ニュース

ニュース

最新ニュース

これから開催するイベント

他国のために殉じた無名のチベット人勇者たち チタゴン現象

Print Friendly, PDF & Email

(2003年1月8日 特別寄稿 クロード・アルピ
*ザ・レディフ・スペシャル(The Rediff Special インドの有名なサイトthe Rediffの特別ニュース欄)

ビハール州は奇妙なところである。今から約2,500年前、ゴータマ・ブッダは愛と不殺生・非暴力の教えを説きながら、80年以上にもわたってその土地を歩いて周った。当時のビハール州は、インドの中で最も文化的・政治的に進んだ地域だった。しかし今日のビハール州といえば、後進性、腐敗、文盲、そして何といっても政治汚職と同じ意味となっている。一体何が起こったのであろうか。この汚れた「政治」のせいで、仏法に基づいていたビハールの社会構造が破壊されたと結論つけざるを得ない。

誰もが被害を被っている。最近、ダライ・ラマも少数のいわゆる「ネオ・ブディスト(新仏教)」なる僧侶らから、非難の的にされていた。

ブッダが菩提樹の下で瞑想にふけり悟りに達したといわれるブッダガヤでは、今、カーラチャクラの準備に向けて忙しい。このダライ・ラマの説法は一般参加者向けの儀式へと続くものであり、30万人を超える信者がやってくると予想されている。この説法のための準備がすすめられる傍ら、(既に死去した)アンベッドカル博士(Dr.B R Ambedkar)を勝手に師と仰ぐ教団の一部が、存命であってもアンベッドカル博士自身は自らの信者とは認めないだろうが・・・、ダライ・ラマを激しく非難している。彼らはダライ・ラマのインド追放を叫ぶにまで至っている。

この「ネオ・ブディスト」の僧侶らの手によるヒンドゥー語のパンフレット「インド内の外国政府」によると、ダライ・ラマがインドで亡命政府を組織するのはおかしいという。しかし、誤っているのは彼らの方だ。なぜならインド政府は、これまでダライ・ラマの行政府を亡命政府と認めたことは無かったからだ。ただ一度だけインド政府は、ダライ・ラマの行政府にしかるべき公的地位を認めるよう考慮したことはある。

シャストリ首相

1965年のパキスタンとの戦争の後、時のインドのシャストリ首相(インドの政治家。1904年生まれ。マハトマ・ガンジーの弟子。ネルー首相の後、1964年インド第2代首相に就任。1966年タシュケントで急死)はタシュケントからの帰還後、この地位問題について決定を下す旨を、ダライ・ラマの代理人に通知してきたことがあった。しかしチベット人(とインド人)にとって残念ながら、首相はついにタシュケントから帰ってくることはなかった。

現在ダラムサラにある、チベット亡命政権として知られるダライ・ラマの組織は、1959年にもたれたダライ・ラマと当時のインドのネルー首相との一連の会談の最初に、ネルー首相からの発案によって設立されたものである。その際、ネルー首相はチベット難民の社会復帰を見守る一方で、インド国ができることはチベット人子弟に教育を与えることだけである点をダライ・ラマに明確にしている。それ以来、チベット人の教育、福祉、ならびに宗教伝統の維持は、チベット亡命政権の主要な活動目的となっている。公的ルートを通じての義捐金は、アメリカ連邦政府からの225万ドルも含めて、全てこの目的のために使われている。誰しもダラムサラを訪れる者は、チベット難民子弟の教育が上手くいっていることを認めるであろう。

あの「ネオ・ブディスト」の僧侶たちが主張するもう一つの馬鹿げた話は、「ダライ・ラマは命永らえるためには身辺警護に依存せねばならず、それゆえに神聖な者ではありえない」ということだ。私は、ダライ・ラマが自らを「神聖」な者として振舞ったなどという記事をいまだかつて見かけたことは無い(神聖という言葉自体あまり仏教的ではないではないか)。逆に、ダライ・ラマはいつも自身を「単なる一仏教僧侶」と言っている。ダライ・ラマが警護を必要とするのは、彼の信条や精神性のレベルとは何ら関係がないことである。少なくとも国家情報部が「神聖」という言葉に神経をとがらせることなど無いという意味においては、インドは「世俗的」な国といえよう。

