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『般若心経』法話会 2日目

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2021年1月6日
インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ

ダライ・ラマ法王による法話会2日目は、韓国語によるリズミカルな『般若心経』の読誦と、ジン・オク師の開会の言葉で始まった。ダライ・ラマ法王は「本日も引き続き『般若心経』の解説をします。この経典は、サンスクリット語の仏教の伝統に連なるほぼすべてのアジア諸国で唱えられています」と述べられた。

韓国の仏教徒グループのリクエストによる法話会2日目、法王公邸からモニター越しに参加者に語りかけられるダライ・ラマ法王。2021年1月6日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

「釈尊は初転法輪において、苦しみを認識するべきである、苦しみの原因を滅するべきである、苦しみの止滅を実現するべきである、苦しみの止滅に至る修行道の実践をするべきである、と明快に説かれました。私たちの心の本質は、清らかで汚れがなく、対象物を認識することができるものです。一方、煩悩は、私たちの心に一時的に偶然生じるものに過ぎないので、対策を講じることによってそれを滅することができます。ナーランダー僧院の偉大な導師の方々も、私たちには悟りに至る可能性(仏性)が生来的に具わっていると説いており、心の本質を認識することができます。煩悩を段階的に滅していくと、十力をはじめとする、仏陀のみが持つ善き資質が自然と生じてきます」

「私たちの学問の場である僧院では、論理と正しい根拠に基づいて記されたナーガールジュナ(龍樹)やチャンドラキールティ(月称)の著作を学んでいます。チャンドラキールティは、甚深なる空の見解を理解することができるのは、過去世からの善きカルマと習気じっけ(習慣性の力)の力によって鋭い知性を具えている者達である、と述べています」

「唯識派と中観派は、仏教哲学における2大学派です。唯識派は、主体と客体の間に二元性はないと主張します。一方、中観派は、事物は、それ自体の側から実体をもって存在しているのではないと主張しています。チャンドラキールティに代表される中観帰謬論証派は、事物が他に依存することなく固有の実体をもって存在するという主張は、4つの論理的誤謬に陥る、と明言しています」

「事物がそれ自体の側から実体をもって存在するという見解は、無知により対象を誤って認識する際の捉え方と同じであり、仮にそれが正しいとすれば、分析によってその実体を見つけることができるはずです。私たちを取り巻く物質的存在(色しき、音、匂いなどは、あたかもそれ自身の側から固有の実体をもって存在しているよう感じられますが、そうした実体を探し求めても、どこにも見つけることはできません。仏陀の形あるお身体(色身)や真理のお身体(法身)でさえ、その実体を見つけることはできません」

「『般若心経』において “色即是空” と言われているように、物質的存在(色しき)の実体を見つけようと検証しても、そのようなものは何も見つからないのです。では、事物は存在していないのでしょうか?いいえ、そうではありません。事物は、他の因と条件に依存して存在しているのです。昨日引用したナーガールジュナの偈頌には、“縁起によって生じたもの、それは空であると説く。それは他に依存して仮に設けられただけのものなので、それは中の道である(『中論』第24章18偈)” と説かれている通りです。事物は他の因と条件に依存して世俗のレベルで存在しており、私たちに利害を与えるという機能を果たしています。そのため、私たちは事物が存在するという言い方をしますが、事物は自らの側から固有の実体をもって存在しているわけではありません」

法話会2日目、法王公邸にて『般若心経』について解説されるダライ・ラマ法王。2021年1月6日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

法王は『般若心経』を読み進まれ、「無無明亦 無無明尽乃 至無老死 亦無老死尽」(無明もなく、無明が尽きることもない。これより、老死もなく、老死が尽きることに至るまで〔のすべて〕もない)という部分は、十二支縁起に関連させて述べられていると指摘された。

法王は、空性を理解すれば、所知障(一切智の境地に至ることを妨げている障り:煩悩が残した微細なレベルの汚れのこと)を滅することができるでしょうか、と問いかけられた。答えは「ノー」である。所知障を滅するためには、功徳と智慧の二資糧を積むことが必要である。布施の修行によって功徳を積むことができるのは確かであるが、さらに、“虚空が存在する限り、有情が存在する限り、私も存在し続けて、すべての有情の苦しみを取り除くことができますように” と願い、そのための手段として、自分が仏陀の境地に至りたいという動機によって布施行を実践すれば、膨大な功徳を積むことができる。膨大な功徳の蓄積は、所知障を滅する助けとなる。

他者を利益するために自分が仏陀の境地に至ろうとする勇気ある心(菩提心)は、非常に素晴らしいものである。菩提心は自己中心的な態度の対治となり、人我や法我に実体があると考える誤った見解をも衰えさせてくれる。温かな心があれば、動機も純粋なものとなり、逆境を悟りへの道として変えていくことができるだろう。

