新社会主義文化によるチベット文化の破壊

新社会主義文化によるチベット文化の破壊

Destruction of Tibetan Culture through a New Socialist Culture

チベット亡命政権情報・国際関係省 2000年7月発行

2000年6月22日、中国は、チベットにおける文化的、宗教的、教育的発展が大きく進展したと主張する白書を出した。実際にはその白書が、チベットを文化的に抹殺するための中国の抑圧政策を隠蔽するための新たな試みであることは明白である。
従って、チベット亡命政権は、チベット内の状況に関する事実を以下に示す。

序文

豊かな文化遺産を持つ偉大な国チベットは有史2千年以上にも及び、また、考古学的発見が証明するように、6千年以上の文明を持つ。チベットは古代より、特に7世紀に仏教が伝来してから、素晴らしい文化の宝庫を築いてきた。

ところが、共産中国の「民主的改革」である、破壊的な毛沢東主義運動が1958年に始まると、チベットは文化的に不毛の地として貶められ、チベット語の存続すらその意義が問われるようになった。

1988年、北京で開かれた中国チベット学研究センター第一回会議で、故パンチェン・ラマはこう語った。

「チベットでチベット語を使うには、チベット語を学ばなければならないと言わざるを得ないのは恥ずかしいことだ。1300年以上も、母国語であるチベット語と上手につきあってきた国が、共産党による解放後、たった20年で完全に自分の国の言葉を失ってしまった。これが、チベットでのチベット語使用を促進する訴えをしなければならない理由である」

1980年代から、パンチェン・ラマ10世とチベット人愛国者たちのおかげで、それまで文化的廃墟と化していたチベットに、チベット文学と芸術が少しだけ復興した。だが、かつて「世界の祭壇」だった地には芳醇な文化の宝庫が花開いていたのであり、今生き残っているのは単なる断片と影にすぎないと言わなければならない。

確かに、チベットの伝統的な社会構造は、国民の期待と願望のすべてを満たしていたわけではない。しかし、この面積250k㎡の国は、広範囲に亘る文化の宝を保持し、崇高な精神を持つチベット人ひとりひとりがその文化を守ってきた。この遺産を唯一破壊したのは中国である。そして、破壊は続く。中国は、自らがチベットの政治的代表者であると45年間主張してきた。21世紀となりつつある今、中国は「チベット文化の保護者である」という主張も新たに付け加えている。

古代チベットの写本と文化的な工芸品の保護:実情は単なる展示品扱い

1958年、中国は「民主的改革」に着手、続いて一連のイデオロギー運動をチベットで展開、僧院と尼僧院の99.98%を廃墟にするという爪跡を残した。共産中国は、貴重な仏像などの彫像品、スピリチュアルな工芸品、古代の写本、経典、宗教的遺跡、仏画もろとも、総計6千以上の寺院、僧院、尼僧院を破壊した。伝統的な価値を有するチベットの宗教と文化は「四旧(Four Olds)」と分類され、信仰する者は虐待され、刑務所に入れられ、拷問・処刑された。「民主的改革」の到来後20年で、チベット文明は絶滅の危機へと追いやられてしまった。

それから1978年、中国は「自由化」策を導入し、ダライ・ラマのポタラ宮、ラサのジョカン大僧院を始め、セラ、デプン、タシルンポ、サキャ、クンブム、ラプラン・タシキル、デルゲ・ゴンチェン、チャムド・ゴンパの主要な僧院など一部の偉大な歴史的建造物の復興に最小限の補助金を出した。その他の僧院の復興はチベットのイニシアチブ、労力、寄付金によるものである。

中国同様に、今のチベットに宗教の自由はない。当局は、五体投地、バターランプを捧げること、宗教的な歴史的建造物を巡礼することなど、儀式的実践は許可している。ただし、中国のイデオロギーによって破壊された地域の寺院、僧院、尼僧院を再建したければ、政府に許可を申請しなければならないし、許可を得るのは至難の業だ。18歳以下のチベット人は僧院のコミュニティに参加することが禁じられている。

