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亡命50年の節目の式典「ありがとう インド」における ダライ・ラマ法王のメッセージ

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(2009年3月31日)

親愛なる兄弟姉妹のみなさまへ

チベットは、アーリア人の土地であるインド北部に横たわるヒマラヤ山脈の裏側に位置する雪国です。釈尊はこの土地を祝福され、この土地に仏の教えが広まるであろうと予言されました。カイラス山とマナサロワール湖もチベットにあり、仏教徒やヒンズー教徒などインドの主要な信仰における聖地とされてきました。チベットには、インドを通って大海へと流れ込む4つの大河の源があります。地理的にはインドの高原地域のようなものですから、インドの偉大な師たちはチベットのことを、33人の神々が住む三十三天(帝釈天世界)と呼んできました。チベット民族が誕生したのは、出土品から見るに、少なくとも1万年以上前であると推測されます。ベンガル人の学者であるプラジャナ・ヴァルマー氏によりますと、チベット人は、マハーバーラタ戦争の後にチベットに逃れてきた南インド王国の王ルパティの末裔であるといいます。また、チベットの初代国王は、西暦紀元前150年頃に自分の王国を逃れ、チベットへ亡命したマガダ王国の王子であると信じられています。チベット人はこの王子をニャ・ティ・ツェンポと命名し、チベットの国王に任命し、これがチベット王室の始まりとなったとされています。地理、祖先、王室についてはともかくとして、インドとチベットには長年にわたる親密な関係があります。

7〜8世紀には、チベット人の若者は勉学のためにインドへ派遣されました。トンミ・サムボータをはじめとするチベット人は、インドでの教育を終えると古代インドで使用されていたナーガリー文字をもとにチベット文字を創り、これをチベットの初期の筆記文字に発展させ、さらにはサンスクリット語をもとにチベット語の文法を構築しました。彼らの仕事はチベットの文明開化に貢献したのみならず、釈尊の教えをチベットにあまねく広めることを可能にしてくれました。8世紀には、ベンガル国の王子であったシャーンタラクシタが僧侶に転身してナーランダ大学の高名な学者僧となり、チベットを訪れてチベットで初めての僧院団を設立しました。インド西部出身のパドマサンバヴァ師はタントラ仏教を広め、シャーンタラクシタの弟子のカマラシータもチベットを訪れて仏教を発展させました。

このように、チベットにおいて仏教を確立してくださった師たちのご厚意のおかげで、経蔵・律蔵・論蔵に分類される仏教聖典である三蔵など数多くの仏教の教えがチベット語に翻訳されました。ほかにも、ナーランダ僧院のアーリャ・ナーガルジュナやアーリャ・アサンガというようなインドの偉大な哲学者たちの著作がチベット語に翻訳されました。タクシラ大学、ナーランダ大学、ヴィクラマシーラ大学、オーダンタピュリ大学など、インドの大学において育まれた仏教が、完全かつ純粋な状態でチベットにおいて確立されるに到ったのはこれらの翻訳のおかげです。また、チベット人の学者も常にインドの原典を確認し、勝手な解釈のないようにしてきましたので、インドにおいて衰退した仏教が、今日でもなお、チベット仏教というかたちで完全かつ純粋なまま残されているというわけです。

聖典の翻訳は、7世紀にトンミ・サンボタをはじめとするチベット人の学者が観音経、陀羅尼、大般若経など多くの経典を翻訳したことにはじまります。ブトゥン・リンチェン(1290‐1364)が著した『仏法発展の歴史』によりますと、カワ・ペルツェグ、チョグロ・ルイ・ギャルツェン、シャン・イェシェという3名の翻訳家と93名の偉大なインド人の師たちがこれを監修し、訳文を改めたということです。翻訳官の数を全部合わせますと、700名ほどになります。

アチャリャ・シャーンタラクシタやスレンドラボディの時代であった8世紀後期および9世紀初期からアチャリャ・バルバドラとその弟子たちの時代であった17世紀までには、300巻以上の経典がサンスクリット語からチベット語に翻訳されました。これに対し、サンスクリット語から中国語に翻訳された経典は10巻だけでした。サンスクリット語をはじめとするインドの言語で書かれた経典の多くはチベット語に翻訳され、釈尊の言葉を翻訳してまとめたカンギュールという経典部とインドの師による注釈を翻訳してまとめたテンギュールという論釈部になりました。インドで仏教が衰退した現在、完全かつ純粋なインド仏教の教えを維持しているのが我々チベット人なのです。じつに多くの経典がインドの言語からチベット語に翻訳されましたが、これらはみな、ほぼ厳密かつ正確に翻訳されているとかんがえられています。それが可能であったのは、チベット語がサンスクリット語をもとに創り出された言語であるからであるとかんがえられます。

