2003年2月4日 BBCチャイニーズ・サービス)
ダライ・ラマ猊下にお会いしたときにはどう振舞ったらいいのか。
このチベットの精神的指導者、もしくは本人の言葉いわく「一介の仏教僧」は、部屋へ入ってくるなり温かく手を差し伸べ、声高に挨拶の言葉をかけた。インド北部、ダラムサラの頂にある住まいにてBBCのインタビューを受けたとき、ダライ・ラマはチベットの将来について中国と合意に達することができるであろう、と楽観した意見を述べた。自身40年以上にわたって亡命生活を送っているにもかかわらず・・・
昨年9月におけるダライ・ラマの特使の歴史的な中国訪問後も、中国側との直接接触が現在も続いていることを、今回おそらく初めてダライ・ラマは明らかにした。
友好回復
ダライ・ラマと直に会ったときにまず気がつくのは、小豆色とからし色のゆったりした法衣ではなく、その莞爾とした表情であろう。
チベットの将来についての考えを述べている際にも、しばしば腹の底から響いてくるような、喜びに溢れた元気な笑い声を立てる。
ダライ・ラマの特別使節団は3週間の中国訪問中、北京で中国政府高官と会合をもった。またチベットの首都ラサへも足を運び、ダライ・ラマが育った室数1000室を数えるポタラ宮殿をも訪れた。
今回の訪問は、その亡命中のチベット指導者と中国政府との1993年以来初めての直接接触であり、雪解けとして賞賛されている。
■「中道」の精神
この68歳になるノーベル平和賞受賞者は、1980年代後半より非暴力を標榜しつつ、母国の「完全なる自治」を求めている。中国側はその広大な地域チベットを中国領土の一部と見なし、議論の余地無しと主張する。
ダライ・ラマの「中道」に基づく提案とは、中国政府がチベットの外交並びに防衛を掌握し、その一方でチベット人が教育、通商、環境、宗教、その他国内の細々したことについて全ての責任を負う、というものである。この妥協案は、1980年代に故・鄧小平中国最高指導者によって敷かれた路線に基礎を置くものである。鄧小平はチベットの将来について、独立以外についてならば、どのような問題でも話し合う用意がある、と述べた。しかし中国政府側はこのダライ・ラマの提案を、もう十年以上にわたって懐疑と批判とでもって接してきた。ダライ・ラマのチベット独立は求めない、という提案を、中国は繰り返し疑ってきている。中国側指導者からすれば、いわゆる「中道」などとはダライ・ラマがチベット独立を狙って仕掛けた罠に過ぎない、と映るのだ。
一度に一歩ずつ
—もし中国と話が纏まった場合、ラサでなく北京に住む気持ちはありますか—
「私が関心を寄せているのは、600万のチベット人達の将来と幸福です。もしチベットの自治について中国政府と私とで合意ができたら、北京であろうとラサであろうと、私の住まいは話し合って決めればよい個人的なことです。」
「もし合意が成立したなら、一僧侶として独り山深い僧院で隠遁生活を送るでしょう。」
しかしダライ・ラマの中国政府に対する妥協的な態度は、すでに亡命チベット人社会の中で憤怒を巻き起こしている。ダライ・ラマは、亡命下の若いチベット人の間で不満や好戦的傾向が大きくなってきていることに気づいている。チベットの完全独立のためには暴力も含めて手段を辞さず、といった運動に参入している者達もいる。ダライ・ラマはこのことを非常に心配している。
「もし若い者たちの組織が暴力に訴えるべきという態度に出るのなら、私は身を退くでしょう。」
中国の眼から見れば、1950年に中国共産軍によって「平和的解放」を迎える前のチベットは、ダライ・ラマの封建的神権政治による後進的で文明化されてない国だった。中国政府からすればチベットは、特に1980年代中国の「門戸開放」路線以来、中国統治下で高度に発展したのであり、経済状況の変化はチベット人にモダンでより良い生活をもたらせた、ということになっている。しかしチベット亡命政権や国際的な人権擁護団体などは、中国統治下チベットでの宗教や環境の破壊と共に人権蹂躙を批判してきた。チベット亡命政権によると、昨年2,800人のチベット人が政治的または文化的弾圧を理由に国外脱出してきた、ということである。
ダライ・ラマの健康状態
ダライ・ラマはもう1年程前に深刻な病に陥ったが、西洋とチベット医学の両方によって完全に回復した、とBBCに語ってくれた。病に罹ってから数ヶ月後には、また諸外国訪問の旅に出た。
と云って再びくすりと笑った。
「チベット国内で起こっていること、特に宗教的迫害について非常に憂慮しています。」
「中国は現在変わりつつあり、希望を持ち続けていられます。」
「チベット問題を解決するために、中国を助けたいだけなのです。」