パンフレットの残りの部分についてはここで取るに足らない。主にダライ・ラマが中国と手を組んでシッキムを乗っ取ろうとしている、というもので、馬鹿馬鹿し過ぎて話にならない。彼らの中傷キャンペーンを通じて想起されてくるのは、チベット人がインドにいること、そしてそのチベット人がインドの国難に際してインドを助けてきたという、より重要な事実である。ダライ・ラマとその民チベット人はインドに対して一度も工作など働いたことが無いだけでなく、チベット人はインドの国威が危機にさらされた際にはいつも最前線にたったのである。こうした事実がメディアやインド民衆から完全に無視され、あまり知られていないのは極めて残念なことである。1971年のバングラデシュ解放にチベット人が加わったこと、さらにチタゴン陥落にチベット人が大きな役割を果たしたことを一体どれだけのインド人が知っているだろうか?

近頃、1971年の戦争に関するアメリカの公文書が公開された。これらの公文書(そしてその少し前のヘンリー・キッシンジャーと中国との秘密交渉に関する記録の写し)では、ベンガル人とインドに対してキッシンジャーとそのボスのニクソン大統領が仕掛けた汚い罠が明らかにされた。しかし、これまで誰が特殊国境部隊(Special Frontier Force)にいた陰のチベット人ヒーロー達のことについて言及してきたであろうか。

「モクティ・バフニ」(1971年のバングラデシュ独立戦争の独立軍の呼称)の中に紛れてチベット人将兵が戦争開始の数週間前に(間もなくバングラデシュとなる)東パキスタンに潜入し、橋梁や通信網を破壊した。この作戦は極めて秘密裡に行われたので、一人のチベット人隊長(インド陸軍の准将に相当)の指揮する3000名のチベット人兵士の活動については、カルカッタにいる東部管轄のインド陸軍将校たちでさえも知る者は少なかった。彼らチベット人兵士らがインド陸軍の進撃を助けたのである。1962年11月の部隊創設当初から、彼らは事実上総理大臣を意味する内閣官房長官の指揮下におかれていた。1971年には研究分析航空団の創設者であるR・N・カオが、陸軍を飛び越えてデリーから直接チベット人部隊へ指令を出すようになる。カオが当時の秘密を抱いたまま近年他界したのは遺憾なことである。特殊国境部隊を創設したインドのアバン将軍も同様に死去した。将軍は「チタゴンの亡霊」という回想録を書いたが、その中で彼の部隊はチベット人であったことを遠まわしに述べているに過ぎない。また1971年の作戦について書かれたもう一つの本の中では、当時の東部方面軍参謀長であり現在パンジャブ州の知事であるジャコブ中将は、チベット人の武勇伝について全く触れていない。

数年前、私は当時作戦を指揮したチベットの軍隊長に会う機会を得たが、彼は一般的なこと以外には語りたがらなかった。しかしインド軍についての詳しい情報源「バラトラ・ラクシャクBharat Rakshak」には、当時特殊国境部隊がバングラデシュで上げた戦果について、以下のように少し載っている。

「戦争がもうすぐ始まろうとする時に、特殊国境部隊にカプタイダムと橋の破壊作戦ほか、いくつかの作戦案が示された。監察長官は、特殊国境部隊はチタゴン占領に投入されるべきだと主張したが、これは特殊国境部隊がこの種の任務に必要な砲兵部隊もしくは空輸部隊をもっていないとの理由で退けられた。3週間にわたる国境地帯での戦闘の後、特殊国境部隊は傘下の6個大隊を3縦隊に編成し、1971年12月3日、東パキスタンに進攻した」

