ニュース

ニュース

最新ニュース

これから開催するイベント

『入中論』の法話会 3日目

Print Friendly, PDF & Email

2020年7月19日
インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ

今朝、公邸内の居室に入られたダライ・ラマ法王は、中継モニターに向かって笑顔で手を振り、着座された。そして、モニターの中で法王を見つめ、耳を傾けているナーランダー・シクシャのメンバーに、次のように挨拶をされた。

公邸内の居室に入られたダライ・ラマ法王。2020年7月19日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

「おはようございます。すでに何度も申し上げているように、仏法を学ぶ目的は、すべての宗教的伝統に共通して言えることですが、人類の苦しみを減らし、幸せを高めていくことにあります。人間はだれもが生まれたその瞬間からやさしさと思いやりに依存して生きています。世界のあらゆる宗教的伝統は、人間の良き資質をより高めていくことを目的としており、ゆえにすべての宗教的伝統が愛や慈悲、自己規制、寛容などを高めることを教えているのです」

「インドの伝統を特徴付けているもののひとつは、心と感情について非常に多くの詳細な説明がなされていることです。釈尊もまたインド人であり、既存の宗教的伝統を学ばれた後、6年間にわたり苦行や断食をしてその思想を深められました。そしてその結果、現実のありようを捉えるということを確立されたのです。それからまもなくして悟りの境地に到られると、釈尊は次のように述べられました」


甚深にして静寂、戯論を離れ、無為にして光り輝く
甘露の如き法(ダルマ)を私は見いだした
しかし、この法を説いてもだれも理解することはできないだろうから
森に留まり、沈黙を守ろう


「やがて釈尊は教えを説き始められ、最初に初転法輪において説かれたのが、四聖諦(四つの聖なる真理)の教えでした。その後、ラージギルで行なわれた第二法輪においては、般若波羅蜜(完成された智慧)の教えを説かれました。これは釈尊だけが理解しておられた教えであり、“甚深にして寂静で、戯論から離れており、無為である光明、そのような甘露の如き法(ダルマ)を私は発見した” と述べておられます。般若波羅蜜の教えは、広く一般の弟子たちに向けて説かれたものではなく、釈尊の弟子のなかでも選ばれた弟子たち、つまり清らかなカルマを持った弟子たちを対象として説かれた教えとなっています。そこで、この教えが公開記録の中に記載されることはありませんでしたが、それは鋭い知性を備えた人でなければ空の教えを理解することができなかったからなのです」

ナーランダー・シクシャのリクエストによる法話会の3日目、法王公邸からインターネットを介して説法をされるダライ・ラマ法王。2020年7月19日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

「釈尊が初転法輪で説かれた教えの要点は、仏教以外の他の宗教と多くの共通点を持っています。般若波羅蜜は深遠なる教えであり、理解することが本当に難しい教えだったのです。一歩間違えば虚無論の見解に陥ってしまう危険性があったことから、釈尊は第三法輪においてその詳細を説かれたのです」

「今、ここで私たちが学んでいる『入中論』のテキストは、チャンドラキールティ(月称)がナーガールジュナ(龍樹)の『根本中論頌』(以降『中論』と表記)について解説した註釈書であり、その中では、釈尊が第二法輪で説かれた空の見解を主な主題として扱っています。空の見解は、すべての仏教徒が聞いたことのあるものでしたが、ナーガールジュナが現れるまでは詳しく解説されたことはありませんでした。ナーガールジュナは、空の分析と理解に基づいて『中論』を書かれましたので、これは本当に学ぶべき偉大なテキストとなっています」

「『中論』のテキストには原典となるサンスクリット語版が今も残されており、私はこれをクヌラマ・リンポチェから解説していただきました。このテキストの中には次の偈が述べられています」


行為と煩悩を滅すれば解脱に至る
行為と煩悩は誤った認識から生じ
それらは戯論から生じる
そして戯論は空によって滅せられる(第18章5偈)


「この最後の行には、“戯論は空によって滅せられる” という解釈のほかに、“戯論は空となって滅せられる” という二つの解釈があるとクヌラマ・リンポチェは説明してくださいました」

法王公邸で、インターネットを介してナーランダー・シクシャのメンバーにお話をされるダライ・ラマ法王。2020年7月19日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

