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『入中論』の法話会 初日

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2020年7月17日
インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ

今朝、公邸内の居室に入られたダライ・ラマ法王は、椅子の前に置かれたモニターに映る主催者と参加者たちの顔をご覧になり、彼らに向かって手を振ったり、微笑みかけたりしてから着座された。

今日の司会進行役のスレーシュ・ジンダル氏は、モニターの中から法王に向かって次のように話しかけた。
「インドの僧伽(出家者の団体)を代表して朝のご挨拶を申し上げます。この法話会の開催を快諾してくださり、誠にありがとうございます」

それに応えて法王は、以下のようにお話を始められた。
「私は85歳という高齢になりましたが、身体はいたって健康です。心が平穏で不安がないことから、肉体的にも健康な状態を保っていられるのではないかと思います。それというのも、私はシャーンティデーヴァ(寂天)の以下の祈願文を毎日唱え、生きとし生けるものたちの役に立ちたいという願いを毎日新たに起こしているからです」


この虚空が存在する限り
有情が存在する限り
私も存在し続けて
有情の苦しみを取り除くことが出来ますように(『入菩薩行論』第10章55偈)

地などの四大や虚空のように
常に限りない有情のために
様々な方法によって
有情の生存のもととなれますように(第3章21偈)


「他者を助けるためには、肉体的に健康なだけでなく、精神状態も安定し、穏やかでなくてはなりません。ですから、私はそのようにして健康を保ち、あと15年から20年はこの世に留まって他者の役に立ちたいと願っています」

ナーランダー・シクシャのリクエストによる法話会の冒頭で、法王公邸からインターネットを介してお話をされるダライ・ラマ法王。2020年7月17日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

「今日はチャンドラキールティ(月称)の『入中論』の法話をナーランダー・シクシャの皆さんがリクエストされましたので、このオンライン法話会を開くことになりました。私はこのテキストの解説を先代のリン・リポチェから授かっています。リンポチェは私の個人教師であり、私に比丘戒を授けてくださった戒師です。『入中論』や『現観荘厳論』を暗唱し始めたのは私が7歳の頃でしたが、その頃はこのようなテキストへの関心は全くありませんでした。しかし次第に、このようなナーランダー僧院の導師たちが書かれた多くの著作は非常に役に立つものだと気づくようになりました。困難な状況に遭遇したとき、これらのテキストで学んだことを思い起こせば、勇気と自信が本当に湧いてくるのです」

「ここで、どうして『入中論』が非常に大事なテキストなのか、その理由を皆さんにお話ししたいと思います。釈尊は成道された後に、まず “四つの聖なる真理(四聖諦)” をお説きになりました。それは仏法の礎になっています。感覚を持ついきもの、すなわち有情というものは、いかなるものであっても苦しみを体験したくないと望んでいます。ですから釈尊は、最初に “苦しみが存在するという真理(苦諦)” について説明されました。そして次に、“苦しみには原因があるという真理(集諦)” について解説されました。3番目に釈尊は、“苦しみの原因が止滅した境地が存在するという真理(滅諦)” について明らかにされました。そして最後に、“苦しみの止滅に至る実践道が存在するという真理(道諦)” についてお説きになったのです」

「通常私たちは、眼・耳・鼻・舌・体という五つの感覚器官を通して生じる感覚に気をとられ、心が散乱した状態になっています。しかしそうとは気づいていなくても、感覚器官を通して得られる知覚は、純粋な精神的意識作用に深く依存して起こる体験です。ですから心に対して注意深くあることが大切です。そこで、五つの感覚器官を通して得られる知覚ではなく、純粋な精神的意識作用そのもの、つまり心だけに焦点を合わせるのです。心に一点集中して、そこで起きてくる感受作用だけを捉える瞑想を辛抱強く行わなくてはなりません。そうすると、最初は何か虚無のような感覚を味わうかもしれませんが、次第に “明らかに捉える” という、純粋な意識作用そのものが浮き彫りになってくるでしょう。そのような状態に留まることができるのは、最初は数秒かもしれませんが、徐々に数分、数十分、数時間…というように長く留まることができるようになり、時間の経過と共に、体験も深まっていくことでしょう」

