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ザ・サバイバー:60年来の「仏教の顔」ダライ・ラマをその座から引き摺り下ろしたい中国

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2019年3月8日
チャーリー・キャンベル、2019年3月7日、タイム誌

 

ヒマラヤ杉に覆われた丘陵に朝が訪れた。北インド、カングラ渓谷上流域に広がる古びた街、ダラムサラにある私的な祈祷室でダライ・ラマ14世は座って瞑想している。瞑想が終わったダライ・ラマは、ゆっくりと横になり、83歳の年齢に似合わぬ敏捷さで足を解き、台座の下にきちんと揃えられた赤いフェルトの靴を見つけ、祈祷室から出て群衆が集う場所に向かった。

2月の寒さのなか、約300人が白いカターを差し出しダライ・ラマの祝福を受けた。市松模様の民族衣装のブータン人グループがいる。タイ出身の男性はリバプールFCのスカーフを差し出し、リーグタイトル奪取に向けた祝福を求めている。ダライ・ラマの台座に近づいた2人の女性は祈祷用の数珠を握りしめ、聖句を唱えつつ、すべての抑制を失って歓喜に身をふるわせた。

ダライ・ラマはまるで大きな子供のように訪問者の一人一人と交わる。肩を叩いて励ましたり、あるいは、信徒のお下げ髪を引っ張ったかと思うと、他の信徒の鼻をつまんでゆする。やりとりには絶えず高笑いが入り混じる——「70億人の人類は感情的にも精神的にも肉体的にも同じです。誰もが喜びに満ちた人生を望んでいます」と彼はタイムズ誌に対する一時間半のインタビューで述べた。

ダライ・ラマ自身が喜びを感じる力はきわめて高い。ダライ・ラマとは、衆生を助けるため涅槃を捨て、現世に降臨した観音菩薩の生まれ変わり、慈悲の生き仏とみなされる人物である。ダライ・ラマという称号は当初、ヒマラヤの奥に広がるテキサス州の約二倍の大きさの辺境の地、チベットにおける優れた高僧を指していた。17世紀になるとダライ・ラマはこの秘境の国における完全な政治的権威となった。その統治は毛沢東によるチベット征服で終わりを告げた。1959年3月17日、当代ダライ・ラマはインドへの亡命を余儀なくされた。

爾来60年の歳月が過ぎた。世界で最も閉ざされた辺境地域に住む民の指導者は、今や世界5億人近くが信仰する仏教で最も有名な人物である。それだけではない。マインドフルネスや瞑想など仏教由来の実践が世界に広まるとともに、ダライ・ラマは従来の仏教の枠を超えて世界の人々の尊敬を集めるようになっている。幼少時には「神王」と呼ばれた貧しい農夫の息子は、その亡命以来、欧米でも名前が知られるようになり、1989年にはノーベル平和賞を受賞し、1997年にはマーティン・スコセッシの「クンドゥン」でその生涯が映画化された。リチャード・ギア、ビースティ・ボーイズから米民主党のナンシー・ペロシ下院議長(彼女はダライ・ラマを「世界中の人々に対する希望のメッセンジャー」と呼ぶ)まで、ダライ・ラマには著名人のファンがいる。そのおかげで、「チベットのチベット人による統治」という大義が今でも欧米の人々の心から消えずにいる。

それでもダライ・ラマが老境に入り、中国の国際的な政治力が増すにつれ、その影響力は弱まりつつある。今日、チベットからダライ・ラマを放逐した張本人である中国共産党は、仏教の諸制度やダライ・ラマの後継者選びのプロセスそのものものを取り仕切ろうとしている。公式には無神論の立場をとる中国共産党だが、資本主義に適応したのと同じように宗教にも親和性を示そうとしている。習近平政権下でナショナリズムが盛り上がる中国では、自国は「仏教のふるさと」だとの主張がされるようになっている。今年5月、中国共産党は今後5年間で仏教を「中国化」し、巨額を投じてそれを中国古来の宗教としてリブランディングする計画を明らかにした。

