ニュース

ニュース

最新ニュース

これから開催するイベント

パンチェン・ラマ10世

Print Friendly, PDF & Email

チベット亡命政権 情報・国際関係省著「チベット入門」より抜粋

パンチェン・ラマ十世

パンチェン・ラマ10世は、その生涯をとおして、チベット同胞への思いと中国からの強いプレッシャーの間で板ばさみになっていた。1962年、パンチェン・ラマ10世は毛沢東に7万言の意見書を提出し、中国政府の政策を批判した。このとき中国当局は、自分たちがそれまで行ってきた押しつけが無意味に終わったことを知らされたのだった。パンチェン・ラマはただちに激しい政治運動に呑みこまれ、逮捕および「タムジン」(公衆の面前で批判を受け、恥をかかされる集会)を受け、1977年10月まで北京の秦城刑務所に投獄されることになった。中国の有名な反体制活動家・魏京生は獄中の悲惨な環境を伝えているが、パンチェン・ラマも、かつてハンガーストライキを起こしてみずからの命を絶とうとしたことがある。

パンチェン・ラマ10世が刑務所に囚われている間、その行方や健康状態はいっさい公表されることはなかった。新華社通信が1978年2月26日、北京で開かれた第5期中国政治協商会議全国委員会にパンチェン・ラマが姿を見せたと報じるまで、チベット人はその生死さえ知らされていなかったのである。

1980年には、全人代常務委員会の副委員長に復帰した。その後もパンチェン・ラマ10世は、チベット民衆のなかに帰りたいと、ことあるごとに繰り返した。1985年モンラム祭をラサで祝う集会の席で、パンチェン・ラマはこう語っている。

「ダライ・ラマ法王と私は、精神的な絆で結ばれています。法王と私は一心同体なのです。世の中には私たちを対立させようともくろんでいる人がいるようですが、それは無駄な骨折りです」

1987年3月、北京で開かれた全人代チベット自治区常務委員会において、パンチェン・ラマは、教育、経済開発、移住、チベット人への差別待遇などについて、中国政府のチベット政策をあからさまに批判した。1989年1月24日には、中国によるチベット支配をシガツェで再度非難し、チベットは中国から得た恩恵よりも中国によって失ったもののほうが大きい、と述べた。この歴史的な反中声明を出してからわずか4日後、パンチェン・ラマ10世はさまざまな憶測を呼ぶ謎めいた不慮の死を遂げた。しかしその死以来、パンチェン・ラマ10世は、チベット史上誤解の多かったラマとして、また毛沢東体制下の勇敢な批判者として、人々の心のなかに生きつづけている。