チベットのような標高の高い土地を訪れるのはじつに困難なことでしたが、それにもかかわらず、パンディット・シャキャシュリー、パンディット・スムリティジュナ、ディーパンカラ・アティーシャなどインド人の師の多くが仏の教えを伝えるべくチベットを訪れてくださいました。また当時は、たくさんのチベット人が仏教を学ぶためにインドを訪れました。彼らの多くは学業を終えるとチベットに戻りましたが、そのままインドに留まった者たちもいました。チベット人の学者のなかには、翻訳官のツァミ・サンギェ・ドラクのように、後にブッダガヤの大僧院長になったケースもあります。また、インド人の師のなかには、トルコ人の侵略の際に僧院を破壊され、チベットへ逃れてきた方々もいらっしゃいました。

このように見てまいりますと、チベットとインドには宗教と文化における強い絆があることがわかります。後に首相となったモラルジー・デサイ氏は、手紙のなかで私にこう語られました。「インドとチベットは同じ一本の菩提樹からなる二本の大枝のようなものです」
これには私もまったく同感です。ゆえに私は、インドのみなさまは我々の師であり、我々チベット人はインドのみなさまの弟子あるいは生徒であると心から思っているのです。

インドにおいて仏教が衰退するにつれ、インドとチベットの精神的・文化的な結びつきは弱まり、交流の機会も減じていきました。しかしながら、チベット人はインドにある仏教徒の聖地への巡礼を続けましたし、インド側からもカイラス山やマナサロワール湖を目指して引き続き巡礼者がやってきました。1959年までは、パスポートもビザも不要でした。インド・チベット間の交易は、インド西部のラダックから現在のアルナチャル・プラデシュ州がある東部まで国境線に沿って続いていました。チベットは、国境線に関する重要な協定に合意していましたし、国境付近の聖地各所に信仰の目的で寄付を贈る習慣もありました。20世紀には、インドの仏教学者であるラーフル(1893-1963)がチベットを三度にわたって訪れ、貴重なサンスクリット語の経典を持ち帰り、インドにおける仏教への関心を復興すべく多大な貢献を果たしました。

政治面におきましては、1904年、チベットは英国領インドとラサ条約を締結しました。そして1910年には、ダライ・ラマ13世がインドへ亡命しました。1913年から1914年には、チベットを独立国家と認めるシムラ条約が英国領インドとチベットの間で調印され、以後、10年に一度これを見直していくことで双方が合意しました。チベット・インド間の交易ルートの安全も確保されました。郵便や電信がはじまり、ラサにはインド大使館が設立されました。インドが独立する数カ月まえの1947年3月には、チベット政府の代表団がアジア関係会議に招かれました。

1956年、釈尊入滅二千五百年記念式典に招かれたパンチェン・リンポチェ(パンチェン・ラマ)と私は、ほかのチベット人僧とともに独立後のインドを訪れました。また、インドにある仏教徒の聖地を巡礼したチベット人の巡礼者たちはみな、大変な親切を受けました。私自身も、仏教徒の聖地のみならずほかの宗教の聖地を巡礼する機会をいただいたことはもちろん、インドにおける産業の発展を拝見して、希望で胸をふくらませたものです。インドの卓越したリーダーたちと会し、アドバイスをいただく機会にも恵まれました。そのなかでも、当時のインド首相であったパンディット・ネール氏からはとくにご厚情をいただき、チベット人に測り知れない恩恵をいただきました。

その年、私はインドでアシュラムを訪ねるかわりにチベットへ戻ることにしました。振り返りますと、実生活におきましても霊性的な側面から見ましても、この判断が正しかったことがわかります。チベットへ戻ったことで、ゲシェ(博士)になるための最終試験を受けるなど宗教的な義務の多くを果たすことができただけでなく、中国政府との関係においてあらゆる手段を尽くすことができました。