パキスタンが降服するまでに、特殊国境部隊は56名の戦死者と190名近くの負傷者を出したが、東パキスタン軍のビルマへの退路を未然に遮断し、パキスタンの第97独立旅団と第2奇襲大隊の進撃をチタゴンの丘でくいとめた。インド政府に特殊国境部隊は正式に存在していないということになっていたため、部隊で勲章に与る者はいなかった。しかし、勇敢なチベット人「コマンドー部隊」の幾人かには、インド政府から報奨金が出された。

こうして見ると、チベット難民が自分たちを受け入れてくれた国インドに対して抱いている誠意や奉仕の心を、今我々が疑うのはおかしなことである。私はシアチェン氷河問題(1984年以来カシミール紛争の敵対する印パ軍隊が塹壕を構える標高6000M以上の北部停戦ラインで、1995年両軍が交戦した) や1999年のカルギル紛争(インドとパキスタンが接するカシミール州カルギル地区で両国軍が衝突した)で命を落としたチベット人たちについてはここでは触れない。現在、標高の高い戦場の多くで、特殊国境部隊は高山地帯の戦闘に優れたラダック偵察部隊やその他の地方部隊にその地位を譲った。しかしなお、彼らはインドの国境を守るために戦う態勢にあるのだ。これらの事実を知らされたとき、インドの人々はいつも深い感動を覚える。この前、チェンナイから来たチベット人学生たちの催しを目にした時もそうだった。催しの最後に、学生たちはカルギル作戦に参加した特殊国境部隊の、一チベット人兵士によって書かれたヒンドゥー語の詩を詠った。歓び、哀しみ、とさまざまな心の抑揚を詠ったその詩は、その詩人のチベット人兵士が、彼ら難民を受け入れてくれ保護と教育を与えてくれる第二の故郷と、インドの人々に対して捧げた感謝のしるしだった。インド南部の人々にヒンドゥー語は分かりづらいものであったが、学生達がその詩を詠い終えた後、多くの聴衆が泣いていた。

今日、慈悲と不殺生・非暴力を実践するダライ・ラマは、世界で最も尊ばれる指導者の一人である。1989年、ダライ・ラマは彼の30年に及ぶ非暴力に基づくチベット問題の解決への努力が認められて、ノーベル平和賞を授与された。このようにブッダの教えを実践する一方、彼はいつもインドの側に立ってきた。これはインドがブッダの教えに適わぬことをしたときもである。これはまさに、彼がいかにチベット人を受け入れてくれた国を愛しているか、最高の証左と言えるのではないか。最もよく知られている例はインド北西部ラジャスタン州ポカラン砂漠での核実験のときのことだ。アメリカも他の大国もすぐにインドへの制裁措置を決めたが、ダライ・ラマはこう宣言した。

「私は核兵器は余りに危険過ぎると思います。ですから、核兵器を無くすために、私達はあらゆる努力をしてゆかなくてはなりません。しかし、ある国は核兵器を保有してよいが、他の国はダメだ、という考え方はどうでしょうか。これは民主主義に反していると思います。先進国が核兵器廃絶のためにインドに圧力をかけるのは間違っているのではないでしょうか」

例え自らが深く信じることに真っ向から反していても、インドが他の国から非難された場合にはインドの立場に理解を示す点によって、いつもインドを「アヤブミAryabhumi(聖者の国)」と呼び、「チベットはインドの子」と宣言するダライ・ラマの人となりは証明されているといえる。まさにインドは、ダライ・ラマの世界平和への貢献、彼が全世界に負っている責任、そしてインドの最も崇高な精神的価値観にたいする彼の擁護を認め、彼にバラト・ラトナ賞(Bharat Ratna:インドの国に貢献した人に与える名誉ある賞)を授与するときが来ているのではないだろうか。ダライ・ラマが反国民感情を刺激しているとの訴えは、非仏教的な政治が行きつくところまで行ってしまったことを示しているのではないか。ブッダガヤに集まる信者達の世界平和への祈りが、こうした傾向を是正せんことを願おう。