現在チベット中で、僧と尼僧はダライ・ラマ法王を批判することを強いられ、ダライ・ラマ法王の写真を所持することが禁じられている。彼らは、中国が指名したパンチェン・ラマであるギャルツェン・ノルブへの忠誠を誓い、ダライ・ラマ法王が認めたゲドゥン・チョーキ・ニマ少年を非難するよう強制されている。ゲドゥン・チョーキ・ニマ少年の所在と状態は今のところ不明となっている。これらの規則を破ると、僧院や尼僧院から追放され、拷問を受ける。僧院や尼僧院が閉鎖される場合もある。1999年の終盤には11,409人の僧と尼僧が追放され、約20の僧院と尼僧院が閉鎖された。この統制手段の一環として、僧院と尼僧院の管理は「民主的管理委員会」として知られる組織の下に置かれた。加えて、中国の警察は僧院と尼僧院に居を構えた。どこの僧院・尼僧院でも、僧と尼僧の多くは、とても低い地位しかない。彼らの主な役割は観光の見世物になることであり、僧院と尼僧院を管理することである。自らが信仰する宗教を、伝統的なレベルに達するほど熱心に勉強し、実践する機会はない。延々と続く「政治教育」会議に出席しなければならないからだ。厳粛な僧院の祝祭は市場経済のイベントに変わり、祭の持つ精神的な重みはすっかり失われてしまった。近代化の名のもとに、北京は中国の現代文化と社会的基準をチベットに広めている。このため、今のチベットの中心都市は、多数の売春宿、ディスコ、ギャンブル場、バーの本場となってしまった。

自由化時代前の破壊政策で、チベットの宗教的記念物と僧院の小美術品の大半が破壊された。チベット人によって救い出され、隠された数少ない品々は新たに修復された僧院に寄贈された。中国政府がこれらの品々を所有し、あたかもチベットの保護者のように振舞うのは、実際、キツネがニワトリ小屋の番をするようなものである。

伝統的なチベット社会を無知で野蛮な遅れたものとして描くための「新社会主義的チベット文化」の促進

「芸術は社会主義的目的のために奉仕しなければならない」延安で開催された「第1回芸術と文化に関する会議」で毛沢東は言った。この状態は共産主義支配者の指針的原則として存続している。チベットや他の少数民族の文化的後進性を証明するために、中国の知識人は「5千年の歴史を持つ漢文化」というフレーズを用いる。チベットに在住する中国の知識人はこの考え方によって、自らの職務はチベット文化を改革することなのだという確信を強め、チベットの文化的遺産がいかに遅れているかを示すことで改革が成し遂げられると信じている。この知的優位性と政府の政治的計画が組み合わさり、一連の宣伝戦がチベットで起こった。その結果、二つの文化が展開した。ひとつは伝統的なチベットの精神文化であり、もうひとつは共産主義によって培養され、チベット文化にも中国文化にも属さない「キャンパス・カルチャー(大学構内の文化)campus culture」(※)である。

伝統的な精神文化が封建的支配者の文化として弾劾される一方で、「キャンパス・カルチャー」は社会主義的新生チベット文化として売り込まれた。「キャンパス・カルチャー」は小学校から大学レベルまで教授されるが、チベット社会の現実とは一切関連を持たない。

底の浅い「キャンパス・カルチャー」で得る知識は詩人、作家、翻訳家、ジャーナリストや中国政府の公務員として生計を立てる手段にはなるかもしれない。だが、チベット文化を発展させるパワーは与えはしない。

中国の言う「チベット文化の発展」とはつまり、新社会主義チベットを賛美する文学、映画、歌等を制作・普及し、伝統的なチベットを無知で、野蛮で粗暴な後進社会として糾弾することなのだ。

※:原文campus culture(中国共産の)大学構内で(培養される)文化という意味

チベット人の興味を削ぐために利用されるチベット学研究

中国白書は、一般的なチベット学と専門的なチベット医学の研究が大進展したと主張している。我々が見るように、最近のチベット学研究の多くは、インド・ダラムサラにあるチベット文献図書館(Library of Tibetan Works and Archives)の積極的な支援を得て1973年から欧米の研究家らが開拓してきたものである。現在、欧米の研究所や学生はチベット学に対して非常に高い関心を示しており、中国政府は広範囲に及ぶ独自の研究活動を始めざるを得なくなった。だが、中国が支援するチベット学研究の目的は客観的事実にはない。従って、チベット人の興味に貢献するというよりは、むしろ害悪になっている。

