ニュース

ニュース

最新ニュース

これから開催するイベント

チベット仏教僧院長強制退去続報 文化大革命以来最大規模の文化破壊が目的

Print Friendly, PDF & Email

2001年9月27日
カトマンドゥ

チベットの情報筋によれば、チベット東部ラルン・ガル僧院の僧院長ケンポ・ジグメ・プンツォクが強制的に僧院施設から退去させられて、バルクハム(中国名Maerkang)の陸軍病院に収容されているということである。8月中旬の弾圧以後、師は消息不明だった。

警備が厳重で、ケンポの直弟子たちやラルン・ガル僧院の指導僧たちも面会を許されていないということである。ケンポ・ジグメの姪でラルン・ガル僧院の教師でもあるジェツン・ムンツォも、バルクハムにいるとのことである。

6月下旬、共産党役人たちのラルン・ガル到着後、ケンポ・ジグメ・プンツォクの健康状態は悪化していた。糖尿病と高血圧のために歩行困難だったが、漢方医学と西洋医学に通じたチベット人主治医から治療を受けることを希望して、僧院の宿舎を出ることを拒否していた。

ケンポ・ジグメ・プンツォクの退去は正式の拘留によるものではないが、ラルン・ガル僧院にもどることは許されていないと、複数の情報筋が伝えている。ケンポ・ジグメ・プンツォクの排除が、ラルン・ガル僧院弾圧の重要な目的であったようだ。ケンポ(チベット語で「尊師」の意)には強力なカリスマ性があり、何千人もの真剣な仏教学生が師を慕って山中の僧院に集まるため、中国政府は退去するよう師に圧力を加えていた。

「チベットの優れた仏教指導者であるケンポ・ジグメ・プンツォクの強制退去は、チベット仏教にとって深刻な打撃だ。」と、ICT(インターナショナル・キャンペーン・フォー・チベット)代表のジョン・アカリーは語った。

さらに、アカリーは「もし師が正式に拘留されたのなら、チベット仏教にとっては、パンチェン・ラマ拘留とカルマパ亡命以来のもっとも重大な敗北だ」とも語った。

弾圧の新情報

6月28日、文化大革命以来これまでになかった程の規模で、工作隊が伝統的チベット様式住居の破壊を始めた。伝えられるところでは、これまでに2千の瞑想用僧房が破壊された。これは、先に報告された数のほぼ2倍である。8月末には、僧坊破壊は広大な僧院敷地の北側を中心に行われ、瓦礫の周りに柵が作られていた。破壊された僧房は、ほとんどが尼僧の僧房だった。 セルタルの郡都ゴンゲンタンからドランゴ(中国名Luhou)に向かう主要道路には、ラルン・ガルへの立ち入りを阻止するためにバリケードが築かれ、人民解放軍の兵士が配置されているということである。ラルン・ガルはゴンゲンタンから約15キロ南の谷沿いに位置する。

僧院破壊活動のために、数百人の中国人移住労働者が導入され、伝えられるところでは、僧坊を1戸破壊する毎に250元(32ドル)の報酬が与えられたということである。労働者たちには、建物内部の建材や備品を私物化することが許されたという。破壊活動の間、武装警官隊が僧院施設一帯に配置された。僧侶や尼僧側から報復が行われたことは報告されていない。

弾圧活動はワンという役人によって監督された。新情報によれば、この人物は四川省「統一戦線」の責任者である。彼はワン・プトラン(「ワン主任」)と呼ばれている。ワンは、僧院破壊と追放を実行するために6月ラルン・ガルに到着した、北京の統一戦線から派遣された役人、武装警官隊、工作隊を含む共産党役人団の責任者である。

チベット中部出身の尼僧で、党役人から僧房退去を命じられたが拒否したという人物が、次のように語った。「彼らは私に、実家に帰るように、ただし他の尼僧院に行ってはならないと命令しました。私は退去したくないと答えました。すると2人の武装警官が私の木造僧房に入ってきて、仏像を床に投げつけました。私を僧坊から引きずり出すと、警官のひとりが私の祈祷書(仏教の経典)を薪ストーヴに投げ込みました。まるで1960年代後期のようでした」彼女は、文化大革命時代に行われた、チベット仏教僧院の大量破壊に言及したのである。

ラルン・ガル僧院の尼僧の多くは、ケンポ・ジグメ・プンツォクやジェツン・ムンツォ(ケンポ・ジグメ・プンツォクの姪)その他の教師から仏教教育を受けながら、非常に乏しい財源で細々と暮らしている。

ある尼僧によれば、多くの尼僧たちは、ラルン・ガル僧院からすすんで退去するなら、各々の生地に帰るための旅費と落ち着くための経費として、200元(約25ドル)を支給すると言われたということである。実際にこの補償を受け取った尼僧がいるかどうかは不明である。

2週間前にラルン・ガルを訪れた人物からの信頼できる情報では、破壊された瞑想用僧坊の数は2千以上だという。ほとんどの破壊された僧坊に住んでいたのは尼僧である。

ンガワン・ウセルという僧侶からICTに寄せられた報告書によると、多数の尼僧が、ラルン・ガルから徒歩で数日の距離にある山中や森林に避難したという。ウセルの報告は次のように述べている。「(尼僧たちは)食糧もほとんどないまま、1ヶ月以上も野宿している。また他の多くの尼僧たちは窮乏状態にあり、行くあてもないまま、村々やバス停留所その他をさまよっている。彼らは役人から、生まれた村にもどらなければいけないが、その地の僧院に入ってはいけないと命令された。実はこの命令のために出生地に帰れなくなっているのだ。」

最近カムとアムドに立ち寄った西側の旅行者が、ンガワン・ウセルの報告が真実であることを確認した。「青海省からラサまで、至る所で、何組もの尼僧たちがさまよっているのを見かけた。」と、フランス人女性がICTに語った。「寒冷期になってきたためラルン・ガル近くの山にはいられないが、行くところがないのだと、彼らの多くが話していた」

仏教僧院の習慣として僧侶と尼僧が立てる誓願には、「家を出る」ことが含まれる。家庭人としての生活と縁を切るためである。これはチベットの尼僧にとっては、子供を養育し、野良仕事や商売、家事に従事する生き方ではなく、瞑想と学問の簡素な生活を送るという選択を意味するものだ。

昨年ラルン・ガルを訪れた西側の仏教学者が、ICTに次のように語った。「チベット、インド、ネパールなどの、どこのチベット人社会でも、ラルン・ガルのような場所は見たことがありません。僧侶や尼僧たちが、チベット高原の高地で、本当に瞑想と学問の生活を送っています。そこのケンポ師(ケンポ・ジグメ・プンツォク)は、教えの中で僧院修行を強調し、外面的以上に内面的精神的な僧院生活をすることの意義を説いています」

歩行困難な高齢の尼僧たちは、報告によれば、ラルン・ガル僧院にとどまることを許されたが、敷地の南側にまとめられているということである。

セルタルのある僧侶は、「短期的には残ることが許されているとしても、長期的には、役人たちは、全ての尼僧の退去を望んでいる」と電話で語った。