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新世紀の「宗教活動」 四川省における党政策の実施

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2002年4月18日
チベット・インフォメーション・ネットワーク特別レポート

はじめに

1980年代初頭から半ばにかけて広く認められていた自由に逆行するかのように、四川省では宗教活動に対する政府の取り締まりをさらに強化するための法律や規制が徐々に施行されてきた。このような政策の変更の例は、四川省にある有名なセルタル,ヤチェン僧院で家々が破壊され、僧、尼僧がその住みかを追われた事実に見ることができる。

今回の特別レポートは、チベットに残存するチベット仏教のもっとも重要な場所の一つである、セルタル僧院(別名ラルン・ガル・ゴンパ)の状況を検証し、現状を伝える新しい映像、情報、そして分析を提供することを目的としている。このレポートは、インタビュー、写真、ビデオ資料、および中国当局による政策発表の分析に基づき、次の3つの部分により構成されている。

  1. 僧院の僧、尼僧の家屋がどれだけ破壊されたかを示す画像 (静止画像、およびビデオフィルム)
  2. セルタル僧院での破壊活動、および僧、尼僧の追放を目撃した者の証言
  3. チベット地域、および四川省の信仰の自由を弾圧してきた中国当局の政策に関する文書による証拠

セルタル僧院の破壊を示す新しい画像、および、TINが入手した四川省カンゼ県(中国名:甘孜)のセルタル僧院に居住する僧、尼僧の家屋の破壊を示す新しい画像は、TINの Webサイト
(http://www.tibetinfo.net/reports/trel/ser1.htm)
で閲覧することができる。
これらの資料は、2001年6月、7月に作業班が到着してから制服を着た警察官の監視下で行われたセルタル僧院での破壊行為の様子を鮮明に伝えるものである。そのほとんどが堅牢な丸太造りであった家屋の破壊跡の瓦礫から自分たちの所有物を拾い集める僧、尼僧の姿は、破壊行為が突如として実施され、そこに住む者たちが自分たちの所有物を持ち去る時間がほとんどなかったことを示している。これらの画像は、取り壊されているセルタル僧院の家屋、そして、追放された何百人もの僧、尼僧に関する報告は「根拠が薄い」という中国当局の主張を覆すものである。

当局は当初、僧ではなく主に尼僧の家屋を壊すことを目的としていた。6月、7月に作業班が到着して以来、中国、および海外出身の中国人の仏教学徒が暮らしていた家屋を含む、1,000を超える居住施設が破壊され、何百人もの僧、尼僧が退去を余儀なくされたことが報告されている。
(2001 年 8 月 19 日付けのTIN News Update:
http://www.tibetinfo.net/news-updates/nu190801.htmを参照)。

チベットから脱出したセルタル出身の2人の僧は TIN に対してこう語っている。
「彼らは、家々が破壊された場所を神経質なまでに整地している。地面を平らにし残った石を砕いて、彼らが行った破壊活動の跡を消し去り、きれいな場所に仕上げようとしている。以前の痕跡をすべて取り除き芝生まで植えている。[中国当局は] 歴史のこのような側面を示す証拠を残しておきたくないのだ」

中国当局はこの報告を否定している。彼らは、人権問題に関する昨年の会談でイギリス政府に対し、セルタルでは「信仰を放棄することを強制されたものは一人もいない」と述べている。

しかし、TIN は、中国当局のとった行動の一つは信仰の放棄を強制するものであったことを示す報告を入手している。僧、尼僧を彼らが住む僧院から退去させることは、彼らの教師、仲間、社会的な環境、そして支援システムから彼らを切り離すことにほかならない。ラルン・ガルを追われ僧院、尼僧院に戻ることができない者たちは、自宅での学習や祈祷により信仰生活をある程度までは続けることができる。しかし、基盤となる僧院や教えを乞うことができる教師がいない状態で、各人がすべての時間を使って仏教を勉学したり信仰を深めることは、不可能ではないにしても非常に困難である。

