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『菩提道灯論』法話会 2日目

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2021年7月14日
インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ

 

今朝、ダライ・ラマ法王は公邸内の居室に入られると、目の前に設置されたモニターに映る聴衆に向かって手を振り、席に着かれた。それと同時にラダックのティクセ僧院では、ティクセ・リンポチェが五体投地をしてからマンダラ供養を行い、他の参加者たちはレーのジョカン寺に集まっていた。

インド、ラダック地方レーのジョカン寺で、ダライ・ラマ法王によるオンライン法話会初日の紹介を行うラダック仏教協会会長のトゥプテン・ツェワン氏。2021年7月13日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

法王は、今日はチベット太陰暦の6月4日に当たると言及し、次のように告げられた。
「今日は釈尊が初めて法輪を廻された記念すべき吉祥なる日です。最初に昨日の残りのテキストを最後まで読み、続いて発菩提心の儀式を行います」

「前にも申し上げた通り、法話が行われる時には、それを説く導師が清らかな動機を持っているだけでなく、法話を聴く人々も、利他を為すために悟りに至ろうという気持ちで耳を傾けなければなりません」

「私が会った科学者の中には、前世や来世については関心がないけれど、仏教の瞑想、慈悲、鎮められた心や洞察については興味深く、有益であると考える人々がいます」

「世界には沢山の宗教の伝統がありますが、それらに従う人の多くは神に祈ることで心の平安を見出そうとしています。古代インドで育成された、それとは異なるアプローチの伝統には、心と感情の働きを理解することが含まれていて、その伝統はカルーナ(慈悲の心)とアヒンサー(非暴力)の実践と共に発展してきました」

「様々な哲学的思想に支えられ、釈尊は、私たちの利己的な態度に起因し、心の平安をかき乱す諸要因に対抗するための合理的な方法を説かれました。古代インドで確立した慈悲と非暴力の実践は心に結びついています。それは身体による行為だけに限定されているのではありません。私たちは心を律することができないので、身体だけではなく、心と言葉で他者を傷つけてしまいます。仏教では心の制御こそが幸福をもたらすものであり、心の制御を欠くことが苦しみであると言われています」

「すべての宗教はあたたかい心、愛と思いやりについて教えています。しかし心の平安を得るための仏教の教えは最も広範で、最も深遠なものです。ラダックの皆さんは仏教徒であり、政治的な状況がいかに変わろうとも仏法への信心を保ち続けてきました。過去において僧院で最も重視されたのは儀式を執り行うことでしたが、最近ではここダラムサラのナムギャル僧院の僧侶たちのように、徹底的に学ぶという私のアドバイスが取り入れられてきています」

法王公邸からインターネットを介して行われた法話会2日目に説法をされるダライ・ラマ法王。2021年7月14日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

「私たちには、広大な行い・深遠な見解・体験によるお加持という異なる系譜があります。そしてチベットとヒマラヤ地方で保持されているサンスクリット語の伝統には、100巻の釈尊のお言葉の翻訳と、200巻を超えるインドの導師たちの教えの翻訳、そして何万巻ものチベットの導師たちの註釈書という文字で残された豊かな遺産があります。私たちには世界のどこよりも豊富な仏陀の教えの蔵書があるのです。そして本当に多くの人々の心がかき乱されているこの世界にあって、これらの著作に記された教えの内容は大変有益なものです」

ここで法王は『菩提道灯論』のテキストを取り上げ、ひとつの瞑想対象に一点に心を集中することを可能にする止(シャマタ)の成就によって、心身の軽安きょうあん(柔軟で軽やかなこと)ももたらされることに留意され、今私たちには修行する機会があるのだから、ぜひともこれを実践すべきだとコメントされた。テキストには以下のように記されている。

「止」〔の成就〕に必要な条件が欠けていると
どんなに努力して瞑想しても
幾千年かけたところで
禅定を成就することはできない(『菩提道灯論』第39偈)

法王は、“シャマタ(止)” と鋭い洞察力である “ヴィパッサナー(観)” の瞑想は、修行者が焦点を置く瞑想対象によって区別されるのではないことを明らかにされた。菩提心と空性を理解する智慧を培うために “シャマタ” と “ヴィパッサナー” の両方を適用することができる。しかし、たとえ慈悲と菩提心を育んだとしても、実体への捉われに対抗できる現実的な対治(対策)は、空性を理解する智慧である。

