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来日歓迎レセプション〔第一部〕「人類の未来と人間の心」

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(1995/04/04 東京)

今回の短い訪問の間に、日本の友人の皆様、兄弟姉妹の皆様へお話申し上げる機会を授かり、感謝の念にたえません。今宵は、以前お目にかかった方のお姿を数多く拝見し、旧友と再会した喜びを感じております。また、初めてお目にかかる方も、多勢いらっしゃいます。初対面とは申しましても、私も皆様も同じ人間同士です。皆様が人間として体験なさってきた事柄について、私も自らの人間としての成長過程を顧みて、よく理解することができると思います。このように、同じ人間同士という観点に立てば、私たちは相互に意思疎通ができるのです。

本日のテーマは、「人類の未来と人間の心」ということです。いかなる困難に直面しようとも、人間はそれを解決する力を持っている−これは、私の基本的な信念です。最も大事なのは、まず、長期的な視野を身につけること…。そして、決意と勇気をもって事にあたらなければなりません。人類の未来がいかなるものとなるかは、私たち各自の双肩にかかっています。それはまさに、私たち一人ひとりが負うべき責任なのです。

今日の私たちの世代は、非常に重要な鍵を握っています。人類は過去から現在に至るまで、同じような問題にたびたび遭遇してきました。しかし、科学が大変な進歩を遂げているという点は、過去の時代にない特徴です。そういった意味で、現代に生きる私たちの世代は、特に重大な責任を担っているのです。

現在私たちは、科学技術が長足の進歩を遂げたお陰で、実に快適な生活を享受できるし、そうした恩恵を大いに被っております。私たちが、こうした科学技術の大きな力を正しく用いられれば、多くの問題を解決することができるでしょう。しかし、逆に間違った方向へ用いるならば、危機的な結果を招くことになるでしょう。

今日の世界では、現実というものが非常に速いスピードで変化しています。昔の世代と比べれば言うに及ばす、現代の世代の中にあっても、極めて大きな変化を体験しているのです。しかしその一方で、私たちが抱いている現実感−例えば、自分自身に対する見方や世界に対する見方−は比較的固定されており、伝統的な考え方に捕らわれる傾向があります。このように、世界に対する私たちの見方,接し方は、世界の現実と比べて遅れをとっています。実にこの点が、大きな問題をひき起こす元凶となっているのです。

私たちが抱いている自分自身,自分の家庭,自分の祖国,自分の大陸…といった考え方、他者に接するときも自らの利害しか考えないような姿勢こそ、遅れているものの最たる例でしょう。現代経済の中にあって、もはや国境というものは、それほど重要な意味を持っていません。現代の経済活動は、文字通り国境を越えて展開されているのです。また環境問題について考えれば、いかなる大国といえども、一国や二国だけで解決することなどできません。環境問題は、まさに全人類で取り組んでこそ、初めて解決可能となるのです。

古代にあっては、国家はもとより小さな都市や集落でさえも、各々単独の存在として成立していました。外部からの助けや協力なしに生存することが可能だったのです。しかし現代の経済では、そのようなわけにゆきません。もはや「私たちと彼ら」という概念こそが、私たちを呪縛している過去の遺物となっているのです。現在は、地球上の全人類をして「私たち」と考えなければならない時代に入っています。現実をよく観察すれば、他者の利益こそ自らの利益となっているはずです。個人にしろ国家にしろ孤立した状態として存在することはあり得ないので、私たちが幸福な未来を望むならば、常に他者の利益を考慮しなければなりません。世界平和など、全人類に及ぶ問題を解決するには、世界全体が力を合わせて努力しなければならないのです。

人間はもとより生きとし生ける物全ては、あらゆる意味で利己的な側面を本能として持っています。だから、自分自身のことを考えないわけにはゆかないのです。しかし、それを追求するにあたっては、愚かさと狭量な態度を捨て去り、賢明さを併せ持つ必要があるのです。こうした状況に於いて本当に必要とされるのは、「地球規模の責任感」、或いは「普遍的責任感」であると、私はいつも考えております。