ここで法王は、『入中論』の原典となるサンスクリット語版が存在しているかどうかを尋ねられ、次のように述べられた。「それは非常に価値のある研究となるでしょう。サンスクリット語は学術的な言葉とされており、ナーガールジュナとチャンドラキールティ(月称)のテキストをともにサンスクリット語で読むならば、実り多きものとなることでしょう。しかし、今からサンスクリット語を学ぶには、私は年を取り過ぎてしまいました。また、インドに亡命したときすぐにヒンディー語を学ぶべきでしたが、それもすでに時遅しとなってしまいました」

『入中論』はチャンドラキールティの著作のひとつであり、ナーガールジュナの『中論』の注釈書として記された。『入中論』には、ナーガールジュナが書かなかった唯識派の見解に対する批判が述べられているが、それは、唯識派の見解の主な提唱者であったアーリヤ・アサンガ(無著)がナーガールジュナよりずっと後の時代の人だったからである。

法王は、チャンドラキールティの『中観明句論』の原典となるサンスクリット語のテキストが存在しているかどうかを知りたいと思っておられたが、それが存在していることを知って大変喜ばれた。『中観明句論』は、『中論』についての逐語的な解説書であるのに対し、『入中論』はその意味について解説している。

ナーランダー・シクシャのリクエストによるオンライン法話会の3日目、法王公邸から参加者に向けて説法をされるダライ・ラマ法王。2020年7月19日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

法王は、チャンドラキールティの『入中論自註』は法王にとって非常に馴染み深いテキストであること、そして『中観明句論』の口頭伝授を前ガンデン座主のリゾン・リンポチェから受けておられること、さらに、このテキストを学びたいという気持ちをずっと持っており、昨日から実際に勉強を始められたことを明かされると、次のように述べられた。

「あるチベット人の学者の方が、もし明日死ぬということがわかっていたとしても、今日も学ぶことに価値がある、と最後の最後まで学ぶことの重要性について触れておられます。来世に生まれ変わった時も、前世で学んだ習慣性の力が残っている可能性があるのであり、これは未来への投資に例えられています」

「このように非常に深遠なる見解が説かれているテキストを学ぶのは、私たち人間はもちろん、すべての生きとし生けるものが苦しみを滅することを望んでいるからです。苦しみの源は無知の心にあります。しかし、私たちは智慧を育むことによって、無知の闇を晴らすことができるのです。マイトレーヤ(弥勒)の『究竟一乗宝性論』には、‟心の汚れは一時的なものであり、取り除くことができる” と述べられています」

『入中論』の解説の終わりに、法王は第6章の次の偈を引用された。


世俗〔の真理〕と究極〔の真理〕という大きな白い翼を広げ
この白鳥の王者を普通の白鳥の先頭に据えて
善の風の力で勝利者〔仏陀〕の功徳の海を越え
最勝なる彼岸へ飛んでいく(第6章226偈)


続いて法王は、質疑応答に入られた。
最初の質問者は、セラ僧院で学んでいるボンベイ出身の僧侶で、「私たち人間に水として現れてくるものは、例えば天人には甘露として現れ、餓鬼たちには血や膿として現れてくるという例えがあります。量子物理学の観点から見るならば、すべての現れをどのように理解すべきでしょうか」と訊ねた。 法王は、「コップの中の水には、水以外のさまざまな要素も含まれています。そのように考えてみるとき、それがきれいなものであったとしても、異なる有情がそれを見るときは、それぞれのカルマによって血や膿として見えてしまうことがあるのです」と答えられた。

2番目の質問者が、ひどい痛みや苦しみが生じてきたときに、その痛みの空についてどのように考えるべきか訊ねると、法王は次のように述べられた。 「私たちの身体には様々な痛みが生じてきます。たとえあなたが、すべての事物は現れのようには存在していないという空の理解を得ていたとしても、それが直接的に痛みを和らげてくれるわけではありません。しかし、痛みや苦しみが生じているとき、私たちはこれを誇張して捉えてしまう傾向があります。私たちの心に現れてくるとおりには、その痛みは存在していないわけです。痛みが生じてきたときに、それをあたかも幻のように捉えるならば、痛みを和らげることができるかもしれません」