テキストには

故に、煩悩障と認識対象の障りを
すべて滅するために
般若波羅密の修行を
常に方便とともに瞑想するべきである(同42偈)

とあるように、もし空性の理解が解脱を得るという願いだけに結びついているならば、阿羅漢の境地のみを得ることになるだろう。しかし、空性の理解が菩提心と結びついているならば、一切智の境地へと導かれるだろう。智慧が菩提心に支えられて初めて所知障(一切智に至ることを妨げる障り)を克服することができる。それゆえテキストでは、般若波羅蜜を布施・持戒・忍辱・精進・禅定という他の波羅蜜と結び合せることが推奨されている。

方便を修習した力で
智慧に瞑想する者は
速やかに悟りを得るが
無我のみを瞑想しても〔悟りを得ることは〕できない(同46偈)

法王は、長年にわたるご自身の修行の基盤は菩提心を培うことと空性を理解することであると言及され、それゆえチャンドラキールティ(月称)の『入中論』第6章の最後にある以下の3つの力強い偈頌からインスピレーションを受けていると述べられた。

このように、智慧の光の現れで明らかにする者は
自らの手にあるキュルラ(果実の一種)のように
この三界のすべてを、無始の時より不生であると理解して
世俗諦の力によって滅諦に赴く(『入中論』第6章224偈)〔第六地の菩薩は〕常に滅諦を考察する三昧で
守護者を持たない有情に対し、慈悲の心を起こされる
さらに、〔この菩薩は、〕如来のお言葉より生じた者(声聞)、
中位の仏陀(独覚)とともに、すべての者たちをその智慧で打ち負かす(同225偈)世俗と勝義という大きな白い翼を広げ
この白鳥の王者を普通の白鳥の先頭に据えて
善の風の力で勝利者(仏陀)の功徳の海を越え
最勝なる彼岸へ飛んでいく(同226偈)

さらに法王は、『入中論』の第6章から、ご自身が毎日熟考されている下記の3つの偈頌を引用された。(ここでのこの議論の要約はツォンカパ大師の『中観密意みっち解明』から引用されている)

もし、自相が〔自性、自性によって成立する因や条件に〕依存して生じるならば
自性〔による成立〕はないと考えることによって事物は消滅するため
空性が事物の消滅の因になる
しかしそれは論理に反するので、事物は存在しない(『入中論』第6章34偈)

もし色しき(物質的存在)や受(感受作用)などの事物の固有の存在が、それ自体の本質から因と条件に依存して生じるのであれば、一切の現象には固有の実体はなく、空であることを直感で捉えているヨーガ行者は、事物のそのような本質を否定することで空性を悟ったことになる。等引の境地において実際に色しきなどを認識することはないが、もしそれらが自相によって存在しているのであれば、等引の境地においても必然的に認識されるはずである。しかし、それが認識されることはない。そしてもしこれが本当なら、色しきなどのこれらの事物は存在しないことになる。もし本当に存在しないのなら、等引に至る前には存在していたものが後に破壊されたか滅したことになり、等引がその破壊の因ということになる。そうであるから、ハンマーなどが水瓶などの破壊の因であるように、空性を直感的に体験することも事物の本質を破壊する因であり、このように事物を破壊することになる。しかしこれは論理に反する。それゆえ真に実体のある事物、つまり、固有の自相などによって成立する事物は存在しないし、私たちは決して固有の生成があるかのような概念を擁護してはならない。

これらの事物を分析してみるならば
真如を本質として持つ事物以外に
とどまる所を見出すことはできない
ゆえに、世間において言葉で述べられた真理(世俗諦)を分析するべきではない(同35偈)

色しき(物質的存在)や受(感受作用)などの現象が、「それ自体から、あるいは他から生じるのか?」というような観点から徹底的に分析される時、真如を本質とすること以外に、究極のレベルでは実体を持って生じたり滅したりすることはない、という真実を超えて見出されるものは何もなく、生成などという特別の次元を見ることはない。 そうであるから、世間において言葉で述べられた真理(世俗諦)を、「それ自体から、他から」などといった観点から徹底的に分析するべきではない。「これが存在するから、それが生じる」と言われているように、私たちはただ世俗における認識という事実を受け入れるべきである。私たちは他に依存して成立する世俗のレベルに加担しているのであり、世間の一部であることに基づいて、私たちはこのようにすべきである。