科学技術の進歩は、私たちに多大な問題解決能力をもたらしてくれました。科学というものは、すぐにその結果を見ることができます。私たちが目で見て、手に触れて、実感し得る結果を生み出すのです。そのお陰で、人々はどうしても科学技術に吸い寄せられてしまいます。そして逆に、私たちの内面的な資質は疎んじられてゆくのです。現代の先進工業国に於いて、都市生活者のライフスタイルはまるで巨大な機会の歯車みたいになっています。その結果、人々は人間の本質から離れてしまっているのです。

現代の西洋社会では、感情を排除した客観性を重視しています。こうした姿勢には、もちろん正しい面があります。例えば感情が強すぎると、それによって心が偏向してしまうでしょう。だから現実を正確に知るために、客観的な研究が重要であることは、疑いの余地がありません。しかし、余りにも客観性にこだわると、自分の家が燃えていても燃焼状態を観察しているような、愚にもつかぬことになってしまうのです。従って、客観性を保ちつつも同時に、自ら対象に関わってゆく態度や責任感といったものが必要になってくるのです。物事に直面して、感情を表し過ぎるのも問題だし、全く表さないのもよくありません。私たちは機械ではなく、感情を持った人間なのです。人間社会では、相手の気持ちをよく理解しなければならないし、人間同士の関わりや愛情が大切な要素となります。従って、私たちは両極端の態度を退けるようにしなければなりません。感情に支配され過ぎれば現実を見失ってしまいます。しかし逆に、感情を全く欠如しているというのも、非常に危険なことなのです。

人間にとって感情は極めて重要な要素です。その中でも、慈愛の心は特に大切だと思います。人間は本質的に優しさや慈悲深さを具えているのです。この点については、異論もあろうかと思いますが、私は確かにそう感じているのです。なぜかといえば、人間の身体の造りひとつをとってみても、それは思いやりの心を形に表すのにこそふさわしく出来ているからです。母親の心の平穏は、胎児の発育に極めて重要な役割を演じます。そして子供が誕生してからも、母親の愛情に満ちた触れ合いが、脳の成長に不可欠だと言われています。愛情あふれる家庭に育てられれば、子供は心身ともにすくすくと成長します。そして成人になってからも、慈愛の心をもって人生を送ることが出来るのです。ところが、愛情の欠如した家庭に育った子供は、心身ともに悪影響を被り、大変可哀相な結果となってしまうのです。私たちには、誕生から死に至るまで、内面的な慈愛が重要でない局面など一つもありません。死の瞬間に於いてすら、そのことは言えるのです。親しい友に囲まれ、人間としての慈愛に触れつつ臨終を迎えるならば、幸福で平和に一生を終えることができるのかもしれません。そしてもう一つ、私自身の体験として明確に言えることは、心の平穏が健康を維持する上でも不可欠だという点です。

それでは、どのようにしたら心の平和を得ることができるでしょうか。最も鍵となるのは、慈悲(思いやり)の心を育むことです。私たちが、そうした思いやりの心をしっかりと抱くことができれば、それはもう自動的に慈愛に満ちた人間となってゆきます。私が「内なる扉」と表現しているものを、まさに開いたことになるのです。その結果、他者に対して思いやりをもって接することができるし、人間のみならず生きとし生けるもの全てと何らかの意思疎通が可能になるでしょう。それによって私たちは、安心感や友情を手に入れられます。そして、より暖かく優しい笑顔に包まれることになるのです。

逆に、もし心が怒りや憎しみでいつも溢れているようだと、まず健康を損なってしまいます。食欲を失い、安眠も奪われます。しかし一番問題なのは、怒りや憎しみによって、内なる扉を閉じてしまうことです。その結果、他者との意思疎通が困難になり、疑いや不信感を生み出してしまいます。行き着く先は、いつも恐れと不安にさいなまれた状態です。