チベット学の研究者たちは、研究結果が中国のチベット支配を確実に裏付けるよう、厳密な管理のもとで働いている。例えば、学会ジャーナル「ボージョン・シージュBod-jong Shib-jug」の創刊号(1982)では、党書記長代理兼チベット自治区当局委員長のドジェ・シェリン(Doje Cering)が記した、チベットでの研究活動のための基本原則を定める記事を掲載した。以下はその一部である。
「我々は、マルクス=レーニン主義と毛沢東の思想は、科学者全員が追従する指針であると信じる。これらの思想は、我らのチベット社会科学協会にとって唯一の指針的原則である」
「チベット学に関する研究活動はおしなべて、母国統一の目的を一層強化するものでなくてはならない」

ダンカ・ロプサン・ティンレーは、チベットで研究するチベット学研究者のアプローチに対する懸念を表明しつつ、前述の学会ジャーナル「ボージョン・シージュBod-jong Shib-jug」の1985年刊行のある号でこう書いた。

「チベット学という名のもとに行われる、チベット人や他の少数民族グループに関する研究が、彼らを(さらに小さな民族グループに)分裂させることを目的とするのならば、その研究は科学的とは言えない。だが、少数民族研究所の研究者のうち数名はそのようなアプローチを取っている。それにこのアプローチを批判する者は、より偉大なチベットとか地域民族主義といった考えを好んで持っているとして告発される」

従って、中国のチベット学研究はチベットの愛国主義を攻撃し、チベットが中国の割譲不能な一部であるという主張を支持する目的のために行われているのは明らかである。中国白書は、チベットの伝統医学がチベットで新たな活気を取り戻したと述べている。だが、白書は、チベットの古代伝統医学の破壊者が中国共産党自身であることについては触れていない。

中国侵攻以前のチベットには多数の研究所、個人や僧院による開業医が存在した。彼らは若い医師・薬剤師を養成し、地元住民が求める医療に応えていた。チベット伝統医学は古代チベットの法王たちの時代に大きく花開いた。8世紀、ユトク・ヨンテン・ゴンポ(Yuthok Yonten Gonpo)は何千人ものチベット人医師と薬剤師を育成した。11世紀、偉大なる翻訳者、ロツァワ・リンチェン・ツァンポ(Lotsawa Rinchen Zangpo)はンガリ(チベット西部)のトディン僧院に医学大学を設立した。1643年、ダライ・ラマ5世はラサ近くのデプン僧院にドペル・リン(Drophel-ling)医学校を設立し、1695年にはサンゲ・ギャッツォ(Sangye Gyatso)がラサに医学研究所を開いた。1916年、ダライ・ラマ13世は、ラサでチベット医学・暦法研究所を開所させ、僧院やチベット各地から学生を入所させた。卒業すると、学生のほとんどは生まれ故郷の村へと送り戻され、村人に尽力した。カムやアムドの多くの僧院もまた、医学校を組織化した。

チベット医学は幾世紀にも亘って、国や私人によって奨励され、保護され、発展してきた。ところが、1959年、中国は17世紀に設立されたラサの医学研究所(前述)を砲撃。今日でも、この偉大な研究所の荒れ果てた廃墟が残っている。

文化大革命(1966年~1976年)のあいだ、チベット医学は「迷信的で遅れた」伝統だとされた。多数の高名な医師たちが中傷され、「組み敷かれ」、労働収容所に閉じ込められた。その顕著な例がアムチ・ジャンパ・ティンレー(Amchi Jampa Thinley)であり、彼は後に復職し、中国で最も博学な開業医の一人として公認された。

