ダライ・ラマ法王

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14世ダライ・ラマ法王発見の経緯と輪廻転生制度

ガンデン・ポタン

2002年6月、ダラムサラの記念行事での
ダライ・ラマ法王

2002年6月5日からの2日間にわたり、ダラムサラにおいて、「ガンデン・ポタン(Gaden Phodrangチベット政府)」の創立360周年記念行事が催された。これは、ダライ・ラマ法王が宗教と政治両方の指導者になってから360年目を迎えたことも意味している。

現在のダライ・ラマ法王は14世である。ダライ・ラマ法王の登場は1世ゲンドゥン・ドゥプから始まり、4世まではその地位は宗教的主柱のみであった。5世ンガワン・ロサン・ギャツォ(1617年〜1682年)の時代に、宗教的・政治的最高指導者となり、その地位は、現在まで受け継がれている。

ガンデン・ポタンが樹立されたのは、1642年のことであった。ダライ・ラマ法王5世は、彼を崇拝していたモンゴルのグシ汗の協力を得てチベット全土を統一し、チベットにおける宗教と政治両面の指導者になり、ガンデン・ポタン政府を築きあげた。全転生者の中でチベットの宗教と政治両方の指導者となった者は、ダライ・ラマ法王ただ一人であり、他のどの転生者もこの地位を得たものはいない。

ガンデン・ポタンという名前は、デプン僧院(三大僧院の一つで、1959年迄、8千人以上の僧侶の修行場となっていた)内にある一室を、タシ・タクパ・ギャルツェンが、ダライ・ラマ法王2世の宮殿として献上したことに由来している。2世は、歓喜の宮殿という意味の「ガンデン・ポタン」と命名し、その後、4世と5世もこの宮殿を利用した。

ダライ・ラマ法王5世は、ポタラ宮殿を建築した後、ポタラ宮殿に政府を移動してガンデン・ポタン・チョクレー・ナムギャル(Gaden Phodrang Chokley Namgyal)と政府名を改名し、現在に至っている。チベット人は、ガンデン・ポタン政府を築き上げた5世のことをンガパ・チェンポ(大いなる5世)と呼んでいる。そのような意味で、現在のチベット(亡命)政府の名前は、ダライ・ラマ法王と切っても切り離せないほど深い関係を持っている。

輪廻転生制度

『大いなる5世』の肖像

ダライ・ラマ法王は、チベットの精神的指導者であるだけでなく、政治の指導者でもある。チベットはもちろんのこと、チベット仏教を信仰しているモンゴル、ネパール、シッキム、ブータン、ロシアなどの各地域からも仏教の最高指導者として崇拝されている。世界中のチベット仏教徒は法王の祝福を受けるために、かつてはチベットの首都ラサを、現在はインドのダラムサラを巡礼している。1959年迄はチベット仏教を信仰する者にとって、チベットの首都ラサ(チベット語で「神の土地」)は、チベット仏教の聖地であった。

チベット仏教の教えによれば、すべての生きとし生けるものは輪廻転生すると考えられている。輪廻転生とは、一時的に肉体は滅びても、魂は滅びることなく永遠に継続することである。我々のような一般人は、今度死んだら次も今と同じように人間に生まれ変わるとは限らない。我々が行ってきた行為の良し悪しによって、六道輪廻(神・人間・非神・地獄・餓鬼・畜生)のいずれかの世界に生まれ変わらなければならないのである。例えば現在、人間に生まれていても、次の生は昆虫・動物・鳥などの形に生まれ変わるかもしれない。しかし、悟りを開いた一部の菩薩は、次も人間に生まれ変わり、すべての生きとし生けるものの為に働き続けると信じられている。ダライ・ラマ法王もその一人である。ダライ・ラマ法王は観音菩薩の化身であり、チベットの人々を救済するために生まれ変わったとチベットの人々は信じている。