以上から、慈愛と思いやりの心こそが心の平和を得るための鍵である点を、明確に知ることができると思います。

私たちは人間として知性を持っているがゆえに、内面に於いて対立や矛盾を生じてしまうこともあり、これはなかなか避けられないものです。簡単な例としては、最高のアイディアを朝に思いついたとしても、時間の経過とともに新しい情報を得て分析を進めてゆくに従い、昼頃には別なアイディアが出来上がってしまい、朝のアイディアとの矛盾に悩むようなこともよくあるでしょう。自分自身の中に於いてすらそのようであるのだから、まして家族や社会に於いて意見の相違や対立が生じるのは、極めて自然なこととだといえるでしょう。こうした対立や問題は、知性のゆえに存在するのだから、これらを克服するのもまた、人類の知性に課せられた責務だと思います。

それではこうした問題−例えば、夫婦,親子,兄弟の間など家庭内の対立から始まって地域社会,国団体,さらに国際間の対立に至るまで−を解決するには、どのようにしたらよいでしょうか。そのために私たちは、まさに人間らしい方法をとらなければなりません。それはつまり、非暴力ということです。人間の知性,理解力,理論的な思考を活用し、他者に対する敬意を忘れてはなりません。紛争の解決に武力を用いるのは、決して人間らしいやり方ではありません。前にも述べたように、人間は基本的な性質として思いやりの心を持っています。だから暴力に訴えるのは、人間の本質から根本的にはずれているのです。

ここで「非暴力」ということの意味を考えてみましょう。私の考える非暴力とは、単に暴力が存在しない状態ではありません。非暴力とは思いやりの心を他者へ示すことだと、私は思うのです。思いやりのある行動、他者に対する敬意を伴った行動…これらを実践することにほかなりません。

私たちは問題に直面させられると、よく怒りを感じるものです。そして、この怒りというものが自分を助けてくれたり、守ってくれるのだと感じられる場合もあります。また怒りは、大きなエネルギーを私たちにもたらしてくれます。だから私たちは怒りというものを、つい友人のように考えてしまいがちです。しかし本当に正しい観察を加えるならば、怒りによってもたらされるエネルギーが盲目的である点をよく見抜くことができると思います。盲目的であるというのは、それが建設的な方向へ向かうのか、自己破壊的な方向へ向かうのか、予測不可能だということです。

もちろん、ある問題に強力な対応策を講じるのも場合によっては必要でしょう。しかしそれは、怒りを伴わずに行わなければなりません。怒りではなく慈悲に基づき、冷静な分析に従って対応する必要があります。もし怒りや憎悪に基づいて対応した場合、しばしばそれが的外れになってしまうことは、私たちもよく経験しているはずです。

ところで、思いやりの心とか寛容の精神は、必ず宗教的なものであるかといえば、そうではありません。私はこの点を特に強調したいと思います。人間としての善い資質とか徳目を、必ず宗教の枠組みの中へ入れてしまおうとするのは間違った考え方です。私たちは何らかの思想とか宗教を持って生まれてくるわけではありません。しかし、人間としての慈愛の心、優しい思いやりの心を全く持たずに生まれる人はいないのです。人間は宗教がなくても生きてゆけます。しかし慈愛の心なくして生きてゆくことはできないのです。宗教を信じるのも信じないのも個人の権利です。しかし、人類という大きな家族の一員である限り、人間としての慈愛,思いやりの心の重要性を忘れてはいけません。

多くの人々は、自分の町,自分の国,文化,宗教といったものを、こよなく愛しています。そして、これらがまさに、自らのアイデンティティーとなっているのです。人々は当然のこととして、自らのアイデンティティーを維持してゆきたいと考えています。しかしこの点に関して、私たちは中庸の道を見出さなければなりません。私たちは自らのアイデンティティーを保ちながらも、全人類に対する責任感を失ってはならないのです。この二つは両立可能です。