真如について述べる時
それ自体から、あるいは他から生じることは論理的に正しくない
それは世間の言説においても論理的に正しくない
あなたの言う生成とはどうやって存在することになるというのか(同36偈)

真如、あるいは「究極の真理(勝義諦)」を分析するという文脈において、上述の特定の論理によって、それ自体から、あるいは他から色しき(物質的存在)などの現象が生じることが否定される。同様に、世俗のレベルにおいても、同じ論理によって固有の自相による色しきなどの生成が否定される。そうであるなら、あなたの言う固有の生成とは正しい認識の根拠によってどうやって存在することになるというのか?いや、それは存在しない。

法話会2日目に、アティーシャの『菩提道灯論』のテキストを解説されるダライ・ラマ法王。2021年7月14日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

法王は次のように続けられた。
「事物は客観的に存在しているように見え続けるでしょう。しかし体験によって、そのようには存在していないことを確認することになるでしょう。事物は幻のようなものであり、あなたの空性の体験が増すにつれ、事物が幻のような性質を持つという体験も育っていくはずです。しかし、実体を持って固有に存在していないことは、全く存在しないことと同じである、と言ってしまえば、それは誤りです」

『菩提道灯論』のテキストから下記の偈を引用された法王は、この法話会で学んだことを自分自身の修行に統合するようにと聴衆を励まされた。

智慧によってすべての現象の
自性を見ることはできないのと同様に
智慧それ自体を〔分析の土台として〕
無分別に瞑想するべきである(『菩提道灯論』第54偈)

法王は、仏教思想の部派の中で、説一切有部(毘婆沙師)と経量部(経典に従う者たち)も無我を説いていると述べられた。唯識派は、外界に存在するものは何もないとしながらも、心にはそれ自体なんらかの実体があると主張している。中観帰謬論証派だけが、事物にはそれ自体の側からの客観的存在など微塵ほども存在していないと主張している。

法王は、ご自身の主要な仏教哲学の教師である先代のリン・リンポチェに、自らの空性の体験について報告した時のことを思い起こされた。この時リン・リンポチェは、「法王は正しい洞察を得られており、“虚空のヨーガ行者” になる日も遠くはないでしょう」と応答されたという。法王は、変化は数日で起こるものではなく、何年もかけて起こってくるものだと述べられた。

『菩提道灯論』の最後の数偈は密教の修行に関するものであり、法王は密教の修行が菩提心と空性を理解する智慧の体験に基づいていることを繰り返された。無上ヨーガタントラの修行においては、止と観に依拠するだけでなく、“9ラウンドの呼吸” と言われるような内なる生体エネルギー(風:ルン)に働きかける必要がある。無上ヨーガタントラでは脈管・風・心滴(ツァ・ルン・ティグレ)という三つの要素が用いられる。その結果として、33が顕明けんみょう、40が増輝ぞうき、7つが近得きんとくの段階に関連しているという “八十の自性を持つ分別の心” が溶け込む(機能を停止する)時、修行者は光明の心を顕現させることになるだろう。

アティーシャは禁戒を保つ僧侶は秘密の灌頂と智慧の灌頂を授かってはならないと述べられている。僧侶は人間の伴侶や明妃を得ることはないが、生命エネルギーを秘処の先端に下ろして、再び頭頂のチャクラに引き上げるという方法に従って自発的大楽を培う修行に従事する。

ここで法王は『菩提道灯論』の口頭伝授と解説の伝授が完了したので、発菩提心の儀式に移ると告げられた。法王は聴衆に、目の前の虚空に釈迦牟尼仏を観想し、釈迦牟尼仏の右側には無明の闇を晴らす文殊師利菩薩が、左側には新型コロナウイルス感染拡大の時期に病を癒し、庇護する力を持つ聖ターラー菩薩が座っておられると観想するように指示された。観想に含まれる他の詳細を説明された法王は、受者たちに儀式のための偈頌に続いて菩提心を育むための偈頌を唱えるように導かれた。

その後法王は聴衆からの質問に応じられた。最初の質問者は今日の世界に広がっているように思われる過激主義と分極化について尋ねた。法王はまず宗教について触れられ、全ての宗教の伝統は利他主義の美徳について教えているが、他者に仕えるためには優しさと思いやりが必要であると述べられた。重要な点は、もし宗教に信心を持つと決めたなら、その宗教の伝統を真摯に実践するべきであり、一連の慣習を口先だけで支持するだけでは不十分であると話された。

