音が聞こえ、突然、後ろから来た4、5人の警察官が、私たちの手から肖像画を奪い取ろうとしました。しかし私たちは肖像画を離さず、警察と取り合いになり30分が経ったころ、ついに警察は私たちを道路に引きずり下ろし、黙るように言いました。しかし、私たちはスローガンを叫び続けました。

私たちは後ろ手に手錠をかけられ、警察のバンに乗せられ、ンガバ県の拘置所に連れて行かれたあと、バルカム市の別の拘置所に連れて行かれました。そこで、6日間ものあいだ朝から晩までずっと、暖房が異常に効いた小さな取調室で尋問されました。入れ代わり立ち代わりやって来る取調官に、誰に言われて私たちが抗議活動を起こしたのか、誰が議論を始めたのか、ダライ・ラマの肖像画はどこで手に入れたのか、外部に知り合いはいるのかなど、様々な質問をされました。取調官たちは、私たちは反体制派であり、それがどんなにひどい犯罪であるかを知るべきだと言い、私たちを何度も平手打ちしたり、蹴ったりしました。食事も睡眠も与えられず、何度も早く死んだほうがましだとさえ思いました。別の日には、取調官たちはやさしく振る舞い、もし真実を話せば、刑罰は軽減され、すぐに釈放されると言うこともありました。精神的、肉体的な拷問を受けましたが、私たち2人が抗議行動を起こすと勝手に決めただけで、誰も私たちを扇動していないし、家族も何も知らなかったと答えました。

私たちはタシ・ギャルカリン県の拘置所で7カ月間服役しました。勾留期間が1年1カ月に及んだ2016年11月、トロチュ県の裁判所は私と妹を法廷に呼び出し、裁判にかけました。その日、私たちは逮捕以来、初めて顔を合わせました。法廷には家族の姿はなく、国選の弁護士が2人いました。中国人の女性とチベット人の女性でした。私たちは『国家に対する分離主義的行為』を行い、『ダライ一派』を支持したというでっち上げの罪で、それぞれ3年の刑を言い渡されました。判決後、私たちはいったん四川省の少数民族刑務所に連行されましたが、約3時間後、成都市で最大の女性刑務所に連行されました。この刑務所には過去に2人のチベット人女性が入れられたと聞いていましたが、私たちがいたときは6000人の囚人のうちチベット人は私と妹の2人だけでした。最初の3カ月は軍事訓練と『愛国教育』を受け、中国の憲法を学ぶことが義務づけられていました。中国語で数多くの文書を勉強し、囚人としての日常活動の訓練を受けた後、口頭での試験を受けなければなりませんでした。3ヵ月後、私は銅線を製造する労働収容所で、妹は最初タバコの箱を作る場所で働き、その後私たちは、腕時計製造の収容所に移りました。

家族は食料や衣類を刑務所に送ってくれていたのですが、私たちには知らされなかったので、当然受け取ることもできず、私たちは、栄養失調、薄い毛布での冬の寒さ、国籍差別などの問題に直面しなければなりませんでした。また、私たちは北京語を話せなかったため、当初は言葉の問題にも直面しました。2018年10月21日、私たちは刑期を終えて釈放されました。しかし、関係当局が私たちの家族に釈放の誓約書を書くよう求めたため、ンガバ県のペマ・ラタンの警察署に1週間留め置かれた際、兄も服役中だったので、私の家族はブラックリストに載せられました。釈放されたにもかかわらず、私たちの立ち振る舞いや行動は厳しく制限され、私たちが接触する人は誰でも危険にさらされました。私の家族や親戚も中国政府により日常を脅かされ、叔母のツェリン・キは何度も呼び出され、尋問を受けました。

2023年5月13日、私は叔母のツェリン・キとともに、誰にも告げずに脱出の旅を始めました。そして、2023年5月27日にネパールのレセプションセンターに到着し、6月28日にダラムサラのレセプションセンターに到着しました。」

証言を終えたナムキ氏は、自身の体験やチベット国内の状況について、メディア関係者からの質問に答えた。

記者会見前にナムキを紹介する中央チベット政権スポークスマンのテンジン・レクシェイ臨時書記

オリジナル記事


 (翻訳:稲田かおり)