だから、1980年代初めまでチベット伝統医学を破壊し、無視してきたのは中国政府に他ならないというのが現実である。一方、ダライ・ラマ法王は亡命中にあって、1960年にダラムサラでチベット医学・暦法研究所を開所することで、この伝統医学の発展を存続させ、奨励してきた。研究所及びその医師と薬剤師たちはインドと全世界にチベット医学の知識を広める動力源になっている。国際的な医学界が、従来の医学に代わるチベットの医学の役割と価値を承認し始めると、中国政府は自らの政策を再検討し、ラサでもチベット医学及び占星学研究所を復活させた。チベット医学と薬剤学がチベットで復活したのはこういう次第であった。

チベット語を廃止させる中国の動き

チベット語が、話し言葉も書き言葉も「チベットの社会生活で全面的に広く使われている」、「チベット語は法に守られている」という中国の主張は、チベットの一般的な現実とは完全に矛盾している。
今日のチベットでは、チベット語を勉強する者に将来的な見込みはないと広く思われている。

「21世紀の雪の国の民へ向けた大いなる秘密」(1996年チベット北東部ゴロクのセルタル・テクチェン・チョーリン僧院Serthang Thekchen Choelingが出版)という本で、ケンポ・ジグメ・プンツォク(Khenchen Jigme Phuntsok)はこう書いている。

「実際、現在のチベットではチベット語は一切価値がない。例えば、チベット語で宛先を書いて手紙を出しても、チベット以外の国では無論のことだが、チベット内においても相手に届くことはないだろう。旅をすれば、いかにチベット語に秀でていても、バスの時間を知ったり、チケットの座席番号を読むことはできないだろう。県の中心部または市内で病院や店を探さなければならない場合でも、チベット語ができても何の役にも立たないのだ。チベット語しかできない者は、日用品を買うのも一苦労すると知ることになる。母国で母国語が役に立たないとしたら、いったい他のどこで役に立つ?こんな状態が長く続けば、チベット語はそのうち消滅してしまうだろう」

「チベット語とチベット文化を学べる学校はチベットにはほとんどない。さらに、親たちは子どもを学校に送らなくなってしまった。それというのも、小学校ではチベット語よりもむしろ中国語を教えているからだ。中国語を学んで中学校を卒業しても、チベットで就職できる見込みはない。牛の番か野良仕事で終わるだけだ。もちろん、チベット語を学ぶ機会はわずかながらにある。だが親は、チベット語が日常生活で用を足さないことを知っている。だから、子どもを学校にやる理由はないというわけだ」

「市や県の中心部では、両親がチベット人なのに、チベット語を話せない人々がいるといった深刻なケースがある。彼らの多くは、チベット人らしさを失ってしまった。おまけに、チベット人の役人が、正統なチベット語を話せない。彼らが使う単語の5分の1から3分の2は中国語だ。だから、一般のチベット人は彼らが言っていることを理解できない」

1987年、「チベット自治区(TAR)」議会は、新しい中学校の生徒全員が1993年までにチベット語で授業を受けなければならず、1997年までには高校でも、ほとんどの科目をチベット語での授業にするという法案を通過させた。しかしこれらの計画は実施されることは決してなかったのである。もっと悪いことに、1997年4月、チベット語に関する1987年の政策を取り消すための公式声明が発表され、「TAR」共産党の書記長代理テンジンは、こう述べた。「児童がチベット語でしか授業を受けられないという1987年の決定は、生徒の育成に役立つことはないだろう」「1987年の政策が非実用的でチベットの現実に則していない」

1989年、パンチェン・ラマ10世のイニシアチブで、チベット語による実験的なクラスが4クラス、中学校に設けられた。1995年、「チベット自治区」教育委員会はこの実験的なクラスの成功を認め、地方の中学校までを含め、チベット語による教育を徐々に普及させていくことを要請した。しかし1996年、中国当局は、このプロジェクトを放棄。チベット人のあいだに愛国心を育むと見なされたからだ。

現代チベット一流の文化人・識者であり、中国にも「国宝」として認められていた故ドゥンカー・ロプサン・ティンレー(Dungkar Lobsang Trinley)は、チベット語発展の強力な活動家だった。1992年に亡くなるまで、ドゥンカーはチベット語の苦境に対して多大な懸念を表明してきた。以下はその一部である。