チベット政府と私は、チベットと中国が十七条協定に基づいて平和な暮らしを確保できるよう力を尽くしましたが、我々の努力は報われませんでした。チベットの人々はなす術を失い、ついに1959年3月10日、中国の残忍な行為に反旗を翻して平和的蜂起を起こし、事態はさらに深刻になりました。私は事態を収拾して中国の厳しい対応を避けようと力のかぎりを尽くしましたが、失敗に終わりました。結果として、3月17日、私はカロン(内閣閣僚)をはじめとするチベット政府の高官とともにチベット南部へ逃れることになりました。その場所から再度、中国政府と協定を結ぼうと試みたのです。しかし、ラサの状況は3月19日の夜、中国軍が武力による鎮圧に踏み切ったことによりさらに深刻な事態となり、それから24時間のうちに、罪のない2000人以上のチベット人が殺害され、負傷し、刑務所に入れられました。なす術を失った我々には、インドへ逃がれる以外に道はありませんでした。数々の困難を経て、3月31日、我々は無事に自由という光の国であるインドにたどり着くことができました。私の人生においてもっとも重大な日々であったと同時に、チベットの人々の歴史におきましてもこれがターニングポイントとなりました。

チベット人に対する中国軍の容赦ない弾圧はチベット全域に広がり、その年にはおよそ10万人のチベット人が現在のアルナチャル・プラデシュ州やブータンへ逃れ、インドに亡命しました。インド政府はじつに寛大にこれを受け入れ、すぐにチベット人のための難民キャンプをアッサム州やベンガル地方に作ってくださいました。そしてインド政府が食糧、衣類、毛布、医薬品の提供というかたちでチベット人を支援してくださったおかげで、チベット人難民は安堵を得ることができました。やがて、亡命した僧侶や尼僧は再び仏教の研鑽を積む機会を得、子どもたちは教育を受ける機会を得、年配者は住む場所を得、働ける人はそれぞれに応じた仕事を得ることができました。つまり、インドが亡命チベット人を物質的に援助してくださったおかげで、我々チベット人はチベットの宗教、文化、アイデンティティをまもることができたのです。難民となったチベット人がインドのあちこちに散らばることなくチベット人コミュニティを作り、そのなかで共に暮らし、現代教育のみならずチベットの言語・文化・宗教を学べるチベット人のための学校に子どもたちを通わせるという目標をもって居留地を開拓することができましたのは、とりわけパンディット・ネール氏の先見性とご配慮のおかげなのです。この50年間にわたり、10万人以上のチベット人難民がインド人のみなさんと同様の社会保障を受けてきました。自国の問題があるにもかかわらず、誠心誠意を尽くして我々に絶えず援助の手を差し伸べてくださったインド中央政府ならびに州政府に、我々は深く感謝いたしております。インドのみなさまが友愛の情を示してくださったおかげで、我々はインドを第二の故郷として、チベット人の技術や能力を活かして生きてくることができました。インド全域のみなさまが、精神的および物質的な支援の手を差し伸べてくださったのです。この50年を振り返りますと、インドに亡命の道を求めた我々の選択は正しかったとあらためて確信いたします。

カースト、宗教、政治などの所属にかかわらず、インドのみなさまはじつに幅広くチベット人を支援してくださり、インド・チベット友好会も設立されました。個人的にチベット人に同情し、チベット問題や亡命チベット人の暮らしのためにご尽力くださったインドのみなさまの数は数え切れません。これも、師が弟子に心を配るインドの伝統の反映であるように思われます。インド由来の我々のアイデンティティと文明が絶滅の危機に晒されていたまさにそのときにインドのみなさまが見せてくださった道徳的および物質的な雅量は、まさに「困ったときの友人こそが本当の友人である」という英語の諺そのままでした。

インドとチベットの言語や習慣の違いを考慮しますと、我々がインドに住むようになったことで、はじめのうちは、困惑や不安を感じられたかと思います。しかしながら、それでも我々は、概して互いを理解し合い、調和を築くことができました。これはなによりのよろこびです。あるいはこれも、インドの大切な伝統である寛容と非暴力の精神のあらわれといえるかもしれません。チベット人難民の数は、インドにある他民族の難民コミュニティのそれと比べれば小規模なものですが、それにもかかわらず、我々はインド政府とインドの人々から最大級のご支援をいただいています。

チベット人難民は、インド政府が提供してくださった小さな区画を整地するほかに、冬季には羊毛製品を市街で売る商いもしています。このような商いをさせていただけることは、生活費を稼ぐ機会となることはもちろんですが、インドの人々と触れ合い、互いへの理解を深める機会ともなっています。チベット人難民は経済的に自立できるようになりましたが、それでも今もまだ、我々がチベット人学校やチベット文化施設を設立できますのはインド政府のご支援のおかげなのです。