ダライ・ラマ法王制度は世襲制でもなければ、選挙で選ばれるわけでもない。先代の没後、次の生まれ変わり(化身)を探す「輪廻転生制度」である。新しく認定されたダライ・ラマ法王は、先代が用いたすべての地位や財産を所有することができる。現在のダライ・ラマ法王14世は、チベットの人々を救済するという菩薩行を実現するために、繰り返し生き変わり死に変わりして転生しているとチベット人は信じている。つまり、ダライ・ラマ法王という名前をもった存在が、14回にわたって輪廻を繰り返しきたということである。しかし、それは1世が最初の存在であったことを意味するものではない。ダライ・ラマ法王の輪廻転生は、その化身の起原に関して6百年の歴史をもっており、仏陀の時代にまで辿ることが出来ると14世は述べている。

チベット人は、このようにして自由に自分の力で人間に生まれ変わることのできる者のことをトゥルク「化身」、又は輪廻転生者「ヤンシー」と呼ぶ。ダライ・ラマ法王は、チベットの人々を救済するため、永遠に人間に生まれ変わって、人々を浄土へ導くと信じられている。チベットではたくさんの輪廻転生者が存在するが、その中でダライ・ラマ法王は、最も尊敬されている存在である。

ダライとは、モンゴル語で「大海」である。元来ダライ・ラマは、3世のダライ・ラマ ソナム・ギャツォの略称であり、ギャツォとはチベット語で大海の意味であり、モンゴル語に置き換えたわけである。ラマはチベット語で教師を指し、つまりインド語のグルに相当する。法王(チュウキ・ギャルポ)という呼称は、ダライ・ラマ法王がチベット仏教の最高指導者であることに由来する。また、中国人やその他の外国人の中には、活仏という言葉を使用する者もいるが、この言葉を英語に直訳すれば(Living Buddha又はGod king)という意味になり、正しい呼び方とは言えない。

チベットの人々は、ダライ・ラマと呼ばず、イシェ・ノルブ(如意珠)、ギャルワ・リンポチェ(仏のような宝者)、クンドゥン(御前様)、チェンレーシ(慈悲の観音菩薩)、キャプゴン・リンポチェ(救世主)などの名で呼んでいる。

新しいダライ・ラマの選定に関しては、チベット仏教の伝統に従ったいくつかの方法がある。この方法はダライ・ラマ法王に限らず、どの転生者を認定する時もやり方は同じである。先代の遺言、遺体の状況、神降ろしによる託宣、聖なる湖の観察、さらに転生者の候補が先代の遺品を認識できるかどうかなどである。

聖なる湖のお告げ

『聖なる湖』ラモイ・ラツォ湖

1933年、13世は他界し、国民は一日も早く新しい転生者が見つかるようにと祈った。チベット人の精神的主柱であり、国家的指導者であった13世の死は、チベット人にとって「失明したような」大きな悲しみであった。直ちに、チベット政府によって転生者を探す捜索が始まった。チベット仏教の理論上、転生者が亡くなると、49日間以内に地上のどこかに転生者として生まれ変わると信じられている。しかし、それは限定ではなく時と場合によっては2、3年後に生まれ変わるケースもまれにある。

チベット議会(ツォンドゥ)は、ダライ・ラマ法王のいない間の国を治めるための摂政を選任する。この摂政は、ダライ・ラマ捜索の総責任者でもある。13世亡き後、ガンデン座主イシェ・ワンデン、レティン・リンポチェ、プルチョク・ジャムパ・トゥプテンの3人の候補者の中からレティン・リンポチェが摂政に選ばれた。ダライ・ラマ法王不在の時に代わりを勤める人物のことをギャルツァプと呼び、これは摂政を意味する。この人物は、13世の生まれ変わりを発見し、その子が成人に達するまで最高責任者として国を治める。レティン摂政とチベットの内閣(カシャク)をはじめとし、各寺院の最高僧(ケンポ)らは、13世の転生者捜索に力をいれた。

チベットでは人が亡くなると、火葬、鳥葬、水葬、土葬にするのが主だが、偉い化身が亡くなった場合、遺体を薬草などで処理し、ドゥンテン(ミイラ)にして仏塔(チョルテン)の中に供え奉り、信者が遺体を参拝するという風習がある。ポタラの赤い宮殿内(ポタン・マルポ)におさめてある歴代ダライ・ラマの霊廟もその一例である。13世が亡くなった後も、チベット仏教の伝統に従いドゥンテンにするため、いつものように準備に取り掛かった。その時、ダライ・ラマ法王13世が次にどこに生まれ変わるのかを示す兆候が、亡くなって間もなく、遺体の方向となって現れた。