パキスタンからミャンマーまで、チャイナマネーが古代仏教遺跡の修復と仏教研究の振興に投じられている。中国政府は30億ドルをかけて仏陀生誕地であるネパールのルンビニーの空港、ホテル、会議場、寺院、大学など諸設備を増強。ルンビニーを高級感漂う巡礼地に変えた。また2006年以降、中国は世界仏教フォーラムを開催して世界中から僧侶を招いている。

だが、中国の仏教フォーラムは当然ながら世界で最も高名な僧侶は招かない。中国政府は今もダライ・ラマを危険人物と見なしており、その訪問を認める国にはすみやかに非難を向ける。それもまた、功を奏しているようだ。かつて世界各国の首都を訪問して歓迎されていたダライ・ラマは、2016年以降、世界の指導者と会談していない。ダライ・ラマ本人と約10万人のチベット人の亡命を受け入れたインドすら、中印関係が「きわめてセンシティブな時期」にあるという理由でチベット亡命60周年の記念式典に政府高官を送っていない。米国では父ブッシュ以来の歴代大統領がダライ・ラマと会談してきたが、トランプ大統領はしていない。現在、トランプ大統領は中国の国家統制経済を改革させようとして、米中交渉に臨んでいる。

それでも、ダライ・ラマは祖国に帰るという希望を捨てていない。名声を獲得し、セレブの友人ができても、彼は依然として帰還を切望しつつ自国民との関係が断ち切れた指導者のままである。2011年、亡命政権の「政治的責務」から引退したダライ・ラマは、「巡礼のために中国の聖地を何か所か訪れる機会」しか要望していないとタイム誌に語った。「心の底から中国の仏教徒のお役に立ちたいと考えているのです」、と。

にもかかわらず、中国共産党は未だにダライ・ラマを「僧衣に身をつつんだ狼」、危険な「分離主義者」と見なしている。1974年以来、ダライ・ラマはどのような解決内容であってもチベットは中華人民共和国の国内に止まらなければならないという地政学上の現実を認め、独立を求める主張を捨てて、代わりにチベット人による自治の強化と宗教・文化の自由を求めている。だが残念ながら効果は上がっていない。

「中国はすべての切り札を握っています。現時点で成果が出ると考えるのは難しい状態です」とコロンビア大学で現代チベットを研究するタトル教授は言う。

チベット仏教を代表する高僧たちの使者団が、神託と予言に導かれチベット東北部の農村を訪れた結果、ラモ・トンドゥプという名の少年が、わずか2歳でダライ・ラマの14代目の生まれ変わりとして認定された。この早熟な幼児はダライ・ラマ13世の遺品を認識し、自らが天の相続人であると宣言するよう高僧たちに促したという。彼は4歳の時、黄金の駕籠に乗ってチベットの首都ラサに運ばれ、壮麗なポタラ宮に移り住んだ。その後、一流の宗教学者たちによる仏教教育の日課が続いた。

「家庭教師たちは時々、私を叱るため鞭を手にしていました」とダライ・ラマは微笑みながら当時の様子を思い出す。「鞭の色は黄色でした。聖なるダライ・ラマの色です。ですが、その鞭が使われたら、聖なる色だろうがなんだろうが痛みには無関係だとわかっていました!」

それは孤独な子供時代だった。滅多に両親に会えず、ポタラでの世話係となった兄のロブサン・サムデンを除く同年代の子供との接触もなかった。教師たちが宗教的な事柄ばかりを教えたのに、いや、おそらくだからこそ、ダライ・ラマは科学とテクノロジーに魅力を感じるようになった。彼はポタラ宮の屋根から望遠鏡でラサの街の生活を眺める日々を送った。また、それがどう機能しているのか知るために、映写機や写真機を分解しては組み立て直したりした。当時ラサに住むことを許されていたヨーロッパ人6人のうちの1人で、ダライ・ラマの家庭教師を務めたオーストリア人登山家のハインリッヒ・ハラーは、「ダライ・ラマの理解力、熱心さ、勤勉な態度に驚かされた」と記している。今日、ダライ・ラマは、自分は「半分は僧侶、半分は科学者」であると誇らしげに言う。