ナーランダー・シクシャのリクエストによる法話会の初日に、法王公邸からインターネットを介してお話をされるダライ・ラマ法王。2020年7月17日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・プンツォク / 法王庁)

「心の本質のひとつの側面は、対象物を明確に捉えるということです。それに基づいて、私たちは一点に集中する瞑想(止:シャマタ)を高めていくことが可能です。そして心が一点に集中して留まることができるようになると、対象を分析し、洞察力を育む瞑想(観:ヴィパッサナー)ができるようになります。科学者が物質的現象について分析するように、内なる世界においては心を分析することができます。このような方法を使えば、かき乱された心を穏やかな状態に変容させていくことが可能です。ですから、一点集中の瞑想と分析する瞑想の両方が必要なのです」

「ナーガールジュナ(龍樹)は第二の仏陀であるとも言われています。彼の代表的な著書は『根本中論頌』ですが、私はこの素晴らしいテキストを定期的に読んで、慣れ親しんでいます。ナーガールジュナの一番弟子はアーリヤデーヴァ(聖提婆)であり、アーリヤデーヴァは『四百論』を著されました。『根本中論頌』でナーガールジュナは次のように述べられています」


行為と煩悩を滅すれば解脱〔に至る〕
行為と煩悩は妄分別〔誤った認識〕から生じる
それらの妄分別は戯論から生じる
戯論は空によって滅せられる(第18章5偈)


「私たちは汚れた行為、すなわち間違った行為をなすことによって輪廻を巡っていますので、行為と煩悩を滅することができた時、初めて解脱に至ることができます。そして煩悩とは、すべての事物はその現れ通りに存在していると考える無知なる心に根ざして生じてくるのです。ナーガールジュナは、行為と煩悩は誤った認識(妄分別)から生じ、妄分別は戯論から生じると記されています。このような誤った見解は、祈願や信仰の力によって滅することはできず、すべての現象の究極のありようを知ることによってのみ断滅することができます。量子物理学の分野でも、すべての現象はそれ自体の力のみで、独立して存在しているように見えるけれども、実際にはそれを観察する者があって初めて成り立つ、と立証しており、このことはナーガールジュナが主張されたことと一致しています」

「また、アーリヤデーヴァも『四百論』で以下のように述べられています」


からだにはからだの感覚器官が行きわたっているように
無知はすべて〔の煩悩〕に存在している
ゆえに、すべての煩悩も
無知を克服することで克服できる(第6章135偈)


「無知とそれによって引き起こされる混乱を滅することで、すべての煩悩は克服されます。問題の根源は、すべての現象も自分自身も実体をもって存在しているのだ、という間違った捉え方をしていることです。アーリヤデーヴァは更に次のように続けられています」


縁起を見たならば
無明が生じることはない
ゆえに、ここでされたすべての努力は
この話をするためだけに述べられた(第6章136偈)


「チャンドラキールティの書かれた『入中論』と『入中論自註』は、ナーガールジュナの『根本中論頌』、アーリヤデーヴァの『四百論』、ブッダパーリタ(仏護)の『根本中論頌』の註釈書である『ブッダパーリタ註』などを集約した著作ですので、大変重要なテキストです。ナーガールジュナの系譜にはたくさんの弟子たちが存在しますが、その主張を最も正確に説明されているのはチャンドラキールティです」

チャンドラキールティは『入中論』の第6発心「現前」の34偈から38偈において、もし他のものに依存せず、独自の力で存在する、実体ある現象が存在すると主張するならば、論理に反する以下の4つの誤った結論が引き出されることになると説明されている。すなわち、

  1. 空性を体験している聖者の禅定状態における智慧(等引智)が現象を消滅させる。
  2. 究極の真理において実体をもった現象は存在しないと説くことは誤りとなる。
  3. 世俗の真理における現象のありようは、究極の真理を分析する論理によって立証され得る。
  4. すべての現象は空であり、それ自体の側から存在しているのではない、とは言えなくなる。