13世の遺体は、仏教の伝統儀式に従ってミイラにする前に、一般信者参拝のため、まずノルブリンカ宮殿(ダライ・ラマ法王の夏の宮殿)の宝坐に南向きに安置された。(チベット仏教では、遺体は南向きにすることが良いとされている)しかし数日後、南向きに安置してあったはずの顔が、東向きに変っているのが二度も発見された。この事実を参拝に行った多くの信者が目撃している。続いてラサの東北側の柱に、星の形をした大きなキノコが突然出現した。13世の転生者が、ポタラ宮殿の東側から生まれ変わるしるしだという噂がラサの町中に流れた。

1935年、レティン摂政一行はまず、ラサから約145キロの地点のチョコル・ギャルにあるラモイ・ラツォという聖なる湖へ行った。ラモイ・ラツォ湖は、パルデン・ハモ(吉祥天母)の魂が宿る湖(Blatso)とされている。チベットの人々は、ラモイ・ラツォ湖の水面に将来の様々な状況を見ることができると信じている。チベットには、このような聖湖はいくつもあるが、その中でも、チョコル・ギャル・ラモイ・ラツォが最も有名である。ラモイ・ラツォ湖の水面に、ある時は文字や形を、ある時は風景を通じてメッセージが現れると言われている。13世の転生者を探す時もこの聖湖から幻影が現れた。現在のダライ・ラマ法王や多くの転生者が、ラモイ・ラツォ湖の予言により見つかっていることは、多数の自伝や仏典に書き記されている。

捜索隊のレティン摂政一行は聖湖へ行く前に、チョコル・ギャル僧院で吉祥天母への特別大供養をした後、ラモイ・ラツォ湖の水辺で祈りと瞑想を行いながら何日間も過ごした。そしてある日、水面から5色の虹のような美しい色が現れた後、ア(Ah)・カ(Ka)・マ(Ma)というチベット語の三文字が浮かぶのを見た。さらに続いて、中心がトルコ石のような青緑色の瓦と金色の屋根の三階建ての寺院の風景を見た。これらの状況の描写は、詳細に書きとめられ極秘にされた。

レティン摂政は、聖湖で見た幻影を神託官に詳しく説明した。チベット政府のネチュン神託、ガトン神託、サムイェ僧院のツェウマルポ神託の三人の神託官は、カタ(チベットの儀礼に用いられる白い布)を東方へ投げ五体投地をし、ダライ・ラマ法王14世が生まれ変わる方角についての託宣を待った。そして、それらのどの託宣も同じ方角を指し示していたのである。

ラモ・トゥンドゥプ少年の発見

発見当時のラモ・トゥンドゥプ少年
(現ダライ・ラマ14世)

当時、チベットの交通手段は、馬、ロバ、ヤクに頼るのが普通だった。捜索隊一行がラサから東チベットのクンブム僧院に着くまで4カ月以上が経過していた。クンブム僧院に向かう途中、ケグドーに立ち寄り、レティン摂政からの手紙と贈り物をパンチェン・ラマに贈り、祝福を受けた。そしてこの時一行は、パンチェン・ラマから僧院近辺の3人の転生候補者の名前と特徴を告げられる。そして、クンブム僧院の周辺の環境は聖湖で見たのと酷似していたため、探していた場所はこの付近に間違いないと思うのであった。

当時、国民党政府はその一帯を中国人省長の馬歩青という人物に任せていた。一行は馬歩青のもとへ伺い、新しいダライ・ラマ法王の転生者を探すためにチベット各地域に代表団を派遣していること、自分達がアムドへ派遣された一行であることなどを伝え、援助と協力を頼んだ。