チベットではダライ・ラマが18歳の誕生日を迎えたら政治の実権が与えられる予定で、それまで摂政が国を統治していた。だが、1950年に毛沢東の人民解放軍がラサに到達し、チベットの支配を要求すると、チベット政府は弱冠15歳のダライ・ラマに政治権力を与える決定をした。政治の経験も外界の知識もない青年が侵略軍との交渉の矢面に立たされた。また彼は血気溢れてはいるが丸腰に近い軍備しか持たない臣民を諌める役割を果たすことになった。

中共占領下の9年間で状況は悪化した。中共が仏陀釈迦牟尼を「反動勢力」とレッテル付けしたことは270万人の信心深い人々の怒りを呼んだ。1959年3月、ダライ・ラマが誘拐され暗殺されるとの噂がラサに広がった。負け戦が必定の暴動が勃発する危険と深刻な流血の事態が迫りつつあった。「ポタラ(宮殿)の目の前、川の向こう岸に中国の砲兵師団がおりました」、とダライ・ラマは当時を思い出す。「それまで砲弾は覆いで隠されていましたが、15日か16日ごろ覆いは全て取り除かれました。それできわめて深刻な事態だとわかりました。17日の朝、私は脱出することにいたしました」。

世界最大の難所の地形を克服した人民解放軍が執拗に追ってきたため、一行のインドを目指した二週間の旅は危険に満ちていた。ダライ・ラマはヤクと牛の混血種であるゾにまたがり、密かにインド国境に到達した。彼が道中で泊まった家々はその後祈祷所に転じて祀られることになった。だが彼が後にした祖国は毛沢東の手による悲惨な大躍進と文化革命の災禍で荒廃。数十万人のチベット人が死んだ。一部の算定によれば、チベットにあった6,400の僧院の99.9パーセントが破壊されたという。

世界から切り離された場所で静かに暮らしたいというチベットの思いは虚しかった。いざというときに味方になってくれる同盟国はなかった。ラサのチベット政府はいかなる国とも公式の外交関係を築いておらず、国際機関にも加盟していなかった。そんな中で出されたダライ・ラマの嘆願書はいともたやすく国際社会に無視された。第二次世界大戦中、チベットは頑なに中立を守っていた。そしてチベットが嘆願した頃、アメリカは朝鮮半島の新たな紛争に巻き込まれていた。

(インドの初代首相である)パンディット・ネルーから、「アメリカがチベット解放のために中国の共産主義者と戦うことはないだろう。だから遅かれ早かれあなたは中国政府と交渉しなければならなくなる」と言われていたとダライ・ラマは回想する。

ダライ・ラマの亡命時に君主を追って一緒にインドに逃げたチベット人たちは旅の荷を解かず、まともな家を建てようともしなかった。じきに意気揚々と帰国できると信じていたからだ。だが、帰還の時は訪れなかった。

中国とチベット亡命政権との40年にわたる交渉は有意な結果を生んでいない。1970年代に、ダライ・ラマ使節団と改革派の中国指導者である鄧小平とのあいだで、ほんの慰めのような協議が始まり、その後協議は鄧の後継者である江沢民に引き継がれた。交渉の席ではチベットの独立は禁句とされたが、そんなプロセスすら1994年には中断され、2000年代に一時、再開されたが、再び決裂している。

