パンチェン・ラマについて

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パンチェン・ラマ論争


パンチェン・ラマ11世の探索


チベット亡命政権は、1989年1月28日のパンチェン・ラマ10世の遷化の知らせを受けとると、ただちに転生者探しに取りかかった。30人以上の候補者名が、チベット内外から届けられた。1991年、辛未の正月3日に占いが行われ、パンチェン・ラマがチベットに生まれ変わっていることが分かった。

ダライ・ラマは1991年以来、転生者探しに協力してくれるよう中国当局に再三要請してきた。1995年10月には、江沢民主席に書簡をしたため、次のように訴えている。
「私には、ダライ・ラマとパンチェン・ラマの間にある、2つとない歴史的な関係を維持する務めがございます。私事になりますが、私が今こうしてここにおりますのも、パンチェン・ラマ9世のおかげであります。パンチェン・ラマ9世は、ダライ・ラマ13世の転生者探しに対して格別な関心を寄せられ、また、実際に行動を起こしてくれました」

1991年8月11日に実施された占いでは、当時チベットで広くパンチェン・ラマだと考えられていた子どもが、じつは生まれ変わりではないことが分かった。1993年、癸酉年の正月3日に、ふたたび占いが行われた。占いは、まだ転生者を認定する時期ではないと教えていた。

1993年7月17日、公式ルートをとおして北京から1通の嘆願書が届けられた。差出人は、中国から探索委員会の委員長に任命されていたタシルンポ寺のチャデル・リンポチェだった。リンポチェは嘆願書のなかで、転生霊童探しについて、ラモイ・ラツォとリンプン・チャムシン・ユン・ツォの湖に予兆を見に行ったほか、いくつかの調査を行ったと書いていた。これらの調査から、パンチェン・ラマ11世がすでにこの世にお生まれになっており、転生者探しはタシルンポ寺から東の方角にむかって行うのがよく、さらに霊童はチベット歴の巳年、午年、未年生まれのいずれかであることが分かったという。

1994年、甲戌の正月3日、転生霊童の認定を行って良い時期かどうかがふたたび占われた。答えは否と出た。

1994年、チベット歴1月10日、ネーチュンの神降ろしはこう告げた。
「わが師(ダライ・ラマ法王のこと)は霊童探しを続けておられる。チベット人が一丸となれば、必ずや真正の転生霊童がチベットに見つかるであろう」

このお告げは、その日中にツァンパの神降ろしによって確かめられた。1994年3月30日、インドのタシルンポ寺の要請により、ツァンパの神降ろしはふたたび神託を伝えている。
「転生霊童はすでにチベットに生まれておる。法王が転生者を探しておられる以上、心配は無用」

1994年12月3日、転生霊童の認定を行ってよい時期かどうかが占われ、答えは可と出た。

翌1995年1月、南インド・ムンゴットでの「時輪」の法話の席で、ダライ・ラマ法王は認定の手続きを開始した。占いが行われ、いく人かの候補のなかから、ラサの北効ナクチュのラリ地区に住む、クンチョク・プンツォクとデチェン・チュードゥンの間に生まれたゲドゥン・チューキ・ニマ少年が、パンチェン・リンポチェ[パンチェン・ラマのチベットでの呼称]の生まれ変わりとして非常に適格であることが判明した。

同年1月23日、北インドのダラムサラにおいて、チョウォ(チベットからもたらされた釈迦像)やペンデン・ラモ(女性チベットの守護尊)の前に、念入りの供物が捧げられた。先代パンチェン・ラマの名前を呼ぶ、特別な祈りも行われた。

ついで占いが実施され、ゲドゥン・チューキ・ニマ少年が、まぎれなくパンチェン・ラマの転生霊童かどうかが問われた。結果は諾と出た。この結果を確かめるため、もう1度占いが行われた。この時も、ニマ少年が真正の転生霊童だという結果が出た。