セルタルから追放された僧、尼僧の多くが、俗世を離れて僧院での生活に戻るにはあまりに障害が多すぎることが報告されている。彼らのほとんどは、この問題を解決する唯一の手段は国外へ亡命することだと認識している。

中国当局の作業班は、セルタル僧院の何百人もの尼僧が暮らす家屋を破壊した数か月後、四川省ペユル県(中国名:白玉)にあるもう一つの著名な僧院であるヤチェンの居住区に移動すると、建物を解体し、僧、尼僧を追放した。

昨年亡命する前、ヤチェン・ガル僧院に長年住んでいたあるチベット僧は TINに対して次のように証言している。
「[無理やり退去させられた] 多くの尼僧は、現在近くの山中で避難生活を送っている。帰るべき尼僧院がない彼女たちのほとんどは、行くあてがどこにもなかったのである。また、彼女たちは信仰の師であるアチュク・ケンポ [ヤチェン・ガルの僧院長] の側にいたかったのだ。留まることを許可されたのはペユル県出身の僧、尼僧だけであった」

セルタル僧院と同様にヤチェン・ガル僧院には、仏教徒による高水準の研究、および、集中的な瞑想と練行を目指して何百人もの学僧たちが中国、台湾、そしてシンガポールから集まってきた。このような外国からの学僧たちは、皆、退去することを昨年命じられたことが報告されている。

2001年10月、ICT(The International Campaign for Tibet) は、ヤチェン・ガル僧院の僧、尼僧たちが暮らしていた 800 戸を超える家屋が解体され、ペユル県地域以外出身の僧、尼僧たちは退去することを命じられた、と報告している
(ICT、2001 年 11 月 14 日)。

セルタル僧院での破壊、追放を目撃した者の証言

以下の2つのインタビューは、セルタル僧院からインドに逃亡してきた僧、尼僧に対して実施されたものである。チベットに残っている僧たちの安全を守るため、彼らの身元はここでは明らかにしない。このインタビューは、ラルン・ガルでの破壊活動と、それが、退去を余儀なくされた僧、尼僧の個人の生活に与えた影響を伝える、ほかに例を見ない証言である。

最初のインタビューは、セルタル僧院に長年暮らし、2001年、作業班がラルン・ガルに来た後、退去を命じられた20代の尼僧とのものである。彼女、そして20人以上のほかの尼僧は、退去を命じられた後、ラルン・ガル僧院の裏にある丘に数週間潜んでいた。その後、彼女はセルタル僧院に戻ったとき、尼僧の住居が解体されるのを目の当たりにし、その地を去ってインドへと逃亡したのであった。

Q: 僧院へ入院したとき、住居は自分で建てたのか?
A: そうです。かつて、僧、尼僧は皆、僧院に着いたら自分の家は自分で建てなければなりませんでした。けれど、そのような家々の多くは中国人によって壊されてしまいました。

Q: 壊された家の数はどれくらいか ?
A: 1,500戸です。

Q: その現場を目撃したか ?
A: しました。

Q: それは誰の家だったのか ?
A: 尼僧の家です。

Q: あなたの家も壊されたのか ?
A: いいえ、ほかの尼僧が住んでいたため、壊されませんでした。

Q: その尼僧はどこの出身か ?
A: 彼女はセルタル県出身で、ラルン・ガル僧院に滞在することを許可されています。けれども、私はほかの県の出身なので、留まることは許可されていません。

Q: 留まることを許されている尼僧は何人か ?
A: 400人です。彼女たちは、みなセルタル県出身です。セルタル県出身でなければ、留まることは許可されません。中国人は、ラルン・ガルにはあまりにも多くの尼僧が暮らしているので、出身地がセルタル県でない尼僧は出て行かなければならないと言っていました。