この間、チベットは中国政府の親指でしっかりと握られたままだった。国連人権高等弁務官は、チベットの状況は「急速に悪化している」と慨嘆した。昨年5月には、チベット人実業家のタシ・ワンチュックがチベット語の使用を求めただけで5年間の懲役刑に処せられた。また昨年12月には、僧院におけるチベット語とチベット文化の教育を禁止する指令が中国政府から出された。かつて「神々の住まう都」として知られていたラサは、他の中国の都市と似たりよったりのネオンとコンクリートだらけの街になっている。米国はチベットは中国の一部だと公認しているものの、昨年7月、ペンス副大統領は「チベット人は中国政府により残酷な抑圧を受けてきた」と述べている。

チベット人の文化的、宗教的自由が中国政府によって脅かされていると多くの人が主張している。チベット人には民族の扱いに抗議するため極端な行動に走る者もいる。2009年以降、僧侶、尼僧、一般市民など150人以上のチベット人が状況に抗議して自らの身に火を放っている。その多くは臨終の際にダライ・ラマを讃える言葉を発している。ダライ・ラマは日頃は非暴力を奨励しているのにそうした行為を非難しないと批判されてきた。「非常に難しい状況です。私が(自殺者を)批判すると、遺族はとても悲しく感じるかもしれません」と言いつつ、彼らの犠牲は「その甲斐がなく、より多くの問題を引き起こすだけです」とも言う。

中国政府はチベットの人権侵害の批判に激しく抗議している。そしてチベット人の宗教、文化の権利は完全に尊重されていると主張し、かつて孤立し貧しかった地域で生活水準が上がっていることを強調している。公式統計によると、中国は1980年代以降、4億5,000万ドル以上をチベットの主要な僧院、宗教的建造物の修復に費やしており、2億2,300万ドルの予算が2023年までに計上されている。世界第二の経済大国では世界の屋根を切り拓いて開発するための空港、高速道路の新設など、970億ドル規模の大規模インフラ計画が承認されており、それにより600万の少数民族チベット人の繁栄が後押しされるという。

チベット本土の投資計画の規模の大きさは、亡命地で立ち往生しているチベット人にジレンマをもたらす。大多数の亡命チベット人は、インドで働き、教育を受けることはできるものの、資産の取得はできないという「特別賓客」のステータスの中で生きている。多くの亡命チベット人は過酷な道路工事や観光客相手の装身具の販売などでかろうじて生計を立てている。そして、まだ見たことのない父祖の地を訪れることに惹かれ、きわめて多くの若いチベット人がチベット本土への帰国を選択している。「安全で安定した将来を子供たちに与えたいと考える人は、チベットへの帰国か市民権を取れる国への移住を考えています」と、ダラムサラにあるチベット亡命者支援NGO、ラーのディレクター、ドルジェキー氏は述べる。

帰国者の多くはチベット本土で生まれ育ったチベット人より教育程度が高く、外国での経験も豊富だ。「成功する帰国者もいます」と、インド全土に5ヶ所の孤児院と8つの学校のネットワークを持ち52,000人のチベット人児童を育てたチベット子供村(TCV)のトゥプテン・ドルジェ校長は言う。「ですが、政治に関わると問題が起きます」。

亡命地ダラムサラには今も亡命政府である中央チベット政権(CTA)がある。だが亡命政権は内部抗争とスキャンダルが絶えず、亡命者たちは個人的な道を取るようになっている。去年の9月、亡命地で「物乞い」にとどまるくらいなら、中国が支配するチベットで暮らす方が良いだろうとダライ・ラマ自身がツクラカンで語る映像がある。

ダライ・ラマはタイム誌に対し、亡命したチベット人が中国に戻るという選択には「何の問題もない」と述べている。外国で富を得たチベット人すら、チベットに戻る道を選んでいる。ソンツェン・ギャルズ(45歳)はチベット生まれの両親がインド亡命後に移住したスイスで築いた不動産事業を売却し、2014年、中国でシャングリラ・ハイランド・ビール醸造所を創業した。ギャルズのビール工場は数々の賞を受賞し、ラガー、エール、ポーターなど年産数百万ガロン規模のビールを生産している。彼は従業員の8割を1990年代に自分の母親がチベット人居住区に作った孤児院から採用している。「高学歴で熟練した技術を持つチベット人が外国にはたくさんいます。彼らは、チベット本土の人々の生活に大きな影響を与えることができるでしょう」と彼は言う。