例えば現実の世界を観察しても、そこには千差万別の違いが存在しています。しかし同時に、必ず共通点というものも見つかります。私という一人の人間を例にとっても、今朝起床したときの自分と現在の自分とでは、厳密に言うと、全く同一の肉体ではありません。心だって変化しています。従って、朝の私と今の私とは違う人間であるとも言えるでしょう。しかし同時に、連綿と継続する「自己」という概念も、確かに実感できるはずです。これと似たようなことが、人類というレベルでもあてはまると思います。国や文化が異なり、人種,言語,宗教,習慣も違っている人々も、もっと広い視野からすれば同じ人間なのです。

続いて民主主義について少し触れましょう。民主主義とは個人の意見に耳を傾け、個人の権利を尊重することです。それはまさに、他者に対する思いやりの心から成立したものだといえるでしょう。思いやりがあれば当然、他人の意見や権利を尊重することになります。自分の意見を他人に押し付けてはならないのです。それは取りも直さず、複数の文化や慣習を受け入れるという考え方へ向かいます。民主主義の根本原則は、まさしく思いやりの心に基づいているのです。

しかし今日の民主主義には大きな矛盾があると、私は考えています。人々は自らの国内問題を考える場合、確かに民主主義を重視します。もし独裁政権が生まれたとしても、民衆は強く反対して抵抗運動を展開します。これはとても正しいことです。私たちは自由な人間として生を受けたのです。ところが、話が国際関係になると事態は一変するのです。人々は国際間の問題解決にあたって、いまだ力に頼ろうとします。民主主義の適用に関して、国内と外交とに分けた二重基準を作りあげるような考え方は、私たちの中に根強く残っています。国内政策は私たち国民自身に対するものです。しかしよく考えれば、外交政策というのは、まさに私たちと同じ人間である隣人達に対するものなのです。対象が同じ人間である以上、民主主義の原則は国際間でも適用されなければなりません。あるドイツの学者が、もはや国内政策と外交政策の垣根は存在しない−と述べていますが、私も全く同感です。

さて、今度は宗教について述べましょう。一般的に言って全ての主要な宗教は、人類にとって何か役立つメッセージを携えています。確かに哲学的な観点は異なっているかもしれませんが、どの宗教も私たちに、善い人間になること、暖かい人間になること、慈愛の心、寛容の精神、そして兄弟愛や姉妹愛などを説いています。しかし現実には−昔も今も−宗教が対立や流血の火種となっているのです。ボスニアをはじめ世界各地で、そういったことが進行中です。かくも深刻な問題をひき起こすばかりで、もし宗教が人類に何の恩恵ももたらさないのであれば、私たちは宗教を全くやめてしまうべきでしょう。しかしもちろん、それは正しい考え方ではありません。精神的な面で、宗教の伝統は私たちの大きな助けとなっています。宗教の役割や恩恵は、厳然として存在するのです。人々が、それぞれに異なった宗教から得られる恩恵は、計り知れないものがあります。宗教の選択をするのは私たち個人です。私たちは多種多様な宗教の共存を図り、宗教の名に於ける紛争を根絶しなければなりません。

人間社会が多様化してきた今日、その分だけ数多くの宗教が必要とされていると私は思っています。例えば、食堂で朝昼晩同じ食事ばかり出していたら、客足は遠のいてしまうでしょう。反対にバラエティーに富んだメニューであれば、繁盛するかもしれません。心だって、食欲のような肉体的欲求と同様−いや、むしろそれ以上に−多様性を欲しているはずです。心は決して一様な存在ではありません。何千という様々な心の側面を満たすため、世界に存在する多種多様な宗教は、それぞれに必要とされているのです。各宗教がそれぞれ独自性を保ちつつ、様々な人々へ恩恵をもたらす…そうしてこそ私たちは、精神的に満足できるでしょう。昔の時代、人々の共同体が孤立して外部との交流が乏しかった頃は、確かに一つの宗教でも事足りたかもしれません。しかし今日の世界では−特に精神面に於いて−多元主義が是非とも必要になってきています。実際、そういった動きも進んでいます。数年前アッシジで、様々な宗教の指導者が一同に会する催しも開かれました。こうした宗教の多元主義はとても健全な傾向だと思います。