1995年、チベット歴3月13日の早朝、ネーチュンの神降ろしは神託を下した。
「もはや言うべきことはない。わが師は、三密の心をもってすでに答えに達しておられる」

最後の占いは、1995年5月13日に行われた。パンチェン・リンポチェの認定発表をチベット歴3月15日(西暦1995年5月14日)に発表してよいか、それとも延期するのがよいか、判断を仰いだ。結果は「その日でよい」と出た。こうして、釈尊がカーラチャクラの灌頂法儀をはじめて厳修なさったこのうえなく縁起のよい日に、ダライ・ラマ14世法王は、当時6歳だったゲドゥン・チューキ・ニマ少年を、パンチェン・ラマ10世の転生霊童として正式に発表したのである。

転生者探しを巡るダラムサラと中国政府の攻防


先代のパンチェン・ラマ10世チューキ・ギャルツェン師は、中国の侵略を受けてダライ・ラマ14世法王が国外亡命を余儀なくされた後も、チベット本土に踏み止まった。師は「文化大革命」の時期には投獄され、その後も中国の占領支配下という枠組みの中で、活動の自由を大幅に制約されながらも、チベットの文化や自然環境を守り抜くために必死の努力を重ねてきた。そして、1989年1月28日、波乱に満ちた50歳の生涯を終えたのである。

パンチェン・ラマの死後、ダライ・ラマ法王は中国側に対し、10人の宗教代表団をチベット本土へ派遣し、タシ・ルンポ僧院やラサの主な寺院、アムド地方(東北チベット)のクンブム僧院やタシキル僧院などで、故パンチェン・ラマ師のために供養の法要と「カーラチャクラ」の儀式を行いたいと提案した。しかし中国当局は、この申し出を拒否した。

続いて1991年3月21日、ダライ・ラマ法王の意向として、パンチェン・ラマの真正な転生者を探すために協力したいと希望している旨を、在ニューデリー中国大使館経由で中国政府に伝えた。そのために、高僧からなる代表団をラモイ・ラツォ湖へ派遣したいと、法王は考えていた。この聖なる湖はラサの近くにあり、ここで祈りを捧げて湖水を観察すると、正しい転生者を見つける手がかりになる予兆が得られるという。しかし、3ヵ月後、この件に関して「外部からの干渉」は無用であると、中国政府から回答があった。

1993年3月8日、ダライ・ラマ法王は、パンチェン・ラマの転生者が既に生まれている兆候を得たと表明し、早くその少年を発見するための祈りを呼びかけた。

同年7月17日、タシ・ルンポ僧院の高僧チャデル・リンポチェから、法王の兄を通じて、ダライ・ラマ法王へ書簡が届いた。これはパンチェン・ラマの転生者を探すことに関して、北京からの申し出を伝える内容だった。チャデル・リンポチェは、中国政府によって設立されたパンチェン・ラマ転生者探索委員会の委員長を務めている。

同年8月5日これに対する返事を、在ニューデリー中国大使館経由でチャデル・リンポチェ宛てに送った。それはパンチェン・ラマの転生者を探すことについて話し合うため、チャデル・リンポチェを長とするタシ・ルンポ僧院の代表団がインドを訪れるように招請する内容である。これに対しての回答は、何も来なかった。

1994年10月17日と18日、中国政府に近い人物が個人の立場でダライ・ラマ法王と会見した。この席上でダライ・ラマ法王は、1993年8月にチャデル・リンポチェへ宛てて送った書簡の返事を待ち続けていると中国政府へ伝えた。また法王は、パンチェン・ラマの転生者を探すに際して、伝統的な宗教手続きを厳正に踏んで行うべきことを、繰り返し強調した。さらに1995年1月、この中国側の人物に対して、上記の内容を再確認し、中国当局が早急に回答するように働きかけることを、2度に亘って要請した。しかし結局、何の回答もなされなかった。

その一方で中国当局は、タシ・ルンポ僧院に対して、パンチェン・ラマの転生者をダライ・ラマ法王が認定しても無視するように命令していた。1995年1月に同僧院で会議が開かれ、この命令が伝達されたが、そのようなことはチベット人社会に受け入れられないだろうと、僧侶達は懸念を表明したという。

以上のような経緯を経て、ダライ・ラマ法王は1995年5月14日、パンチェン・ラマの真正な転生者の認定を発表したのである。

これに対して中国側は反発し、パンチェン・ラマの転生者を認定する権限はダライ・ラマ法王になく、中国政府に帰属するものだと主張した。そして、法王の声明が出された直後、法王側と接触したとの理由でチャデル・リンポチェを拘束した。
また、ゲンドゥン・チューキ・ニマ少年と家族も行方不明となった。