 

3日間にわたる法話会の初日に、インターネットを介して『入中論』の解説をされるダライ・ラマ法王。2020年7月17日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ

物質的な対象物を分析するとき、それを非常に小さい微粒子の単位にまで分割していっても、そこに対象物の実体を見つけることはできない。また、意識について同様の分析をするとき、連続する時間の最小単位の一区切り(一刹那)を想定してみても、過去は既に過ぎ去っており、未来はまだ来ておらず、現在についても、これが現在である、と言って指し示せる実体など何もない。チャンドラキールティは馬車を分析する「七つの論理」によって、実体のある現象を見つけることはできないということを説明されている。

 

 

 


馬車は、それ自体の部分とは別のものだと主張しているのではない
他のものでないのではなく(同一であり)、それ(部分)を持つものでもない
〔馬車は〕部分にあるのではなく、部分が〔馬車〕にあるのでもない
その単なる集まりでもなく、形でもなく、そのようなものである(第六発心「現前」151偈)

(「七つの論理(七相道理)」とは、同一、別異、依存するもの、依存される土台、所有、集合、形の七つ)

集合体であるというだけで馬車になるのではない
ばらばらの状態でも馬車があることになってしまうからである
部分を持つ〔全体の形が〕なければ部分はなく
形だけを馬車であるというのも不合理である(152偈)


「七つの論理」の見地からすると事物の存在はまったく確立されないが、世俗のレベルにおいては確かに存在している。中観帰謬論証派は、それ自体の力のみで存在している実体をもった現象は一切存在せず、事物は名前を与えられたことによってのみ存在していると主張している。

法王は更に次のように続けられた。
「すべての現象は、現れているようには存在していないと言うとき、それは他の要因に依存して初めて存在する、ということを意味しています。他の因や条件に依存して結果が生み出されるのです。チョネ・ラマ・リンポチェは “何かに依存していることにより究極のありようを否定せず、生じていることにより世俗のありようを否定しない” と言われました。釈尊は縁起と二諦(世俗と究極の二つの真理)を説かれました。現れていることは世俗の真理であり、真のありかたは究極の真理なのです」

「釈尊が四つの真理(四聖諦)を説かれたとき、最初に四聖諦の本質について、次に作用について説明されました。しかし、究極的には、“苦しみについて知らなければならないが、そこには知るべきことは何もない(苦諦)。苦しみの原因を断滅しなければならないが、そこには断滅されるべきものは何もない(集諦)” と言われました。これらは二諦についての言及ですが、これと同様に、“苦しみが止滅した境地を達成しなければならないが、そこには達成されるべきものは何もなく(滅諦)、苦しみの止滅に至る修行道を歩まなければならないが、そこには歩むべき修行道は何もない(道諦)” と言われています」

「滅諦の境地については般若波羅蜜(完成された智慧)の教えの中で、より完璧に説かれています。『般若心経』には四種の空(甚深四句の法門)が、“色即是空・空即是色・色不異空・空不異色” と示されており、三世におわすすべての仏陀たちもまた、空を悟る智慧、すなわち般若波羅蜜を拠りどころとして、無上正等覚を達成して仏陀となられたのです」

ここで法王は、『入中論』のテキストの最初の数偈について説明された。仏陀になるための主要な因は、自分より他者を慈しむという慈悲の心である。菩提心の源も慈悲である。そのような理由により、まず始めに慈悲の心が称えられているのである。

煩悩は現象の真のありかたを間違って捉えることから生じる。チャンドラキールティは『入中論自註』において、法無我を悟らなければ、人無我について完全に理解することはできない、と指摘されている。