菩提心は、短期的には幸福をもたらし、長期的には悟りへと導く。菩提心を育むための最も深遠な修行法は、自分と他者を平等とみなし、自分と他者を入れ替える方法である。つまりは、他者の苦しみを自分が引き受け、自分の幸せを他者に与えるという、“トンレン” と呼ばれる瞑想の実践をすることである。

韓国人グループのリクエストによる法話会2日目、法王公邸にて教えを説かれるダライ・ラマ法王。2021年1月6日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

シャーンティデーヴァ(寂天)は『入菩薩行論』の中で、この強力な修行法を称賛している。


自分の幸せと他者の苦しみを
完全に入れ替えなければ
仏陀となることはできないし
輪廻においても幸せを得ることはない(第8章131偈)


続いて法王は、『般若心経』の真言によって示された悟りに至る五つの修行道の階梯について解説された。“ガテー・ガテー(行け、行け)” とは、資糧道、つまり、私たちが最初の体験として到達することのできる発菩提心の段階であり、さらに、加行道けぎょうどうでは、空性の初歩的な理解を得る段階を示している。“パーラガテー(彼岸に行け)” では、直観によって空性を理解できる見道に入り、それと同時に菩薩の初地に到達する段階に至る。“パーラサムガテー(彼岸に正しく行け)” とは、禅定を完成させ、菩薩の十地の最終地に至る修道の段階に達する。“スヴァーハー(悟りを成就せよ)” とは、無学道、つまり、完全なる悟りの境地に到達した段階を示している。

法王は、仏陀の境地に到達したければ、毎日菩提心を起こし、空性の理解を培わなくてはならない、と繰り返して述べられて、明日は菩提心生起の儀式を行うと告知された。

ここで質疑応答に移り、本日最初の質問者が法王に、精神的な修行をすると自己執着が強まるということはあるかと尋ねた。これに対して法王は、自分を大切に思う気持ちは、ごく自然な本能として生じる。釈尊は、人には悟りに至る可能性(仏性)が具わっていることを知り、三阿僧祇劫さんあそうぎこうという途方もなく長い時間をかけて功徳と智慧の二資糧を集積された。聖者アサンガは、他者を助けたいという情熱に突き動かされて、長い年月にわたって弥勒菩薩の瞑想をし、ついには弥勒菩薩からビジョンを通して教えを授かるようになったという。これらは、目的を達成したいという善い意味での執着が、慈悲と同義となった例である。

韓国人仏教徒のリクエストによる法話会2日目、インターネットを介して法王に質問をする参加者。2021年1月6日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

法王は、仏教で善友と呼ばれる “師” との係わり方についての質問に関連して、「他者のかき乱された心を鎮めたいと願う者は、まず自分自身の心が鎮められていなければならない」というツォンカパ大師の『菩提道次第広論』の一節を引用された。仏教の指導者となる者は、戒・定・慧(戒律・禅定・智慧)の三学を修習していなくてはならない。

その上で法王は、師の恩に報いるために、特に師と離れ離れになっている場合は尚のこと、師から教わった内容を実践し、修行すべきであると述べられた。師の教えを思い返し、それについて深く考え、瞑想によって教えが自分と一体となるようにすべきである。

次に、アーティストである質問者が法王に、特に強い印象を受けた芸術作品はあるかと尋ねた。これに対し法王は、最も驚くべき芸術は核兵器である。とてつもなく強力で破壊的だ、と答えられた。そして飛行機についても言及された。私たちにとって芸術や技術は必要ないなどと言うことはできない。しかし、その価値は、どのような使われ方をされるかによって決まる、と法王は断言された。仮に、芸術や技術が他者を破滅させることに使われたなら、これほど不幸なことはない。悪しき心が動機となって創造性が発揮されると、結果として価値のないものが生み出されることになる。

法王はさらに続けて、私たち全員が求め、また必要としているのは愛情や思いやりである。それゆえ、芸術の影響によって人々がお互いに親切や思いやりを示すようになるのであれば良いことである。人間は皆、他者の助けによって生き延びている。芸術作品に触れることで、私たちがより一層親切で思いやり深くなり、他者の恩に報いるようになるとしたら、それは素晴らしいことである。

次に法王は、異なる瞑想法について語り、単に心を内面に集中させ、無想無念の瞑想をしても、煩悩を克服することはできないだろうと述べられた。私たちに害を与えているのは利己主義的な態度と、人無我と法無我を理解せず、事物のありようを誤って認識している実体に捉われた心なのである。それゆえ、事物の究極のありようを明らかに理解して、他者への思いやりを育まなくてはならない。
法王は、一点集中の瞑想(止)や無想の瞑想だけでは、この目的を達成することはできないであろうと述べられた。さらに法王は、菩提心を育むことの重要性、人無我と法無我の理解ならびに、「究極の真理」(勝義諦)と「世俗の真理」(世俗諦)に対する理解を深めることが重要であると繰り返して強調された。

法王は最後に「また明日お会いしましょう」と述べられて、二日目の法話会を締めくくられた。