パンチェン・ラマ11世発見の法王声明/1995年5月14日


「今日は仏陀が初めてカーラチャクラの教えを授けれらた吉日です。カーラチャクラの教えは、パンチェン・ラマと特別な関係があります。この縁起のよい日に、パンチェン・リンポチェの転生者を布告できることは大きな喜びです。私は、クンチョク・プンツォクを父とし、デチェン・チュードゥンを母として、チベットのナクチュ・ラリに1989年4月25日に生まれたゲンドゥン・チューキ・ニマを、真のパンチェン・リンポチェの転生者として認定しました。

ダライ・ラマとパンチェン・ラマの歴史的かつ霊的な関係に従って、インドの亡命地に再建されたタシ・ルンポ僧院を中心として転生者探索委員会が編成されました。また、チベット内外のさまざまなグループや個人が、転生者決定のための査問や占いを私に依頼してきました。

私は、この歴史的かつ霊的な務めを強い使命感をもって引き受けました。数年間、私は最大の注意を払って、転生者発見の目的のために必要なあらゆる宗教的手続きを行い、仏・法・僧の三宝に祈りを捧げてきました。

これらの手続きが、わがチベットの宗教的伝統に従って厳正に実施され、その結果が疑いのないものであることを、私は完全に真実であると確信しています。

私は、この転生者に『テンジン・ゲンドゥン・イェシェー・ティンレー・プンツォク・ペルサンポ』という名を与えて、長寿祈願を行いました。

パンチェン・リンポチェの転生者の認定は宗教的事柄であって、政治的なものではありません。私はこの問題に関して、過去数年間にわたって中国政府とさまざまなルートで接触を続けてきました。願わくば、中国政府が、タシ・ルンポ僧院に対して理解と協力、援助を与え、リンポチェがその霊的責任を果たせるよう宗教的な教育を受けることができるよう、私は希望しています」

1995年5月14日
インド・ダラムサラにて

パンチェン・ラマ師転生霊童に関するダライ・ラマ法王のプレスリリース 1995年11月29日


パンチェン・ラマ師の転生者を探して認定することは、純粋に宗教上の問題である。歴代のダライ・ラマとパンチェン・ラマは、歴史的・伝統的に特別な関係を結んでいる。その点を考慮し、私は、細心の注意を払いつつ、宗教上の必要な手続きを全て踏み、ゲンドゥン・チューキ・ニマ君を先代パンチェン・ラマ師の生まれ代わりとして選定したのである。従ってこの決定には、いささかの変更もない。

この数年間に様々な機会を通じ、私はパンチェン・ラマ師の生まれ代わり問題に関して、中国政府との接触を試みてきた。けれどもそれは成功しなかった。そこで先月になって、私は再び江沢民国家主席へ書簡を送った。その中で幼いパンチェン・ラマに対して、中国政府がもっと広い認識を持ってくれるように、直接訴えたのである。こうした個人的な呼びかけにより、中国政府の側から善意ある対応を引き出せるかもしれないと私は期待していたのだ。

しかし残念なことに、中国政府はこの件を政治問題化するという道を選んでしまった。そしてパンチェン・ラマ師の生まれ代わりとして、別な少年を指名したのである。これに宗教的な正当性の仮面を被せるため、中国側は主だったチベット人ラマや僧侶達を強制的に北京へ招集し、厳戒下で極秘の会議を開催した。このようにして、わがチベット国民の宗教感情が、またもや無残に深く傷つけられてしまったのは、実に悲しむべきことである。

ゲンドゥン・チューキ・ニマ君が身の安全を保証され、正しい宗教教育を受けて修行を積めるようにということが、目下のところ私の最大の関心事だ。彼はこの数ヶ月間、公衆の面前に姿をあらわしていないし、北京のどこかで拘束されているとの報道もある。それゆえに私は、世界各国の政府や宗教団体、人権団体の全てに対して、この幼いパンチェン・ラマの安全と自由を保証するため、仲介の労をとって下さるように心から訴えるものである。

1995年11月29日
ダラムサラにて

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