私個人のレベルでいいますと、亡命下で私が自由を享受できますのは、インドのおかげです。インドのおかげで、私は釈尊の教えを実践し、人類がよりよく生きられるように活動させていただけるのです。『Freedom in Exile(亡命生活における自由)』(邦訳:『ダライ・ラマ自伝』文芸春秋)というタイトルを私の自伝につけましたのも、私がインドで自由を享受させていただいていることのあらわれです。インドを私の宗教的な故郷とかんがえ、非暴力と慈悲というインドの思想を伝えるべくメッセンジャーのように各国を巡ることができますのは、私にとりましてはじつに名誉なことです。

ひとりの人間としての私の務めは、幸福な人生の鍵である心のあたたかさなど人間的な価値を促進させることにあります。第二の務めは宗教家としてチベット問題に取り組むことにあります。ダライ・ラマという名をもつ者としてというよりは、チベット内外のチベット人が私に信頼をおいてくれているという理由からこれを第二の務めとしています。チベット人の安寧は私の日々の懸念ですから、私は自分のことを、中国共産党支配のもとで何十年も自由を奪われ、抑圧され続けているチベット人の代わりに意見を述べる、ただのスポークスマンとかんがえています。

この50年間、私は公的にも私的にも数え切れないほど多くのリーダーや有識者のみなさまから惜しみない親愛の情や激励をいただいてまいりました。彼らは信頼と友愛の情を私に示してくださり、私が生涯大切にすることとなる貴重なアドバイスを授けてくださいました。そのすべての方々の名前をここで挙げることはとてもできませんが、しかし、ほんの一部として、インド総督ラージャゴーパーチャリ氏、インド共和国初代大統領ラジェンドラ・プラサド博士、インド初代首相パンディット・ジャワハルラール・ネール氏、アチァリャ・ヴィノバ・バベ氏、ジャヤプラカシュ・ナーラヤン氏、アチャリャ・クリパラニ氏の名前を挙げさせていただきたいと思います。

インドのみなさまのチベット支援は2000年間続いていますが、とりわけこの50年間につきましては、測り知れないご支援をいただきました。インドに対する我々の感謝の気持ちは、とても言葉では言い尽くせません。しかしながら、インドに亡命させていただいて50年というこの節目に、どれほどの恩義を感じているか少しでもお伝えいたしたく、今日、ここにお集まりいただいた私のインド人の友人であるみなさまを通して、インドの人々とインド政府に、私の深い感謝の念を表明させていただきたく思います。

仏教は、1500年前にインドからチベットへ伝えられました。その後、仏教誕生の土地インドでは衰退したものの、我々はチベットにおいて仏教の教えをまもり、ほかの国の人々が仏教の教えから恩恵をいただけるようにお手伝いさせていただくことができました。インドという国のご親切に、わずかながらでも報いることのできる方向へ歩んでくることができたと我々は感じています。

インドにおける仏教復興のためにお力添えできますなら、これほどうれしいことはありません。この夢を実現すべく、パンディット・ネール氏は、シッキム・チベットロジー研究所、レーとラダックの中央仏教研究所、ヴァラナシに中央チベット研究大学を設立されました。これらの研究機関では、かつてのインドにあって今はない重要な経典がチベット語から再びサンスクリット語などのインドの言語に翻訳されています。このようなプロジェクトは成功し、満足のいく成果が得られています。これまで我々が仏教文化を維持することができましたのはインドのおかげであり、その感謝の気持ちのしるしとして、我々は、チベット語からサンスクリットに翻訳した63巻の経典、ヒンズー語などほかの言語に翻訳した150巻の経典をはじめ、釈尊の言葉を翻訳してまとめたカンギュール(経典部)とインドの師による注釈を翻訳してまとめたテンギュール(論釈部)の全巻をインド国家に提供させていただく用意があることをみなさまにお伝えさせていただきます。

チベット内外のすべてのチベット人を代表して、私は、深く熱い感謝の念を「ありがとう」の言葉に託したいと思います。

そして同時に、我々の隣人であり、仏教文化を分かち合い、長年の絆をもつブータンとネパールのみなさまに対し、チベット人難民に避難所を提供してくださっていることへの感謝の念を捧げます。そして、チベット人を住まわせてくださっているすべての国々のみなさまに感謝の念を捧げます。

生きとし生けるすべてのものの幸福のために祈りを込めて

2009年3月31日
ダライ・ラマ


(翻訳:小池美和)