私たちの未来は、これまで述べてきた様々な要素と関わってくるわけですが、ここで将来へ向けた提言を幾つかあげてみましょう。どのようにすれば、私たちは慈愛の心を育み、現在の状況を改善してゆけるでしょうか。視野を広げて全体像を掴むには、どうしたらよいでしょうか。まず第一は、コミュニケーションです。たとえ観光旅行でも、人々の往来が頻繁になるのは、とても良いことだと思います。そしてもちろん、科学者や専門家たちは−例えば、環境問題などの分野で−非常に大きな役割を担っています。

しかし最も重要なのは教育です。私は今日の先進国に於ける教育のあり方について、懐疑的にならざるを得ません。今日の教育システムには、何かが不足しているような気がします。欧米の大学における講演などで、私がよく指摘する点ですが、人々は教育というものの意味について、単に知識を頭へ詰め込み、知能の向上を図ることだけだと考えているようです。そうした努力は皆が怠らないのに、なぜ人間の根本的な資質、そして心そのものの向上には目を向けないのでしょうか。私たちは頭にばかり気をとられ、心をなおざりにしているようです。もちろんその点について、教育に従事している人たちを責めることはできません。

歴史を顧みるならば、まず先に宗教があり、そこから教育機関が発展してきたのです。ヨーロッパの教会と大学の関係は、その典型といえますが、昔はこの両者で心の方面と知識の方面とを役割分担していたわけです。ところが現代では教会が力を失ってしまい、宗教に対する人々の関心も薄れています。その結果、心の方面を受け持つところがどこにもなくなってしまったのです。これこそ、犯罪やスキャンダルが氾濫している今日の状況を作り出した原因です。例えば、小さな子供同士が殺しあうというような、信じられない出来事が次々と発生しています。こうした状況を、西洋では道徳の危機と呼んでいます。人間が本当は善なる資質を持っているという点を、教育の中でしっかり教えてこなかったツケが、こうした形で回ってきたのだといえるでしょう。

人間の心や本質を教えるために、宗教界も教育界もより一層の努力が必要です。たとえ、特定の宗教に対する信仰をもたなくても、一般的な倫理として、人間が本当に善い資質を持っている点を教えなければなりません。この点で教師の果たす役割は、まことに重大です。慈愛とか思いやりを、単に口で語るだけでは十分だと言えません。身を持ってその価値を示し、教師自身の行動によって裏付けることが、とても大切なのです。

普遍的な慈愛や思いやりの心は、私たち自身のものであり、宗教の世界に属する神聖なものだというわけではありません。しかし、様々な宗教の間で調和を図ることも、もちろん大切です。そのために、私は4つの提案をしたいと思います。まず第1に、各宗教を研究している学者が集まり、相違点や類似点について学術的な検討を加えます。第2に、各宗教の実践者が、それぞれの深い体験について語り合います。これは私自身にとっても大変役立つと思います。他の宗教の方々が携えているメッセージを知ることは、人類の宝に触れるようなものです。第3に、各宗教が合同で様々な聖地を巡礼し、ともに祈りと捧げたり、沈黙の瞑想を行います。これは本当に素晴らしい体験をもたらしてくれます。私自身、エルサレムやフランスのルルドといった聖地で、大変深い体験を得ました。私は仏教徒なので、創造神の存在は信じていません。しかし、こうした神のための聖地で、精神的な深い体験を得たことは事実です。第4に、各宗教の指導者が一同に会し親交を深めます。その場面を、様々な国の人々へ、実際に見せることが大切です。以上の4つが私の体験からしても、非常に重要だと思われる事柄です。そして私自身、できるだけそれを実践してゆくと思っております。