Q: 留まることを許可されている1,000人の僧にも、これと同じ規則が適用されているのか ?
A: いいえ、1,000人の僧は、みな出身地は違う。セルタル県出身者だけではない。どうしてだかはわかりませんが。

Q: 中国当局が最初にラルン・ガルに到着したときに何が起こったのか?
A: 彼らは、私達の出身地を尋ねました。私は、出身地が同じであるほかのすべての尼僧と一緒にさせられました。会議が開かれ私と同じ県からきた役人が、自分たちの実家に戻るよう命じ、実家が遊牧を営んでいるのならその手伝いをし、農家であるなら畑作の手伝いをしなければならないと告げました。この中国人が私はラルン・ガルに残ることは許されないと言ったので、私は去ることにしました。私は他の尼僧とともに、ラルン・ガル近くの丘に行き、24日間そこで暮らしました。その後、何人かの尼僧が僧院に戻り、ほとんどの家々が破壊されたのを目撃したのでした。私たちは悲しみにくれました。中国人たちはそこを去ることなく、私たちが戻ることは許されないと主張するので、私は、他の尼僧とともにラサへと向かったのです。

Q: 出身地に尼僧院がある者は、何を命じられたのか?
A: 私の故郷には2つの尼僧院がありますが、私は新人だったしその2つの尼僧院は、受け入れ可能な尼僧の人数を既に言い渡されていたので、私が入ることはできませんでした。

Q: ほかの尼僧たちは、かつて所属していた尼僧院に戻ることはできたのか? たとえば、セルタル僧院に数年間しか在籍していなかった場合だが。
A: 尼僧たちが、故郷の尼僧院に入院することが許されれば、戻ることはできました。けれども、故郷に [戻ることができる] 尼僧院がある尼僧はほとんどいません。大部分の尼僧は、ほかの尼僧院に在籍することはできないので、ラルン・ガルに残っています。

Q: あなたの故郷からやってきた役人は、どの役所に所属しているのか ?
A: 彼らは、私の故郷の宗教事務局に所属しています。何人かの役人がきていました。

Q: 会議には、あなたと同じ出身の僧も参加していたのか ?
A: いや、尼僧だけでした。僧とは別の場で話をしていました。[作業組がラルン・ガルに来てから]、たくさんの尼僧が病気になりました。お腹をこわしたり、頭痛がしたり、鼻血が出たりしました。セルタル県では、入院することはできませんでした。彼女たちは病院の屋外で草の上に座ったまま薬を投与されたり注射を打たれました。

Q: なぜ入院することができなかったのか ?
A: 入院するには 600人民元 [72 米ドル、または 50 英ポンドに相当。ほとんどの場合、最低の生活水準で暮らしている尼僧にとっては払えない金額である。] を支払わなければなりませんが、そのような額の金を支払える尼僧はいません。

Q: 600人民元を払ったら、何日間入院することができたのか ?
A: 日数は問題ではありませんでした。尼僧が入院したければ、600人民元を直ちに支払わなければならなかったのです。しかし、ほとんどの尼僧はこの金額を支払うことはできません。中国 [当局] は、尼僧たちの症状は病気ではなく、食事を摂らないことからくるものだと言いました。実際には、尼僧たちの悲しみがあまりにも深かったのが原因だったのです。

Q: あなたは病院に行ったのか ?
A: 行きました。私と同郷の1人の尼僧が病気になったのです。私は彼女に付き添って行きました。彼女は3日間入院し、600人民元を支払わなければなりませんでした。

Q: あなたの友人の病気の種類は何だったのか ?
A: 心臓の病です。彼女は 「心臓の風」(チベットの言葉で、憂鬱と愁いを意味する)にかかったのです。

Q: 彼女の現在の居場所は ?
A: 彼女は両親と共に実家にいます。彼女には所属する尼僧院がありません。

Q: 彼女は回復したのか ?
A: いいえ、回復していません。

Q: あなたが友人と病院へ行ったとき、何人のラルン・ガルの尼僧が治療を受けていたのか ?
A: 50人以上です。

Q: 死亡した尼僧はいたのか ?
A: いました。私が知っている限り、3人の尼僧が心臓疾患で死亡しました。けれど、もっと多くの尼僧が死亡したと聞いています。そのうちの1人は私と同郷の出身です。

