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チベット占領とその影響 第一部「チャイナ・シンドローム」

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2001年7月18日
ニューデリー(ザ・パイオニア)

【編集記:この2部構成の記事は2001年5月23日にニューデリーのインド国際センター行われたVIJAY KRANTI(ヴィジェイ・カランティ)の講演「チベット占領とその影響」からの抜粋である。講演はチベット議会政策研究センター(TPPRC)主催により、特別講演シリーズとして、チベット占領50周年を記念して行われた。講演の全文をお読みになりたい方は次のメールアドレスで著者にコンタクトを取ってください:vijaykranti@vsnl.com】

(概要:この2部構成に亘る分析では、シニア・ジャーナリストであり、チベット学者である著者が、1951年のチベット占領が南アジアに及ぼした影響をまとめている。この出来事により、中国軍は史上初めてインドと対面し、ネパールとブータンといったヒマラヤ諸国も脅威にさらされることとなった。東方では弱小国ミャンマーが中国の同盟国として登場し、中国軍にインド海へ通じる直接ルートを提供した。西方では、インドと敵対していた弱小国パキスタンが、インドをアラビア海側から包囲するために必要とされるすべてを中国に提供した。中国によるパキスタンへの核軍備援助は、パキスタンのインドに対する敵対心と重なって、一方あるいは両国に壊滅的な結果をもたらす核戦争の危機を増加させた。そのような状況になれば、中国はアジア随一の覇者となり、世界の恐るべき超強国になる。)

第一部「チャイナ・シンドローム」

最近、北京は風変わりな記念を祝うのに忙しい。それは、中国がチベットの「解放」と名付け、チベット人が「占領」呼ぶ50周年記念である。中国の公式スケジュールによると、数々の祝典は1年にも及ぶ。

中国がチベットとの協定締結を宣言したのは1951年5月23日のことであった。その目的はチベットを中国に同化させることにあった。協定に含まれる条文の数から「17か条協定」としての方が知名度の高いこの協定は、1949年、脆弱なチベット軍が毛主席の強力な人民解放軍(PLA)の手によって敗北したのちに締結された。この攻撃により、中国はチベットのカムとアムド地方を占領し、その目的がチベットを完全に「解放」することにあると宣言した。

17か条協定は基本的にチベットを中国に併合することを文書で宣言したものだ。その見返りとして中国は、チベット文化、ダライ・ラマとパンチェン・ラマ制度を含めた社会制度、そして当然チベットの発展を尊重することを約束している。中国は、まさに歴史的に重要な瞬間にチベットに侵入し、占領した。そのとき、南アジアは長年にわたるイギリス植民地支配の呪縛から独立への道を歩み始めたばかりだった。中国のチベット占領は、南アジア全体の運命と政治文化に影響を及ぼす唯一最大の重要な展開となった。従って、この展開の後、南アジアにどんな出来事が発生するのか見るのは興味深い。

ヒマラヤ山脈が消滅したとき 1949年に中国がチベットを攻撃・占領して生じた衝撃は、ラサ在住のインド人使節がインド政府にあてた歴史的な電報によって最もよく言い表されている。電報はこう始まっている−「中国がチベットに侵入した。ヒマラヤ山脈は消滅した」状況をなんとも予言的に言い当てているではないか!

それ以前はヒマラヤ山脈がインドを守っているという共通の信念があった。しかしチベット占領後に、中国軍がインド北部の扉の目前まで行進してきたとき、インドを中国から守ってくれていたのはヒマラヤではなく、中国とインドの間に安全な楯として存在していた自由なチベットだったのだと初めて気付いた。中国がチベットに加えた一撃で、この世で最も平和な境界線だったインド=チベット間の国境が赤く危険なインド=中国間の国境に変わってしまった。

脆弱な王国

政治のオブザーバーたちは、チベット占領後、北京の統治者たちはヒマラヤの小国であるネパール、ブータン、シッキムをも占領するだろうという懸念を表した。だが、中国はこれらの懸念が杞憂にすぎないことを示した。中国のこの「善行」には多くの理由があった。第一に、チベットと違ってこれらの国々、特にネパールとブータンは国際コミュニティにとって必要不可欠な一部だった。占領しようとすれば、国際的な抵抗を少なからず招くことになっただろう。第二に、いざとなったら、わずかな労力と時間で人民解放軍(PLA)がこれらの諸国を侵略できるという事実に中国の指導者層が満足していたからだった。

だが、中国がこれらヒマラヤの国々を占領しなかったのは、中国に先見の明があったためという理由が上述した要素よりも大きい。中国の占領地としてより、独立国としてのネパールとブータンを適切に扱った方が、インドに対する有用な道具になることを十分に認識していたのである。インドの地所が放火されるに至った最近の出来事や、インドの映画スター、リティック・ローシャンの捏造された発言に対して、ネパール中に反インド感情が沸き起こったことから、現在のネパールにおける中国の影響がいかに大きいかが十分察せられる。

しかしながら、南アジアでインドが中国よりも優位にあった地域が一箇所だけあった。それは伝統的にインドの保護下にあり、事実上インドの一部でもあるシッキムだった。シッキムがインドに併合されたのは、インドが故インディラ・カンジーの統治下にあったときである。彼女は中国の考えを正しく見抜いていた唯一の首相だった。今日、歴史を振り返ってみると、当時のガンジー夫人が抜け目なく行動していなかったら、北京はシッキムを即もうひとつのチベットにしていたと言えるだろう。