小説『失われた地平線』に描かれた伝説とは裏腹に、チベットは決して宗教のユートビアでも農業のユートピアでもなかった。多くの民は「万人の万人に対する闘争」の日々を送っていた。貴族は厳密に7つの階級に分けられ、最高階級に属するのはダライ・ラマだけだった。教育らしいものを受けられる平民はほとんどいなかった。現代医学、とくに外科手術が禁じられていたため、些細な病気すら命取りだった。病人の治療はたいてい、大麦粉の粥、バター、そして聖者の尿が与えられるというもので、チベット人の平均寿命は36歳だった。犯罪者は手足を切断されたり、沸騰するバターを身に流されたりした。車が通行可能な広い幅の道がほとんどなかったため車輪すら一般的でなかった。

ダライ・ラマはチベットが「きわめて後進的な社会」だったことを認めており、もし自らが本土に留まっていたなら改革に着手していただろうと主張する。しかし同時に、伝統的なチベットの生活は今より自然との交わりが大きかったとも強調する。チベットは北極と南極を除き、地球の淡水の最大の貯蔵庫である。このため、一部の環境保護論者は凍土でできたチベット高原を「第三の極」と呼ぶ。そして、とくに中国政府が推進する息をつく間もないような激しい開発に自然は脆弱だと指摘する。

「地球温暖化から逃れられる場所はありません。この大陸、あの大陸、この国、あの国と分けられないのです」とダライ・ラマは言う。危機解決の責任は誰にあると思うかと尋ねると、ダライ・ラマは北京でなくワシントンの方を指差した。「自由世界の主導的立場にある国として、アメリカは地球規模の問題をもっと真剣に考えるべきです」。

ダライ・ラマの臆することのない個性は爽快に感じられるほどだ。頻繁な笑い声と突き立った耳。それは彼を愛らしい悪気のない人物に見せている。そして、彼は相手とスキンシップを取るのが実に好きだ。彼は物質界でも精神界でも、そして、伝統世界でも現代世界でもくつろげる人物に見える。さらさら流れる小川と山岳の映像を壁紙にしたiPadをすぐ手の届くところに置いたまま瞑想したかと思うと、数分後には、綴じられていない幅広の紙に経文が記された仏教経典に目を向ける。ダライ・ラマは午後6時には寝室に入り、朝の4時には起床。1日の最初の数時間を瞑想に費やす。

「アメリカなど西洋文明は生活における物質志向が高い。だが、そうした文化はあまりにも多くのストレス、不安、嫉妬などを生み出します。ですから、わたしは内面の価値に対する人々の認識を高めることを第一のコミットメントとしているのです。子供は幼稚園児のときから感情に対処することが教えられるべきです」と彼は言う。

「宗教を信仰しようとしまいと、私たちは落ち着きを取り戻し、内面の平和を得るため、情動のはたらきかたについてもっと学び、破壊的な感情に陥らないようにすべきです。」

ダライ・ラマは、宗教的調和に貢献することが自らの第二のコミットメントだと述べた。中東の紛争はイスラム教の宗派争いを引き起こす傾向にある。「イランは主にシーア派です。サウジアラビアは金持ちでスンニ派です。だから問題が起きます」と彼は言い、「心が狭窄症」に陥ってはいけないと述べ、あらゆる宗教、宗派の人々が視野を「広げる」べきだと述べる。

仏教にも過激派はいる。単一の創造主をもたない非一神教の宗教である仏教の持つ調和や心の清浄といった教義は、他の宗教を信仰する人にも親しみやすい。それなのに、煽動的な仏教僧侶がイスラム教徒であるロヒンギャの虐殺を煽っているミャンマーの状況は「非常に悲しい」とダライ・ラマは言う。「あらゆる宗教には人間を愛する優しさという伝統があるにもかかわらず、暴力と分断が生まれています」と彼は言う。