「私たちは危険地点に到達してしまった。今日チベットでは、過去40年に及ぶ民族グループ政策の明確な目的にもかかわらず、チベット語に堪能な人々が減少しつつある。政府の全役所、会議、公用文で使われる第一公用語がチベット語であると宣言されているにもかかわらず、あらゆる場所で中国語が仕事で使われている」

中国文化を教えるための一般大衆教育

中国当局が主張する通り、1959年以前のチベットには教育機関がほんの数える程度しかなかったのは本当だ。だが、1959年以前のチベットには幾千もの僧院による施設があり、伝統的な智慧を学ぶ総合施設としての役割を果たし、人々の教育への要求を満たしてきた。

中国政府は、「大衆文化」を発展させるために、この数十年重要な責務を果たしてきたことを自慢している。だがこの一般大衆教育制度はごく最近の現象というのが現実だ。「民主的改革」、とりわけ文化大革命の混乱と狂気のせいで、チベットでは1980年代初期まで一般大衆教育制度が定着できなかった。

1980年、中国は「ダライ・ラマ法王の中国帰還」を奨励するための国内政策として、少数民族のための社会的・経済的政策をチベットに適用した。この政策の一環として、チベットでの教育施設改善のために真の努力がなされた。だが、このイニシアチブも資金不足のせいで無に帰した。調達可能な資金の大半はいずれも、中国の最高統治者、トウ小平最大のプロジェクトである市場経済発展のために投じられた。結果、1980年から1989年にかけて、「チベット自治区」の小学校の62%以上が閉鎖され、生徒数が43%にまで落ち込んだ。(参考:チベット自治区統計年鑑1995年版)

1980年5月、全国少数民族省の国家委員会を率いるヤン・ジンゲン(Yang Jingren)は、「曖昧な一般化や専横的な均一性ではなく、民族性と地域の現状に則して物事を進めていかなかればならない」と語った。しかし、実際には、チベット文化よりも、中国文化の知識を伝えるための教育カリキュラムがあつらえられている。

その後1994年、中国はチベットに義務教育政策を適用した。しかし、チベットの人々には有益ではなかった。政府が1984年以前の経済政策を変更しなかったためである。この政策は、地方の住民に各自で小学校教育に資金を出すことを要求し、県レベルの行政から資金算出と教師の給料のための最小限の助成金が出るにすぎない。チベット人の大多数が地方に住んでいるため、これらの経済政策は不利に働き、チベット人は義務教育政策の恩恵に浴することができなかった。ほとんどのチベット人は子供を学校にやるだけの余裕がなかった。1994年6月4日、チベット自治区当局議長ギャルツェン・ノルブ(Gyaltsen Norbu)は「TARの子供の3分の1が学校に通うゆとりがない」と認めた。

1984年以前の経済政策は、地方と都市部に極端な教育格差を生じさせた。より多額の政府資金を受ける学校は、中国人が圧倒的多数を占める都市部にある。

チベット人の多くは、子供たちをチベット亡命コミュニティの教育施設に入学させるために、インドへやらなければならないが、それにはそれなりの理由がある。ダラムサラに本拠地を置くチベット人権・民主センターの報告書によると、1984年以来6千人から8千人のチベット人の子供たちと青少年がインドとネパールで教育の機会を求めて、チベットから逃れてきた。

中国白書は、1990年から1995年にかけて中国政府が10億3千万元をチベットの一般大衆教育促進に投じたと主張している。だが、現実には予算の大部分が中国に住むチベット人の教育費に費やされ、その目的はイデオロギー的に洗脳されたチベット人集団の新世代を育成することにあった。チベットの施設改善が目的ではなかったのだ。