人は土でもなく、水でもなく
火でもなく、風でもなく、虚空でもなく
意識でもなく、それらすべてでもない
そうであるなら、いったいどこに人は存在するのか


その後、法王は質疑応答のセッションに移られ、インターネットを介して参加した人々からの質問に答えられた。最初に、自分に対する優しさと他者に対する優しさの必要性の違いについて尋ねられた法王は、聴聞したことを基盤として、理解を深めていくことが大切であると述べられた。聴聞した内容を分析し、自分なりの理解に至り、理解したことについて何度も熟考し、熟考の結果得られた確信について瞑想することで、理解したことが心に馴染んでいく。体験を得るためには福徳と智慧の二資糧を積む必要があり、それによって心によき変容がもたらされる。優しさは、自分にも他者にも役立つものである。法王はご自身の経験に立脚して、このようにアドバイスをされた。

『入中論』の法話会の初日、ナーランダー・シクシャのメンバーからの質問にインターネットを介して回答されるダライ・ラマ法王。2020年7月17日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

次にラダックの女学生からの質問に対して法王は、慈悲の心は一切有情に焦点を当て、利他のために捧げられるものだが、智慧は仏陀の境地を得るために必要なものなので、慈悲と智慧の両方が必要不可欠であると述べられた。

スリナガルの若い男性からは、宗教的な意味に触れることなく、二諦の文脈における方便と智慧について説明することは可能かどうか、という質問がされた。それに対して法王は、二諦について話すとき、現れている現象は世俗の真理であるが、その現象をもっと掘り下げて見るならば、そこには究極の真理が開示される、と答えられた。他者を助けたいというあたたかい気持ちがあるなら、そこには知性が必要である。他者を苦しみから救うことができる、という確証をもたなければならない。

そして法王は、次のように考察された。
「新型コロナウィルスの感染拡大が起きている今日、多くの人が苦しんでいます。慈悲の心をもつと共に、感染を予防する対策を講じることによって世界的大流行の恐怖は克服できるということを理解することが必要です。ですから私たちは、慈悲の心と、解決方法を提示する知性の両方を結び合わせなければなりません」

仏教論理大学の学生は、人の究極のありようを分析する心によって、客観的にそれ自体の力で成り立つ人の実体というものは否定されているが、それでは、なぜ人自身は否定されないのか、という質問をした。法王はそこで『入中論』の以下の偈頌を引用された。


部分、特性、貪欲、相(特徴)、薪などと
部分を持つもの、特性を持つもの、貪欲を持つ者、相(特徴)を持つもの、火などは同義である
これらは馬車を分析したから「七つの論理」があるのではなく
それとは別に、世間に知られている慣習から存在しているのである(世間の慣習だから分析しない)(第六発心「現前」167偈)


そして法王は、分析してもその実体を何も見出せない一方で、世俗のレベルでは確かに存在していると説明された。ドムトンパは、究極の分析をするならば、火も手も実体をもって存在しているわけではないが、火の中に手を入れれば火傷する、と言われている。

デリーの大学教授は、人無我の否定対象を正しく知るにはどうしたらよいか、と尋ねた。この質問に対して法王は、ご自身の体験を踏まえて次のように答えられた。
「私の自我は、五蘊と別個に存在しているわけではありませんが、五蘊が私の自我なのではありません。ナーガールジュナは、五蘊のありようを誤って捉えているかぎり、五蘊を土台として成立する自我についての誤った捉われも滅することはない、と言われました。人無我を悟るためには、五蘊には自性による成立はなく、それ自体の力で成り立っているわけではないことを知らなければなりません。自我とは、単なる名前を与えただけの存在に過ぎません」

質疑応答セッションの最後に、スレーシュ・ジンダル氏が参加者を代表して法王に謝辞を述べた。

法王は席を立たれる前に次のように述べられた。
「私は空性について60年間考え続けてきました。そして菩提心については50年間考え続けています。空性と菩提心を理解するためには時間がかかります。皆さんもどうか自分の知性を活用して分析するという実践を続けてください。そうすることによって煩悩を減らしていくことができます。もちろん簡単なことではありませんが、頑張って努力を続けていけば、次第に心によき変容が訪れ、平穏な心が育っていくことでしょう」

「私たちには皆、仏性(如来蔵)が備わっています。仏陀の御心の空性と有情の心の空性には何の違いもありません」

「明日またお目にかかりましょう」