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チャデル・リンポチェ釈放—見せかけの宣伝行為か

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2002年2月20日
ダラムサラ(TCHRD チベット人権民主センター)

TCHRD(チベット人権民主センター)が受け取った確かな情報によると、タシルンポ寺元管長で、第10代パンチェン・ラマ継承者探索委員会の責任者であるチャデル・リンポチェ(62歳)が、川東第三刑務所から釈放されたということである。しかし、チャデル・リンポチェは、シガツェにてひきつづき軟禁状態にある。具体的な軟禁場所、健康状態に関する情報はいまだ入手されていない。

チャデル・リンポチェは、「国家分裂謀議」と「国家機密漏洩」の罪で6年間の禁固の後、2001年5月に釈放されるはずであった。1995年5月以来、その禁固期間の詳細については、公式声明も首尾一貫しておらず、明らかにされていなかった。

1995年5月14日、ダライラマは、当時6歳であったゲドゥン・チューキ・ニマを第10代パンチェン・ラマの転生者として発表した。そして1995年5月17日、チャデル・リンポチェは行方不明となる。

チャデル・リンポチェ失踪の三ヵ月後、中国外務省のスポークスマンは、リンポチェの拘留を否定し、「病気のため入院中」であると述べた。中国側が、はじめてリンポチェの拘留事実を公式に認めたのは、1997年5月の政府系通信社である新華社の発表をもってである。その発表内容とは、シガツェ人民法院が1997年4月21日、チャデル・リンポチェに1997年5月5日より6年間の禁固刑に処する判決をくだした、というものであった。これは、逮捕当日から始まる拘留期間は禁固期間に含まれる、という改定後の中国刑事訴訟法の規定に反しており、チャデル・リンポチェの判例においては、その違反の程度ははなはだしい。しかし、さらに混乱を招くことに、英国外務連邦省は2001年2月、チャデル・リンポチェの裁判が1996年に行われたという報告を受けていたのである。そうなると、リンポチェが釈放される期日は2001年5月ということになる。

「今回の釈放は、ブッシュ大統領の訪中に時期を合わせた、中国政府の名ばかりの宣伝行為にすぎない。事実、チャデル・リンポチェは、拘留の継続にすぎぬ軟禁状態にあり、この状況は深刻な懸念を生み出している」と、TCHRD上級プログラム担当職員ユードゥン・オーカツァンは述べている。

チャデル・リンポチェは、拘留前、民政協会理事、タシルンポ寺の民主管理委員会委員長という地位にあり、また、中国人民政治協商会議メンバー、チベット自治区政治協商会議副主席でもあった。

1996年までには、チャデル・リンポチェは、「基本的な原則に違反し、愛国者としての政治的立場を失った」ため、すべての公的地位から罷免されていた。1996年5月24日、ラサ・ラジオ放送は、「これにより、中国人民政治協議会から有害分子を一掃し、浄化することができた」と宣言している。

1997年9月頃、チャデル・リンポチェの拘留場所に関する当初の発表内容がチベットから外国にもれた。それによると、初めはトチュ県(中国名:黒水)に留置されていたが、後に、重要政治犯を収容する四川省大足(Dazu)県河東第三刑務所に拘留されたという。伝えられるところでは、チャデル・リンポチェは判決後、4月下旬もしくは5月初旬あたりに、「刑務所の中の刑務所」といわれる国家最高機密の収容所に入れられたということである。