法話会2日目に、ラダックのティクセ僧院に集まり、法王に質問する参加者。2021年7月14日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

そして法王は民主主義の普及についても言及された。民主主義のシステムでは私たちが投票で指導者を選び、彼らに責任を課すことができる。指導者たちが利他的であればあるほど、もたらされる利益も大きくなるだろう。彼らがただ狡猾で利己的であれば、共同体にとっていいことはほとんどない。そして法王は次の言葉で回答を締めくくられた。
「あなたは一人だけですが、他者は大勢います。ですから他者に対する奉仕をしてください」

次の質問に対して法王は、サンスクリット語の伝統である大乗仏教における下士、中士、上士という3種類の能力をもつ人の区分は、別々の人間を指しているのではなく、修行道の階梯における分類であることを明らかにされた。

別の質問者は法王に、アルコールや麻薬など有毒物質に頼る人々に関するコメントを求めた。そこで法王は、もし飲酒に依存すれば、人が持っている自然な知性を鈍らせることになると明言された。飲酒や薬物は一時的な満足をもたらすかもしれないが、長い目で見れば助けにならないばかりか損害をもたらすことになる。自分が不幸だと感じているなら、自分だけを大切にすることの不利益と、他人を思いやることの利益についてよく考えることが、より効果的な解決策である。

世俗的なありようについての質問に対して、法王はチョネ・ラマ・リンポチェの「縁起は真如を否定せず、生成は世俗のありようを否定しない」というお言葉を引用された。釈尊は、縁起と二諦(「世俗の真理」と「究極の真理」)を説かれた。事物は実体を持って存在するように見えているが、それが「世俗の真理」であり、「究極の真理」とは事物がどのように存在しているか、ということである。

若い女性の質問者は、自分は簡単に怒りが湧き起こってしまうと告白し、その対処方法を法王に尋ねた。これに対して法王は、怒りは強い感情であるが、理性に基づいて起こるわけではない、と述べられ、「怒りはどのように役立つのか?」と自分に問いかけることを薦められた。欲求不満から怒りが生じるが、それに屈する必要はない。私たちは社会に依存して生きており、もし隣人に怒りをぶつけるなら自分が損害を被ることになる。法王は広い視野を持ち、忍耐を育むようにと助言され、シャーンティデーヴァ(寂天)の『入菩薩行論』の特に第6章の忍耐と第8章の禅定を読むように励まされた。そして最後に質問者に向かって「怒ることは何の役にも立ちません」と告げられた。

若いイスラム教徒の女性は「法王はなぜ仏教以外の宗教の信者からも人気があるのでしょうか?」と法王に尋ねた。

これに対して法王は次のように回答された。
「多分それは、私が思いやりを培うことの重要性について話しているからでしょう。思いやりを培うことは全ての伝統宗教に共通するテーマです。そしてどの宗教も怒りに屈することの過失と愛することの利点について説いていますが、私も同じことを述べています。私はまた、宗教間の調和を育むために働くことの重要性を強調しています。しかし、多分最大の要因は私の笑いと微笑みにあるのではないかと思います。私が怖い顔をしているのを皆さんが見ることはないでしょう。私は他の人々は皆私の兄弟姉妹であると思っていますので、人類の調和に特別な関心を払っています」

法話会の最後にティクセ・リンポチェが法王に謝辞を述べた。

「法王はインターネットを介して、偉大なるジョヲ・アティーシャの『菩提道灯論』の解説を丁寧にしてくださいました。ラダックの全人民を代表して法王の計り知れないご温情に感謝申し上げます。そして来年は法王がラダックを訪問してくださるようお願いしたいと思います」

「仏法、論理と根拠などへの関心はますます高まってきています。これはひとえに法王のご厚意のおかげです」

「シェラブ・ケツァル・リン教育センターと図書館の建設を完了し、現在ラダックの様々な学校から300人の学生を招いて無料の教育を提供しています。学生たちは、私たちの45日間の世俗の倫理についての講義に参加しますが、各学校で取り入れることができるカリキュラムも用意しました。それらは全て無償で提供されます」

「最後に、法王がいかなる障りもなく、ご健康で長寿であられるようにお祈り致します。タシデレ」