パンチェン・ラマから告げられた三人の候補者の一人に現ダライ・ラマ、ラモ・トゥンドゥプ少年がいた。タクツェル村のラモ少年宅を初めて訪れた様子は以下の通りである。

高僧のケゥツァン・リンポチェは、ロックパという羊の毛皮で作った着物を着用して召使の格好、秘書のロサン・ツェワンは隊長の格好である。一行はラモ少年の母親に自分たちが旅の途中で今夜泊めて欲しい旨を伝えた。母親は身なりのいいロサン・ツェワンを丁寧に応接間へ案内、みすぼらしい格好のケゥツァン・リンポチェを台所へ案内した。この時、3歳にも満たないラモ少年は、台所に来て一行をじっと見つめていた。ケゥツァン・リンポチェが首に巻いていた数珠を触ってマントラの「マニ、マニ」を唱え、さらに欲しいとせがんだ。その数珠はダライ・ラマ13世のものだった・・・。ケゥツァン・リンポチェはラモ少年に「私が誰か解ればあげよう」と言ったところ、ラモ少年は「セラのアカ(この地方の方言では僧侶のことをアカという)」と答えた。そしてさらに「中にいるのは誰だ」と聞くと、「ロサン」と答えたのである。ケゥツァン・リンポチェは、嬉しさのあまり目一杯涙ぐみ、自分の首にかけてあった数珠を取ってラモ少年の首にかけた。ラモ少年は嬉しそうな笑顔を見せながら再び「マニ、マニ」と唱えた。ケゥツァン・リンポチェは、言葉では表せないほど感無量な気持ちになり、ラモ少年を見つめた。翌朝、一行が出発する時、 ラモ少年も一緒に行きたいと泣き出した。ケゥツァン・リンポチェは、ラモ少年に近いうち戻ってくると約束した。

少年との再会、そして14世の即位へ

4歳のラモ・トゥンドゥプ少年(現ダライ・ラマ14世)
とダライ・ラマ14世探索隊 1939年

ケゥツァン・リンポチェは、チベット仏教の暦を参考に再訪の日を選んだ。チベットでは何もかも仏教中心に考える風習があるため、このような場合、大安や吉日の縁日を優先する。ケゥツァン・リンポチェ一行は、早朝から吉祥天母(パルデン・ハモ)の前で特別供養をして出発した。クンブム僧院では、朝の勤行を呼び出す法螺貝が鳴っていた。チベットでは、牛乳、ヨーグルトや水を器いっぱいに持っている人たちに道で出会うのは吉兆とされる。近道をして山に登ると真下にタクツェル村の全景が見え、ラモ少年の家もあった。その風景を見た瞬間、ケゥツァン・リンポチェは、聖湖で見た幻影と酷似していることに改めて驚きを禁じ得なかった。

ケゥツァン・リンポチェは、今回は自分の僧衣をまとい、随行員の方々もそれぞれの地位の服装に着替えていた。ラモ少年の母親は一行を暖かく迎えバター茶を注いだ。そして、ケゥツァン・リンポチェは、「お宅のお子さんは特別な徴があるようなので、少し質問してよろしいか」と訪ねた。母親は、誰かの転生者の認定に来たのだろうと思い、「どうぞご自由に」と答えた。

一行は、ダライ・ラマ13世の遺品をテーブルの上に並べた。まず、非常に似た黒い数珠を二つ並べたところ、ラモ少年は13世の数珠を迷い無く手に取った。その後も13世の黄色数珠、付き添いを呼ぶ時に使った太鼓などを当てた。本物でないほうが魅力的な飾りがあって子供心をくすぶるものであったにもかかわらず、ラモ少年は次々と本物を言い当てた。最後に二本の杖を見せたところ、ラモ少年は初め間違った杖を手に取り、杖をついて歩く真似をしたが、しばらくその杖を眺めた後、本物を手に取った。それはなぜか。最初、手に取った杖も一時期、ダライ・ラマ13世が使ったもので他の高僧にあげたものだったからである。一行は結果に驚愕しながら互いに顔を見合わせ、ラモ少年こそダライ・ラマ13世の転生者に間違いないと確信したのであった。