中国白書は、中国政府の過去数十年に亘るチベットでの教育実績に関する感動的な統計を誇りにしている。ただし、「チベット自治地区」他、青海省(アムド)とカムのチベット地域がいまだに中国の教育指標の最下位に属し、中国で最も遅れている貴州省より更に遅れているということには言及していない(中国人間開発報告書1997年版より)。つまるところ、1959年以来中国政府がいかに多くの施設をチベットに開発しようとも、チベット人教育の最優先目標は常に、中国への政治的忠誠を奨励することだったである。このことは、1994年の「チベット自治区」教育会議での「チベット自治区」党書記長陳奎元(Chen Kuiyan)の演説に明確に反映されている。「教育の成功は、大学や高校の卒業生に出された卒業証書の数にあるのではない。最終的には、我々の卒業生がダライ・ラマ派に反発するか、共鳴するかにあるのであり、我らの偉大なる母国ならびに偉大なる社会主義的目的に忠実か無関心かにある」

マスメディア 共産中国のプロパガンダの道具

中国白書は、「52の新聞と雑誌の発行」、テレビ局、ラジオ局などの設立を誇っている。だがそれらは客観的で公平なニュースと観点を自由に広められるのだろうか?肝心なのはこの点だ。

過去、全体主義国家の常であったように、中国政府はチベットのマスメディアを専有化し、共産党のプロパガンダの道具として利用している。その唯一の目的は、チベット人を洗脳して、中国支配に完全に従属させることだ。中国に占領されたチベットでは、メディアの私的所有と出版の自由は憎むべき対象となっている。実際の話、ポスターを貼ったり、反対意見のスローガンを叫ぶだけで刑務所に送ったり、拷問したりする政府に出版の自由を期待するのはどだい無理というものであろう。

さらに、プロパガンダ効果を確実にするため、中国は徹底的かつ組織的な努力をして、外界から流れてくる全く別のニュースや観点に対して壁を築いている。チベットでは、ダライ・ラマ法王の発言があるオーディオ映像と印刷物は禁止され、そのようなものを所有していたチベット人の多くが長期に亘る懲役刑を受けた。中国政府はまた、ノルウエー発の「ボイス・オブ・チベット」、アメリカ合衆国発の「ボイス・オブ・アメリカ」と「ラジオ・フリー・アジア」のチベット語によるラジオ放送を妨害するために、多額の費用を投じている。

また皮肉なことに、チベットには世界最古かつ最も高度に発達した独自の伝統的な書き言葉があるにもかかわらず、チベット当局は、中国語がチベットのマスメディアでは優勢だとして中国語を頼りにしている。チベット人民放送局とラサ・テレビジョンは放送時間のほとんどを中国語で放送する。また中国白書が公言するように、チベットで発行されている合計「52の新聞と雑誌」のうちチベット語で出ているのはたったの「14誌と10紙」にすぎない。あまり知られていないが、おかしなことに、チベットの最大紙チベット・デイリーのチベット語版リポートと記事の大半は、前日に出た中国語版の翻訳にすぎない。

「6600もの書籍」を発行したとする主張についてだが、共産党の公的路線から逸脱した本は一冊も出ていないというのが周知の事実である。国家のプロパガンダにあえて意義を唱えようものなら、その作家は失職し、「反革命的」プロパガンダを支持したとして刑務所行きになるだろう。チベットから出ている刊行物のほとんどが、チベットの歴史と文化に対するチベット人の見解を嘲り、一部はあからさまにチベットの歴史、文化、伝統的な智慧を馬鹿にしている。ニュースメディア同様、チベットの出版事業はチベット文化発展に貢献しない。チベット人を無知なままにして、共産主義支配者の服従下に押さえ続けているだけである。

結論

チベットの宗教と文化を破壊したことを取り繕うために、立派な統計をひけらかし、刊行しても意味はない。

この50年間で、中国は6千以上のチベットの寺院、僧院、尼僧院を破壊し、極めて貴重な彫像と宗教的な美術品を略奪・売却した。また、中国がチベットを占領した直接の結果として、120万人以上のチベット人が非業の死を遂げた。

さらに最近では、チベットの天然資源を搾取し、チベットへの中国人移民を増加させるために、「中国西部開発計画」が考案された。これはチベットのかけがえのない文化と民族性を絶滅させるための、より大きな新しい脅威となっている。


チベット亡命政権情報・国際関係省 2000年7月発行
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