「チベット政治史」(亜細亜大学アジア研究所)より抜粋
チベット文字はインドのある文字より考案されたものであるが、言葉自体に関していえば、チベット語と中国語、チベット語とインドの言葉の間にはいかなる類似性も存在しない。中国、インド、英国からもたらされた多くの物品の名前は原形をとどめたままでチベット語の中にくみこまれた。チョル・カ・スム(チベット民族分布域)内の方言の差異ははなはだしく、諸外国で見られるような言語問題を生じさせている。ウー・ツァン方言がもっとも幅広く理解されていると考えられる。しかし、書き言葉は1つに限られ、これがチベットの文字文化に統一性を与えている。
多くの学者たちは、ソンツェン・ガムポ王(在位西暦629-49)が大臣トゥンミ・サムボータと数名の学徒をインドに送り、グプタ文字を学ばせた時をもってチベット文字の誕生とみなしている。しかし、それ以前にも何種かの―そのうちの1つはおそらくボン教にまつわるものであったに違いない―文字があったように思われる。というのも、大臣や学徒たちが文字のシステムを学びにインドに留学する以前に、ソンツェン・ガムポ王がネパール王に王女を妻として娶りたいとの手紙を出したという話が残っているからである。歴史書によると王自身がこの手紙をしたためたという。しかし、古代ボン文字に関してはなんの証拠も残っていない。
現行のチベット文字は紀元350年ごろインドで用いられていたブラーフミ文字とグプタ文字より考案された。インドに送られた留学生の中でトゥンミ・サムボータ1人が帰国し、チベット語を書き写すための文字を考案した。ブラーフミおよびグプタ文字とチベット文字のおどろくべき類似性を、Buhler、Indische Palaeographie、Plate IV、Cols.I-VII にみいだすことができる。