さらにラモ少年の両親に、ラモ少年の誕生前後に何か特別な兆候はなかったかを尋ねた。誕生前、タクツェル村では家畜が原因不明で死んだり不作が続いたが、これは何か偉い化身が生まれる徴に違いないという噂が村民の間で流れたという。誕生後、寝たきりのラモ少年の父親が急に元気になったという。ケゥツァン・リンポチェは、ダライ・ラマ13世が中国からの帰りの途中に立ち寄ったタクツェル村を美しい場所だと言ったことを思い出した。

こうして一行は、1935年7月6日生まれのラモ少年をダライ・ラマ13世の生まれ変わりと確認するに至る詳しい内容を電報で報告した。一行は一日も早く14世がラサへ出発することを望んだが、中国人省長馬歩青は出発に関して中国銀貨十万枚の身代金を要求、さらに中国銀貨三十万枚を要求してきた。一行にそのような大金はなく、チベット政府に緊急連絡し金額を用意してもらうしかなかった。しかもどこで秘密が漏れたのか、事態を聞きつけた人々がラモ少年を一目見ようとやって来たりして、一行の焦りはさらに募った。これ以上出発を長引かせてはならないと判断、一行は不足金をラサで返済することにし、一行の高官一人が人質として残った。

ラモ少年と一行は、アムドを出発して四カ月近くかけてチベットの首都ラサに到着した。仏教占星術に基づき、1940年1月14日、ポタラ宮殿で即位式が執り行われた。

ダライ・ラマが語る「ダライ・ラマ制度の未来」

(2015年4月現在)79歳のダライ・ラマ法王は、現在北インドのダラムサラに住んでいる。次のダライ・ラマの転生者探しについて、法王自ら次のように述べている。

「チベット仏教文化の伝統に従えば、ダライ・ラマや高僧の転生者探しは、宗教関係の行事であり、政治とは何の関係もない。特に仏教の教えを否定している者にとっては、転生者探しに何の関係もなければ、それについて議論する権利もない。転生者探しは、職員や委員を選出したりすることと異なる。高僧の化身は、常に全ての生きとし生けるもののためになるように考えて生まれくるので、生まれる場所、父母と家系などが重要となる。これはチベット仏教文化の特徴である。

もし、チベットの人々がダライ・ラマの転生者が必要であるなら、私の転生者は、中国支配下のチベット国内ではなく、平和な世界のどこかの国に生まれると断言する。それは、前生がやり残した仕事を引継ぎ成就するために転生者は生まれ変わるとチベット人が信じているからである。前生がやり残した仕事を邪魔したり破壊したりするために生まれ変わる転生者はいない。もし、転生者がやり残した仕事を継承できない国に生まれたら、転生者として生まれ変わる意味がない。つまり、私の転生者を必要とするかどうかを最終判断する権利は、チベット国民にある」

ダライ・ラマは観音菩薩の生まれ変わり

チベット仏教文化の特徴である転生制度は他のどの国にも見られない。特定の子供を輪廻転生者として認定する制度はチベット仏教圏にだけ認められているものであり、すべての儀式や法要はチベット仏教文化の伝統に従って行われている。

現世に自分がこうして存在するのは前世の行いの結果(デープ)であり、現世で善い行い(レーヤクポ)をすれば、その結果は来世に必ずつながるとチベット人は因果応報(レンデー)を信じている。レンデーとはつまり業(カルマ)のことであり、身口意(身は体、口は言葉、意は意識の行い)によって生じる様々な因果関係を指す。全ての生きとし生けるものは、それぞれの行いによって 六道輪廻の世界で輪廻し、生まれては死に、死んでは生まれる。徳を積み善行を行えば罪業がなくなり、最後には輪廻の苦しみから離脱して 涅槃の境地(サンギェ・ゴパン)に到達することができるという。

私たちが自分の業によってこの世に生まれて来ることに対し、転生者 (トゥルク)の多くは世のために自分の意思によって生まれ変って来るとされる。ダライ・ラマ法王やパンチェン・ラマなどの多くの転生者は、人々を救うために人間に生まれ変った者であると考えられている。特にダライ・ラマ法王は観音菩薩の生まれ変りであり、すべての仏の願いを一つにしてチベットの人々を救うため、「雪国」(万年雪に囲まれたチベット)に生まれ変わった化身であるとチベット人は信じている。