ブータン:中国の利益、インドの損失

インドに関する中国の影響力が徐々に、しかし確実に浸透していった1950年代後期、ブータンでの情勢は決定的な変貌を遂げた。首都ティンプーにおける中国の影響力が増し、この小ドラゴン国で反インド勢力の影響力が大きくなると、インドへの風当たりは強くなった。インドはほんの2,3年前までは、ブータンの外交問題を動かしていた。今では、過去とは対照的に、ブータンでのインドの存在は、大声で主張することすらできない不機嫌な兄貴分という役割に成り下がってしまっている。ブータンの対インド外交方針において、中国が重大な要素になっていることに気付かされた例は過去たびたびあった。

ティンプーにおける中国の決定的な影響力が初めて誇示されたのは、ブータンが約5千人のチベット人難民を追放した1970年代のことであった。チベット人難民はインドから経済的支援を受けて1959年からかの地に暮らしていた。続いて、難民を中国に引き渡すと脅されると、ショックを受けたニュー・デリーは、第二のリハビリのために、彼らをインドに受け入れざるを得なかった。

インドは過去数年間、ブータンのテロリスト組織、アッサム統一解放戦線(ULFA)の反インド訓練・支援グループの存在を懸念してきた。インドからの再三の要求にもかかわらず、ティンプーはニュー・デリーに対して、アッサム統一解放戦線よりもインドの方が重要であるという態度を示したことはほとんどなかった。最近の報告書によると、ブータンの政府機構はアッサム統一解放戦線の装備一式のために、保護とロジスティックの支援を提供しているという。また、ブータン政府はアッサム統一解放戦線テロリストをインド軍から保護するため、彼らにロジスティックな支援を与え、チベット国境に近い場所へ移動させた。中国のチベット占領により、この脆弱なヒマラヤ国の思考が変化したことを示す例は他にも多くある。

ネパール:中国の衛星国に?

ネパールの場合、中国の増大する影響力は、ブータンのそれよりはるかに深刻で根深いものがある。ネパール発展のために多額の資金を投じてきたインドとは違い、中国はより賢明なことに、このヒマラヤのヒンドゥー王国で影響力を保持しつつ、個々人と組織に資金の使い道を集中してきた。

中国はネパールの官僚、メディア、政治グループに焦点をあて、繰り返し自らの権益を促進し、反インドへの憎しみを煽り立てた。だから、でっちあげられた出来事をもとに、組織化された反インド運動が数か月ごとに発生しても少しもおかしくはない。それがインドの映画スターの捏造された発言であろうと、ネパールでの電源共有がインドの手による水力発電プロジェクト(というデマ)であろうと、王室ファミリー暗殺であろうとなんでもいい。第二の政治的勢力として共産主義が登場し、毛沢東主義の触手が農業国ネパールに広がることで唯一得をする存在−−それは北京なのである。

赤い軍隊とネパール体制におけるその他の親中的な要素はますます影響力を増し、ついにカトマンズはあらゆる場面で、誇り高い独立国としてではなく、中国の衛星国として振る舞うようになってしまった。従って、ネパールに在住するチベット人難民の政治的活動が一切禁じられたのはごく当然の成り行きであった。2000年12月にダライ・ラマの即位式50周年記念を祝うことすら許されなかった。同年5月23日には、中国のチベット占領50周年に対して、デモ活動をすることが完全に禁じられた。1970年代半ば、ネパール国軍は北京の命令により、ほとんどのチベット人ゲリラを殺害し、インドへ追いやった。

開発援助という話題を取り上げると、中国からネパールへの援助は主に道路建設と、インド対中国の緊張が激化した際、中国軍がネパールを侵略して、インドの中核地域、ウッタル・プラデーシュ州と西ベンガル州に迅速に移動しやすくなるための基幹施設に集中的にあてられた。ブータンの場合も、この小さなドラゴン国を侵略して、インド本土から北東部の全州を切り離すのに、ほんの2,3時間しかかからないだろう。

ネパールとブータンには毛沢東主義者とその他の親中派の友人がいるため、インド軍の背後からの攻撃は防御されてしまうだろう。最新ニュースによると、中国はネパール内陸部と占領されたチベットを結ぶ新道路をネパールに建設する予定である。

この状況と、ピトールガル(Pithoragarh)地域のうちインドが隣接し領有する部分(中国に占領されたチベットとインドの中核地域を隔てている)における、インドの防衛準備水準を比較することは興味深い。1962年にインドが中国から攻撃された後、意気消沈した当時のインド防衛計画者は、インドの国境とピトールガルの中核地域およびその周辺地域との間を結ぶ道路は建設しないことに決定した。この戦略の裏には、勝者であり攻撃的な中国軍がインドの中核地帯に迅速にたどり着くのを阻止したいという哲学があった。インドのカイラシュ-マナサロワールの巡礼者とインド軍は、まさにその地帯を通過する。彼らがインド・チベット・ネパールの3国が合流するインドのリプラ(Lipu-La)国境区域にたどり着くには、カーリー・ナディ川沿いを歩いて6日以上かかる。

インドのこの状況とはまったく対照的に、人民解放軍と、リプラの境界区域全体にまたがる広大なチベットの道路網を結ぶ最短道路はわずか徒歩10分の距離しかない。インドと中国の対立が加速すれば、中国軍がネパールを侵略して、インドの入り口、ウッタル・プラデーシュと西ベンガルの中核地域に到達するのに24時間とかからないだろう。中国が提案どおり、青海(アムド)−ラサ鉄道網を4,5年以内に完成させれば、インドにとって状況は更に悪化する。

意気消沈したインドの施政者の手による国防手段は、なんて敗北主義的で自滅的なのだろう?残念ながら、このように無防備で覇気がなく惨めなインドの自己評価は唯一の出来事に起因している−−それは中国のチベット占領である。歴史的展開がもたらした途方もない結果は、あの運命の日、インドの支配層によってもたらされたことに議論の余地はない。