ダライ・ラマは世界情勢に鋭い目を失っておらず、それについて語ることも厭わない。トランプ大統領の「アメリカファースト」の外交政策と南部国境の壁建設へのこだわりは、「不安」を感じさせると述べ、メキシコのことをアメリカの「良き隣人」と呼ぶ。また、欧州連合を「常に素晴らしいと感じ」てきたので、差し迫った英国のEU離脱はけしからんと言う。

八十代になり、動くとき周囲の助けを借りるようになっても、ダライ・ラマは人間の意識の探求を止めず、長年抱いてきたいくつかの難問を問い続けている。チベット歴の新年を記念して2月に開催された一連の講義で、彼は人工知能(それは決して人間のこころに敵うものではないと彼は言う)から、宗教的教条を盲目的に信じることの問題まで、様々なテーマに言及した。「お釈迦様自身がおっしゃっています。『私の言葉を盲目的に信じるのではなく、徹底的な精査と実験を通してその正しさを証明しなさい』と。ある教えが理性に反するなら、それを受け入れるべきではありません」と彼は言う。

それはダライ・ラマ制度自体に対する思いでもある。ダライ・ラマはその科学的精神から、幼少時にあっても、自分が神王の14番目の化身だという考えに疑問を感じてきた。先代のダライ・ラマは「馬がとても好きだったが、それが自分にはほとんど意味がない」のはおかしいと彼が感じていたとかつての家庭教師は回想している。今日のダライ・ラマは、自らが体現するダライ・ラマ制度は本来的に「前近代的」だと言う。そして自分の死後は、宗教的要素を除き、いかなる政治的権威もダライ・ラマに与えられるべきでないと言う。「ある時点で、事情あってダライ・ラマ制度が始まりました。そうやって始まったということは、どこかの時点で意義がなくなってもおかしくない。そうしたら、廃止する。止めても何の問題ありません。私は全く気にしていません。中国共産党は気にしてますがね」。

そのとおり。亡命チベット社会に打撃を加えるべく、中国はチベット仏教指導部の制度を共産党の傘下に収める策に着手している。ダライ・ラマが1995年、とあるチベット人男児を(チベット仏教界でダライ・ラマに次ぐ高僧である)先代パンチェン・ラマの転生と認定するや、中国はその男児を「保護するため拘置」し、代わりに自らが与し易い人物を選び後継者に据えた。ダライ・ラマ側が転生認定した男児は未だに行方不明である。

だから、ダライ・ラマがこの世を去れば、その化身であるダライ・ラマ15世は無神論者の中国共産党に選ばれる可能性が高い。「中国が準備をしていることは明らかです。不条理なことですが」とタトル氏は言う。チベット仏教徒は共産党に選ばれたダライ・ラマと亡命社会に選ばれたダライ・ラマのあいだで選択を余儀なくされる。少なくともこの点に関して14世の見解は非常に明確だ。彼はそれを決めるのは「チベットの民」であるべきだと考えている。

ダライ・ラマの後継を認定したいと中国共産党が考えているのは、国内に2億4,400万人の仏教徒がいるためだ。仏教徒の規模と比べれば中国共産党員の規模は3分の1に過ぎない。中国共産党はその権力を正当化するものが欲しくてたまらず、ダライ・ラマ制度と結びつけば正当化ができると考えている。中国は同時にそれをチベットによるチベットの統治という理念の棺に打ち込む最後の楔としたいと考えている。70年前に建国された中華人民共和国によるチベットの完全併合はそれにて終了としたいのだ。

皮肉なねじれにより、当代の神王の願いは最終的に叶いそうである。ダライ・ラマはいつの日か中国に帰還するだろう。当代の身であれ、次代の身であれ。自身の祝福が加わった帰還であれ、加わらない帰還であれ。

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(翻訳:吉田明子)