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中国政策の辛い任務に耐えるチベットの9歳の少年

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1999年6月29日
シガツェ(パリ インターナショナル・ヘラルド・トリビューン)

ギェルツェン・ノルプ

6月25日月曜日、ダライ・ラマと中国の政治の激しい闘いの渦中にあるわずか9歳のチベットの少年(ギェルツェン・ノルプ/写真右)が、チベット仏教寺院に到着した。

中国はこの少年をチベットにおける第2位の神聖なポストとして受け入れるようチベットに総括で強制したのである。けたたましくサイレンを鳴らす21台の警察のバン、1台の救急車、そして携帯電話を持った僧たちの一群に警護され、少年はチベット第2の僧院、タシルンポ僧院で年に1度の仏教儀式を執り行うため、まさに鳴り物入りで登場したわけだ。

30mに及ぶ大タンカ(仏画)御開帳の後、少年は警護の行き届いた取り巻きの元に戻った。数千に及ぶチベット人巡礼者たちの中には、寺院の土塀にひれ伏し、1995年に中国からパンチェン・ラマの生まれ変わりと公認されたこの少年を遠くから崇めていた。

一方、ダライ・ラマが認定した少年と家族は、自宅監禁にあるらしい。可愛い瞳をしたロンサン・カンパという名の少年を中国が外国の報道陣に公開したいきさつには、中国当局の権力誇示とためらいが見られ、中国がチベット人にこの少年を中国の新しい「智慧の大洋」(ダライ・ラマの意味)、パンチェン・ラマと認めさせることがいかに困難であるか示唆するものとなった。

6月18日未明、ラサにある寺を少年が訪問した時のこと(警護)を挙げると、自動小銃を装備した軍隊が(見晴らしのいい)有名なジョカン僧院の屋根に配備、ラサ郊外のバルコル地方一帯の交通を遮断、少年の到着を準備するため街から空港までの約90�の道路を遮断−といったことが行われた。その状況を見た者によると、6月20日少年がシガツェに到着した時と同様に警備は厳しいものであったとのことだ。

何世紀にも遡る新パンチェン・ラマをめぐる論争は、今ではただの宗教の争い以上のものとなった。それは、チベット内だけの論争ではない。中国の辺境のこの問題は中国の制度においても合法とされ中核に組み込まれるほどになり、中国政府が実体のないサポートをしていることを物語っている。また、1959年チベット民族蜂起以降亡命の身にあるチベットの精神的指導者、ダライ・ラマの権威が今も健在であることを強調するものだ。

チベット民族蜂起以来、中国は、チベット独自の文化とチベット仏教への残酷な弾圧政策と形式的な寛容政策を立ち替り行った。

チベットの至るところで反中国デモが激化していた時期の1989年1月28日、パンチェン・ラマ10世はタシルンポ僧院で死亡。表向きの原因は心筋拘束。パンチェン・ラマ10世は、多くのチベット人に愛され、また240万のチベット人のより良い生活のために中国の制度のもとで活動しながら、長期に渡り中国共産党の規則に対して批判を繰り返した。

ついにチベットにおける中国共産主義政策を批判したため8年拘留され1964年〜1982年の間、チベットに行くことさえ禁じられた。そして代々パンチェン・ラマが居住したタシルンポ僧院に落ち着くことはついに許されることはなかったのである。

皮肉にも多くの欧米のアナリストたちは、論争の火種を切ったとしてダライ・ラマを非難している。1995年、ダライ・ラマは、パンチェン・ラマの生まれ変わりとしてチベットのナクチュ地方の男の子を認定する。タシルンポ僧院の僧侶たちは、ダライ・ラマと秘密裏に接触、生まれ変わりと思われる子供たちのリストを提出していたのだ。ダライ・ラマが公表の場に立たず且つ中国政府が手順をふむということに反対しなかったならば、中国はダライ・ラマにパンチェン・ラマ11世選定に参加を許しただろう、とみる憶測がある。

しかしダライ・ラマが「パンチェン・ラマ生まれ変わりの男の子発見」の発表後、タシルンポ僧院長のチャデル・リンポチェは逮捕され、ダライ・ラマと不法に接触した罪で投獄される。今だリンポチェは釈放されていない。中国政府は先手を打ち、「金の壷からパン生地の塊を取り出す」という儀式を行い、違う少年を認定する。中国国営新華社通信は、近頃その違う少年を(パンチェン・ラマの生まれ変わりとして)「ソウルボーイ」と名付けた。

中国高官により管理された記者会見において、チベット仏教界の大立者たちは、これからチベットの人々が中国認定パンチェン・ラマを支持することを強調した。 チベット自治区副主席のニマ・ツェレンは警備取締強化の理由として「分離主義テロリストの活動」に対する懸念と発表。 「我々は何もしていない。ただ警備を増やしているだけである。あなた方が何と言おうと、チベットでは分離主義者の動きがあるのだ」

ジョカン寺の監督代理のワン・デュイは、(中国の)パンチェン・ラマの来訪に「光栄で感動的」と歓迎の意を述べた。 タシルンポ僧院の64歳の老僧アン・ツェリンは、無表情にこう述べた。 「あそこ(ジョカン僧院)の僧たちは少年の到着を『限りない幸福』と感じているよ」

しかしジョカン僧院もタシルンポ僧院も、僧たちは声をひそめて、少年を受け入れるよう中国政府から大きな圧力がかかったと非難する。ジョカン僧院の深紅の袈裟を着用した僧が語るところによると、真の信者としてこの少年の参拝に訪れた者はいなかったという。6月18日夜明け、僧院の115人の僧たちは、何が起こるのか伝えられないままに本堂に集められたという。

「皆が大変不愉快な思いをした。当局は私たちを脅した。おとなしく振舞わないと僧院から追い出すぞなどと言われた」
「ここでの圧力は、それはもう大変なものだ」

800人以上の僧がいるタシルンポ僧院の一介の僧は繰り返し言う。 「言う通りにしないと強制退去で僧院に戻れなくすると彼らに言われた」

中国は、チベットの僧院に所属する僧たちの数を既に制限している。文化大革命以前、タシルンポ僧院には3,800人の僧が修行していた。

タシルンポ僧院の3日に及ぶ今回の大行事に参加した多くの巡礼者たちは、中国の選択(中国認定のパンチェン・ラマ)を受け入れないと言った。初日の月曜日(6月25日)には、タンカ御開帳見物に1万5千人以上が参加した。

長い髪の毛を深紅の布で巻き、耳にはトルコ石のピアスをし、マニ車をしっかり廻してお経を唱えていた年配の遊牧民は、シガツェまで5日間歩き通したという。この遊牧民はたどたどしい中国語でこう言った。
「私は、あの少年のためにここにやって来たのではない。自分のカルマを良くするために来たんだ」