Q: 彼女が亡くなったのはいつか ?
A: 何月かは知りません。それは、中国人が私たちの家々を解体することを告げた後のことです。この後、彼女は自分の家で亡くなりました。

Q: 彼女が亡くなったとき、ケンポ・ジグメ・プンツォクはセルタルにいたのか ?
A: いました。

Q: セルタルを発ってラサに行ったとき、何人の尼僧が留まっていたのか ?
A: ほとんどの尼僧はセルタルを去っていました。彼女たちは留まることを許可されなかったのです。

Q: 彼女たちはどこへ行ったのか ?
A: ほとんどの尼僧はセルタル近くの丘へ逃げ込みました。彼女たちは他に行く場所もなく、家族と農作業をするために実家に帰るつもりはなかったのです。若い尼僧にとって状況はより困難です。彼女たちには所属すべき尼僧院がなく、どうしていいのか分かりませんでした。彼女たちの多くはラサにいますが、実家に戻った者もいます。

Q: その後、何が起こったのか ?
A: 私は、セルタルから一緒にきた尼僧たちとラサを去り、ネパールを経由してインドへとやってきました。私と友人たちは離ればなれになってしまいました。後から聞いたところによると、彼女たちはチベットへと送り返されたそうです。

=====
第2のインタビューは、セルタルに長年住んでいた20代の僧に対して行われた。セルタルに留まることを許可された僧は1,000人だが、彼はその中の一人として選ばれた。しかし、彼はセルタルには問題があるとして留まることを断り、残留権を返却したため、ほかの僧が在留することとなった。彼は、残留を許可された1,000人の僧は、彼らの研究の成果に基づいて選出されたと報告している。

Q: 故郷の僧院には何年間住んでいたのか ?
A: それほど長い期間はいなかった。今より若い頃には数年間在籍し、夏や祭事がある場合に時々滞在したが、セルタルで過ごした時間の方が長い。セルタルでは10年間を過ごしてきた。

Q: セルタルに到着してからは、自分で家を建てたのか ?
A: そうだ。家族からもらった5,000人民元 (504 米ドル、417 英ポンド) を建築費用に充てた。

Q: セルタルを去る前に何が起こったのか ?
A: 中国人が僧院にやってきて、新しい規則が制定されたので残留を許可されるのは1,000人の僧と400人の尼僧だけであると告げた。私は残留を許可されたが、あそこに留まりたくはなかった。中国人 [当局] のセルタルでの行動を目撃した後では、留まる気がしなかった。また、自分の故郷の僧院に戻らなければならないと感じていた。そのため、私は自分の残留権を返却したので、私の代わりにほかの僧が残留することができた。

Q: セルタルに留まることを許可された1,000人の僧は、どのような僧だったのか ?
A: 学業、誓願、修行に秀でた僧たちだ。優れた学業を修める僧たちは、セルタルに留まることを許されたが、ほかの僧たちはそこを去らなければならなかった。1,000人の僧の出身地は、青海省、四川省、ラサ、その他すべての違う場所だ。留まることを許可された尼僧は、セルタル県出身者に限られたが、僧は、すべての違う場所の出身であった。

Q: 僧の選出方法に関してこのような規則を決めたのは誰か ?
A: [セルタルで警察として機能していた] 中国人の役人だ。僧に許可書を発行したのは、カンゼ州、およびセルタル県の宗教事務局だった。