参考資料:この記事に関して、インドの人々の反響

「なんて素晴らしい記事だろう。深く感動した。こうした記事をもっと書いて欲しい」

「この記事の話に大いに啓発された。わが国のために闘った勇敢なチベット人たちに敬意を表したい。私はチベット人を外国人だと思わない、彼らは今やインド人だ」

「なんて素晴らしく心動かされる話だろう!とても感動した」」

「拝啓、編集者様。インドのために人知れず闘ったチベット人についての素晴らしいリポート。もちろん、ダライ・ラマが言っているように、インドは『聖者の国』で『チベットはインドの子供』だ。インドとインド軍のために、その身を捧げたチベットの兵士たちに心より敬意を表したい」

「このようなリポートは、(インド人とチベット人の)仲を引き裂き、争いの種を撒くような人たちの心無い行為などを避けるためにも必要である」

「素晴らしいリポート。このような建設的な記事をもっともっと提供してほしい」

「この記事は出来栄えも見事で、今まで知られていなかった多くの情報を明らかにし、問題を徹底究明しようとするジャーナリストの努力の成果だ。しかし、今やジャーナリストやライターたちのファッションになっている人気の『汚れたビハール州』バッシングをくどくど言わなかったなら、この記事がその価値を失うことはなかっただろうに私は思う。この記事の結論で、書き手が偏見を持っているということがわかる。私はビハール州に後進性や文盲率、汚職問題があると議論しているのではない。この記事の中身は、結論にささっと触れただけで、地盤の詳細については一切触れていない。この記事がビハール州に何か役に立つものがあるとは思えない。この記事は全部、ダライ・ラマとチベット人についてのものだ。ダライ・ラマに反対する『ネオ・ブッディスト』全員がビハール州の人間なんていう証明はない。ビハール州の人間として私は、ビハール州の名を汚す括弧たる根拠もなしにこうした記事を出すことに大変遺憾に思う」

「このリポートをとても興味深く読んだ。インドの『ネオ・ブッディスト』については、ラテン語の諺『僧衣を着ているからといって本当の僧とは限らない』があてはまる。僧衣を着たからといって、彼らネオ・ブッディストたちが自然に仏教徒になるわけではない。仏教とは、私の個人的見解だが、集団全体としてでなく、涅槃の境地を得ることに興味がある個人にはいいと思う。歴史的にも仏教は確固たる地位を得たが、(僧院や経典などは)乱暴に略奪され、冒涜された。近年の最大の犠牲として挙げられるのは、チベットで起きていることだ。インドを守ったチベット人の貢献について述べたこのリポートを深く評価したい」

「このリポートは確かに素晴らしい。しかし、ある少数の人々が批判していることを、まるでインド湖民全体の意見というふうに考えてはいけない。インドとインド国民の大多数は、ダライ・ラマに大いに敬意を表しており、チベット人がチベットで正当な権利を持つべきだという主張に大いに賛同している」

「このリポートに大いに感謝している。これを読まなければ、私は(チベット人の勇気ある)行動を知らなかっただろう。彼らの奮闘を称えるとともに、このリポートにも敬意を表したい」

「この記事は誠に心を打つものであり、これまで知られなかったチベットの英雄たちに光を当てた。インド人なら誰でも彼らに敬意を表するはずだ」

「このリポートに大変啓発された。私たちインド人は、チベット人のあのような勇敢な行いが記事になったことを大変うれしく思う。ダライ・ラマに対して狡猾な一連の活動を行っている一部の似非仏教徒など馬鹿げている。この記事は新聞に出すべきで、サイトにも目立つように出すべきだ」

★クロード・アルピ(Claude Arpi)

インド在住のフランス人歯科医。中国学者でチベット学者。インド・チベット関係専門家。