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ダライ・ラマ法王のメッセージ:『数多の信仰、ひとつの真実』

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2010年5月25日 米国『ニューヨーク・タイムズ』誌

チベットで暮らしていた幼少時代、私は、自分が信仰している仏教がこの世で最高の教えであるにちがいないと思っていました。他の信仰は仏教よりも劣るものであるかのように感じていたのです。現在の私は、幼い自分がどれほど世間知らずであったかよくわかります。そして、極度の宗教的不寛容がいかに危険であるかということも理解しています。

宗教的不寛容は宗教の歴史と同じくらい古くからあったのかもしれませんが、私たちはいまだに不寛容という猛毒が勢いを失っていないことを思い知らされます。
欧州では、移民としてやってきたイスラム教徒のベール着用や尖塔(ミナレット)の建設をめぐって激しい論争が重ねられ、ときには暴力的な問題にまで発展しています。あまりにも過激な無神論者は、固い信仰心を持つ人たちを包括的に非難してしまうことがあるものです。また中東では、異なる信仰を忠実に信奉する人たちの憎しみによって戦火が煽られています。

世界中の人が繋がれば繋がるほど、文化や宗教が絡み合えば絡み合うほど、このような緊張が増しているように思われます。

こうした緊張は、私たちの寛容さを試しているだけではありません。境界を越えて理解し合うこと、平和的共存を推進することを要求しているのです。

確かに、いかなる宗教にもアイデンティティの核として排他性があるものです。しかしそれでも私は、互いに理解し合える可能性が真にあると信じています。
自身の信仰に伝わる教えを守りながら他の信仰を尊重し、その真価を認め、讃えることは可能なはずです。

私の目を開かせてくれたのは、トラピスト会の修道士であるトーマス・マートン(Thomas Merton)との出会いでした。

1968年に彼が早世する直前にインドで会ったときのことです。マートンは私に、「キリスト教を完全に信心するが、仏教など他の宗教からも深い学びを得ている」と語りました。

これは私にも同じことがいえます。私は熱心な仏教徒ですが、世界中の偉大な宗教から学びを得ているからです。

マートンとの会話の主題となったのは、キリスト教と仏教が伝える双方のメッセージの中心に慈悲があることでした。
新約聖書を読みますと、私はいつもイエスの慈悲に根ざした行動に感銘を受けます。
イエスが行なったパンや魚の奇跡、そして癒しや教えはすべて、苦しみを取り除いてあげたいという強い思いが動機となっているからです。

私は個人間の結びつきが宗教観の相違を乗り越えさせてくれると固く信じていますので、自分とは違う宗教観を持つ人たちとの対話を精力的に行なってきました。
マートンと私がそれぞれの信仰のなかで見つめていた慈悲が、世界の主要な信仰を結ぶ強力な糸となっていることに私は心を打たれました。
今日の私たちは、互いを結びつけるものに光を当てる必要があるのではないでしょうか。

ユダヤ教を例にあげてみましょう。
私がはじめてインドのコーチンにあるシナゴーグ(ユダヤ教の教会)を訪れたのは1965年のことでした。それから時を重ねるなかで、私はたくさんのラビ(ユダヤ教の指導者の敬称)に会いました。
オランダのラビのことは、今も鮮明に憶えています。彼が私に語ったホロコーストのあまりの凄まじさに、私たちは共に涙を流したものです。
さらには、レビ記のなかに「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という一節があるように、タルムード(ユダヤの立法とその解説)と聖書が繰り返し慈悲を説いていることを知るようにもなりました。

インドではヒンドゥー教の学者と会う機会が度々ありました。ヒンドゥーの教えにもまた無私の慈悲が中心におかれていることを知りました。たとえばバガヴァッド・ギーター(ヒンドゥー教の聖典)は、「生きとし生けるものが幸福であることをよろこぶ」人たちを讃えています。
このような価値観がマハトマ・ガンジーやババ・アムテの生き方に現れていることに、私は心を揺さぶられます。ババ・アムテはガンジーほど有名ではありませんが、インドのチベット人居住地からさほど遠くないマハラシュトラ州にハンセン病患者のコロニーを設立し、行き場を失くしたハンセン病患者に住む場所と食事を与えていました。私がノーベル平和賞を受賞したときには、彼のコロニーに寄付を贈りました。

慈悲はイスラム教においても同じように大切にされていますが、2001年9月11日の同時多発テロ事件以降さらに重視されるようになりました。このことは、とくにイスラム教を過激な信仰として色づけする人たちへの応答のなかに表れています。
9・11の一周忌に、ワシントンDCのナショナル・キャセドラルでお話する機会をいただきました。その席で私は、「やみくもに報道に追従して、ひと握りの暴力行為を行なう人たちをその宗派全体として定義しないでください」と訴えました。

私が知っているイスラム教徒についてお話しましょう。
チベットには400年ほど前からイスラム社会があります。私がイスラム教徒と接する機会がいちばん多い国がインドですが、インドには世界で二番目に多い数のイスラム教徒が暮らしています。

インドのラダックで暮らすイマーム(イスラム教の指導者)は、「真のイスラム教徒は、アッラーの神が創り出したすべての生きとし生けるものを愛し、敬うべきである」と私に言ったことがあります。
私は、イスラム教徒は宗教的原則の中心に慈悲を据えていると理解しています。事実、コーランの各章にも、「慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名において」という表現が冒頭にあるのです。

心をひとつにした行動がかつてないほどに重要である現在、信仰のなかに共通の土台を見いだすことが、無用に離れてしまった心に橋を架ける助けとなります。
パンデミック、経済破綻、環境災害など地球規模の問題に対峙するとき、私たちは、ヒトという種として心をひとつにする必要があります。ヒトというスケールにおいて、私たちは一丸となって問題に対処することができるのです。

宗教間の調和は、私たちがこの地球で平和に共存していくうえで不可欠な要素となっています。
この点からいうと、異なる信仰を互いに理解しあうという課題は信仰心の篤い人たちだけのものではなく、人類全体がその安寧のために与えられた課題であるといえるでしょう。


(翻訳:小池美和)

※本文は、2010年5月25日付け『ニューヨーク・タイムズ』誌に掲載されました。