Q: 許可書には何が書かれていたのか ?
A: 僧の名前、詳細な情報、写真、そして、宗教局のスタンプだ。僧たちは、許可書に署名捺印する必要はなかった。また、僧たちは、ダライ・ラマ法王に反抗することを求められなかったし、実践してもよい信仰、学業を指定されてはいない。今回の許可書は、僧がセルタルに留まることを許可するものだからだ。

Q: セルタルを出発する前に、壊された僧の家を目撃したか ?
A: 中国僧の家はいくつか壊されたが、そう多くはなかった。壊された家々のほとんどは、尼僧のものだった。[あの地域には] ほとんど他の尼僧院はなかったので、セルタルにはたくさんの尼僧が暮らしていた。尼僧は、自分の故郷に帰るのなら、ダライ・ラマ法王にはむかう手紙に署名しなければならなくなると聞かされていた。そのため、多くの尼僧たちはセルタル近くの丘に逃げたのだった。

Q: セルタルに最初に到着した中国人の役人は何人だったのか ?
A: 最初に、[省都である] 成都から国家統一工作小組、および宗教事務局が到着した。彼らは、状況について説明した。次に、違う県から違う役人たちがやってきた。私たちは、出身県ごとのグループに分けられた。その後、各県からやってきた国家統一工作小組と宗教事務局の役人が、すべての僧の身元を詳細に調べ、新しい規則を発表した。彼らは、留まることを許可されるのは1,000人の僧だけで、ほかの僧はすぐに去らなければならないことを告げた。セルタルには、私と同郷の僧が数百人いた。私と同じ県からは数人の役人しかきていなかった。ほとんどの役人は違う県からきていた。

Q: あなたの家は今でもセルタルにあるのか ?
A: そうだ。ほとんどのチベット僧の家は壊されてはいない。

Q: ケンポ職に就く僧は、セルタルに何人いたのか ?
A: 300人以上だ。

Q: セルタルに留まることを許可されなかった僧は、自分の故郷の僧院に戻ることを許されたのか ?
A: そうだ。

Q: 留まることを許可されなかった僧は、このことに関して書類に署名しなければならなかったのか ?
A: いや。書類に署名する必要はなかったが、「1,000人の僧がセルタルに残留することを許可され、私は自分の故郷に直ちに帰る」ということを、作業班に口頭で伝えなければならなかった。

Q: すべての僧が、これを言わなければならなかったのか ?
A: そうだ。残留を許可されなかった僧のほとんどは、秋までにセルタルを去らなければいけなかったと聞いている。ほとんどの尼僧は丘へ行った。セルタルを去りたくなかったある尼僧は、自分の家に留まっていた。中国人は彼女の家に入り、去るように命じた。尼僧は床にうずくまったままだった。中国人 [の役員] が彼女の頭に茶碗を投げつけたところ、出血してしまった。その後、彼らが彼女に銃を突きつけたので、彼女は去る以外方法がなかった。

Q: あなたは、セルタルを去った後、どこへ行ったのか ?
A: 自分の故郷の近くに戻ったが、その後、自分の持ち物を取りにセルタルに戻った。私の本や経典があったのだ。それから、新しい僧のために自分の家を掃除した。

Q: セルタルに戻ったときには、何人の僧と尼僧がそこにいたのか ?
A: 彼らのほとんどは去った後だった。セルタルは廃墟のように感じられた。

Q: 講義や学習は続けられていたのか ?
A: そうだ。ケンポ・ジグメ・プンツォクの講義を除いて、他のすべての講義は続けられていた。

Q: セルタルに滞在することを許された教師は何人か ?
A: およそ 100 人だ。

Q: 中国僧もまだそこにいたのか ?
A: 数人の中国人僧と中国からの学生がいたが、あそこに留まることは許されていなかった。すべての中国人僧、尼僧は去ることを命じられていた。

