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胡錦濤中国副主席のラサ滞在中の警備

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2001年9月10日
TIN(チベット・インフォメーション・ネットワーク)

胡錦濤中国副主席の7月17〜23日のチベット訪問中のラサにおける厳重な警備について、さらに詳しい情報をTINが入手した。

ジョカン広場を警備する機動隊と、チベットの「平和的解放」五十周年の公式記念式典の写真はTINのホームページで見ることができる。

TINが得た信頼できる情報によると、副主席の到着に先立つ緊迫した数週間に、数人が拘留されたが、拘留された人の中には、記念式典組織委員会の委員も1名含まれていた。ラサの街路で治安維持作戦が行われたが、これは、チベット人を威嚇して抗議運動を行わせないようにするためであったらしい。

副主席はチベットと深い関わりがある。彼は前チベット自治区担当党代表委員として、チベットの首都で行われた一連の独立支持デモの後、1989年3月に戒厳令の施行を指揮した人物である。

数千人のチベット人が、武装警備兵に取り囲まれて胡錦濤の出席のもとに、ポタラ宮殿前広場で行われた7月19日の主要記念式典に出席するように命令された。一方、子供や学生、僧侶を含む他のチベット人たちは、ラサ公式訪問団を歓迎するさまざまな代表団を構成するように命じられた。

主要式典をテレビで見たり広場で見たりしたチベット人たちが、西側旅行者に語ったところでは、式典で中央政府と自治区の要人たちが行った演説は、多くの見物人が予想していたように、過去50年間に中国がチベットの発展のために果たした役割を強調するのではなくて、ダライ・ラマ攻撃に焦点があてられていたということである。

胡錦濤の訪問前の数週間に、警備は厳しく強化されていた。胡錦濤到着前の1週間から出発の数日後まで、ラサの住民は毎晩同じ警備手続きを見せられた。ジョカン広場の正面に4台のトラックが停まる。2台は放水砲搭載、2台は機動隊を乗せている。ヘルメットと暴動鎮圧盾で武装した迷彩服の警備兵たちがトラックを降りると、ジョカン広場を駆け抜けて行って警察署の前に整列するのである。

西側旅行者の一人がTINに語ったところでは、「これらの作戦は、地元民を威嚇するために行われているように見えた。」当時ラサに滞在していた西側旅行者たちは、ラサのチベット人地区であるバルコルの建物屋根の上に、中国政府軍の狙撃兵が配置されているのがはっきり見えたと報告している。

副主席到着の数週間前には、警備兵が早朝に何度か旅行者用ホテルを訪れて、身元確認と関係書類のチェックを行った。ラサの住民には、赤い旗と他の記念式典用の旗が配られて、住居や店に掲げるように命じられた。旗を掲げなければ罰金刑になると警告された者もいた。

胡錦濤が7月17日夕にラサに到着した時、西側旅行者の何人かが、部外者が警官によってポタラ宮殿前広場から排除される現場に居合わせた。旅行者の一人が次のように語った。「主に真新しい黒い征服を着たチベット人警官たちがやっていた。彼らは広場にいたチベット人を威嚇して、何人かを蹴ったりしたが、旅行者には非常に丁重だった。警官たちは、人々を広場の入り口から数百ヤード下がらせ、黄色の腕章を付けた私服警官がロープを持って、立ち入り禁止ラインを作った。周囲の街路はすべて封鎖された。通行許可証を持っている者だけが広場に立ち入りを許されていた」地区委員会の委員が群集の中に混じっていて、警察の行動を手伝っていた。

主要式典の出席は厳しく統制された。7月19日に広場で行われた祝典を見物するために、数千人のチベット人が、労働班から選出された。彼らは午前5時に集合して着席するように命じられた。警備上の理由から、日差しを遮るための傘も、水筒や食べ物も、所持品携行はいっさい許されなかった。式典出席を命じられていないラサ市民は、街路に出ないでテレビで式典を見るようにと、地区委員会から指示されていた。この警告にもかかわらず、数千人の人々が早朝からポタラ宮殿前広場近くに集まった。見物人たちは、正午頃に要人たちが広場を去った後、軍隊と警備兵が出発するのを見物した。目撃者の一人が語ったところでは、この軍隊パレードには、約2千人の軍隊、軽機関銃で武装した憲兵隊、放水砲搭載のトラック5、6台、機関銃手を配備したトラック数台、有刺鉄線を積んだトラック1台、戦闘装備をした大規模な機動隊が含まれていたということである。

当日写真を取っていた数人の旅行者は、警官によって、カメラからフイルムを抜き取られた。

信頼できる報告によれば、高位のチベット人数人と、記念行事に協力した警備兵に褒賞が与えられた。同じ情報によると、ラサの各僧院の運営責任者たちは、高額のボーナスと祝典翌日に1日の休暇を与えられた。また、地元警察署の警察官たちもボーナスや携帯電話を受け取ったということである。以上 この軍隊パレードの写真と、副主席の7月17〜23日の訪問中のラサにおける警備状況の写真は、TINのホームページで見ることができる。

註:TIN7月20日最新ニュース「中国副首相、ラサで『平和的解放』50周年を祝う」(http://www.tibetinfo.net/news-updates/nu200701.htm参照)で、胡錦濤のラサ訪問の日取りには何ら歴史的に重要な意味は無いと述べた。TINは今回これを訂正したい。中国副主席のラサ訪問には歴史的な意味があるのである。—ダライ・ラマが、ラサでの安全に不安があるために1950年12月以来滞在していトロモから、ラサに帰還することを決めたのが、1951年7月17〜21日のことであった。

しかしながら、胡錦濤のラサ訪問の日程を決定した主要な要因は、この歴史的な日付けとは関係が無い。副首相出席の記念式典が7月中旬となったのは、副主席と他の高官たちの都合によるもので、北京で行われるいくつかの重要な会議に出席することになっていたためである。またラサでは、このような重要な代表団を迎えるために、道路整備や建築、警備措置などの準備をしなければならなかったためである。