Q: 中国当局は、学習内容に何か変更を加えたのか ?
A: いや。僧は、中国語、英語、そして、その他のすべての文化的な事柄を学ぶことができる。

Q: 僧には中国語の学習が義務付けられているのか ?
A: いや。中国語を勉強しなくても構わないが、希望する者は学習できる。

Q: その後、どこへ行ったのか ?
A: その後、私はチベットを出た。国境付近に到着し、何とか出国許可を取得した。我々僧の一行は、ガイドに金を払いネパールまで案内させた。しかし、ネパールに到着すると、ガイドは我々を警察に突き出した。我々はネパールの警察署に連行され、所持金があるか訊かれた。一行の中のある女性は4,000人民元を所持していたので、我々は皆、1,000人民元を警察にそれぞれ支払わなければならなかった。警察は、金を支払わなければ、中国警察に引き渡すと言った。[金を支払った後] 翌日、自動車がやってきて我々をカトマンズにまで連れて行った。

共産党の政策と信仰の規制、そして、セルタルとヤチェンで起こった家屋の破壊と僧、尼僧の追放は、1980年代初頭から半ばにかけて認められていた自由政策が転換され、四川省のチベット地域の宗教活動が締め付けられていることを示す一例である。中国当局は、チベット地域の僧院、尼僧院の規模を制限し、僧、尼僧の数を減らそうとする手段として市民法や規則を濫用しているが、これは、中国全土で現在実施されている、党政策を強化するための法的機構の整備に基づくものである。

TIN の調査によると、1987〜1994年にかけて当局の間では、宗教活動を効率的に公的な側面から制御する手段がないことを懸念する声が増していたという。同時期、役人による管理を強化するために、いくつかの法律、そして規則が省や県レベルで制定された。1980年代初頭から半ばにかけて、四川省では信仰の自由に対する制限が緩和されたのを受けて、「宗教活動」を重視する動きが始まり、僧院の改築も行われた。後に、このような活動は「僧院の管理」へと移行したが、このことは、当局側の支配が強化されたことを意味する (1989年、カンゼ チベット族自治州の宗教事務局の報告)。

1980年以降から今日に到るまで、当局は新しい僧院の建設を制限する規則を施行し続けてきた。1992年、カンゼ宗教事務局は、当局の許可なしに新しい僧院が建設されたり、古い僧院が改築されていると発表し、次のように警告した。
「我々の省にある僧院は、宗教的儀式に必要な条件を既に満たしている。重要なのは、管理方法を改善することである。今後、原則として僧院が改築されたり、宗教活動の新しい場が設けられることはない。…該当するすべての立場にある役人は、認可されていない僧院の新築、または拡大を厳重に管理し禁止する必要がある」 1987年に四川省当局により施行された規則では、当省以外の出身である僧の身分が不明であったり、身分証明を持っていない場合、四川省の僧院に滞在することは許可されないことが規定されている。また、身分が明らかであっても、地元警察、または役所から認可されない限り、5日以上滞在することは許可されないことも規定されている。
(詳細については、
http://www.tibetinfo.co.uk/publications/bbp/bbp33.htm にある、TIN発行の
「比較的自由な状態とは ? 1987〜1999 年の四川省カンゼにおけるチベット仏教、および宗教政策」を参照のこと)。

1990年半ば以降、当局の目は、セルタル僧院での宗教活動に注がれ続けてきた。その最たる結果が昨年の家屋の破壊と僧、尼僧の追放である。セルタル、およびヤチェンの両方の場合でも、当局の主張が、僧院を「許容」範囲を超えて建設、および拡張することが違法であるということと、僧、尼僧の定数を遵守するということであるのは明らかである。

このような問題は、1980年の後半以降、四川省で導入されてきた宗教活動を管理する新しい法律や規則に直接関係している。中国当局は、宗教活動、および奨学制度を制限することは、法制の正常化に基づくものであると説明しているが、セルタル、そしてヤチェンでの出来事は、このような法律が施行されると、市民、政治、そして宗教の自由が直接抑圧、制限されることにつながるという明らかな事例である。