法王公邸からインターネットを介して行なわれた法話会の3日目、モニターに映し出された参加者の質問にお答えになるダライ・ラマ法王。2020年7月19日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

続いてラダックの若い女性が、「菩提心を育む実践をするときに、その実践がうわべだけのものに思えてしまいますが、どうすれば現実味を持って菩提心を確立することができるでしょうか」と質問した。

法王は、「菩提心を自分の心に完全に馴染ませ、自然に湧き起こってくる段階に至るには大変な努力が必要です。長期にわたって仏法を勉強している人でも、自分の心に菩提心を馴染ませることは非常に難しいのです」と述べられた。

ここで法王は少し脇道に逸れて、仏陀でさえ必要に応じて薬を飲まれていたこと、ナーガールジュナも薬に言及されていたことに触れて、医学は、学ぶべき五つの主な学問の分野(主要五科)に含まれていたことを述べられた。他の四つは、美術工芸、サンスクリット語文法、仏教哲学、論理学である。

そして、次の菩提心生起の偈を唱えるよう質問者に助言された。


すべての有情を救済しようという願いによって
仏陀・仏法・僧伽に
悟りの心髄に至るまで
常に私は帰依いたします

智慧と慈悲を持って精進し
有情を利益するために
私は仏陀の御前に
完全なる悟りのために菩提心を生起いたします

この虚空が存在する限り
有情が存在する限り
私も存在し続けて
有情の苦しみを滅することができますように


さらに法王は、『入菩薩行論』の中から次の偈を紹介された。


故に、落胆や疲れをすべて取り除く
菩提心という馬に乗って
幸せから幸せへと進んでいくことを知ったなら
いったい誰が怠惰な心を起こしたりするだろうか(第7章30偈)


「あらゆる煩悩の原因は、事物には実体があると誤解してしまう無知なる心にあります。煩悩は一時的な心の汚れに過ぎないのですから、取り除くことができます。私たちの心の本質は、汚れがなく、対象物を知ることができるものであることを忘れないでください」と述べて、法王は質問者を励まされた。

法王公邸からインターネットを介して行なわれた法話会で、参加者の質問に答えながら破顔されるダライ・ラマ法王。2020年7月19日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ・(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

「他の人たちが皆菩提心を得たなら、私も得られるだろう、と思っている人がいるかもしれませんが、普通はそのようにうまくはいきません。菩提心とは、自ら実践することによって育むことができるものであり、それには菩薩が実践する3つの方法があります。王様のように先頭に立って民を導く菩提心、渡し守のようにすべての乗客とともに渡岸する菩提心、羊飼いのように群れを後方から見守る菩提心の3つです。他者を利益するために働くということは、勇気のいることなのです」

続いて、空と縁起の関係についての解説を求められると、法王は次のように述べられた。
「私たちがある対象物を見ているとき、その対象物の中には何らかの実体があるかのように現れてきますが、そうではありません。すべての事物は単なる名前を与えられただけの存在に過ぎません。つまり、単なる名前以外には、これがその対象物の実体であると指を指して示すことのできるものは何も存在しないのです。ツォンカパ大師は、空と縁起の関係を『修行道の三要素』の中で次のように明確に説いておられます」


あらわれとは誤りなく縁起するものであり
空とは〔自性を〕受け入れないことである
この二つの理解が別々に現れている限りは
まだ成就者仏陀の真意を正しく理解していない(第11偈)

〔この二つの理解が〕いつの日か交互でなく同時にあらわれ、
縁起に偽りがないことを見ただけで
認識対象には〔実体があるという誤った〕とらえかたをすべて滅したならば、
その時こそ〔空の〕見解の分析は完全なものとなる(第12偈)


続いて、どのようにしたら俗人が僧侶と同じように学ぶことができるかという質問に対し、法王は次のように述べられた。

「第一に、菩提心を育むことが必要であり、それにはシャーンティーデーヴァの『入菩薩行論』を読むことです。ナーガールジュナの『中論』、チャンドラキールティの『入中論』と『中観明句論』も読むとよいでしょう。こうしたインドの偉大な導師たちの著作に加えて、ジェ・ツォンカパが著された『菩提道次第広論』の観の章、『菩提道次第論中篇』の観の章、『中観密意解明』(『入中論』の注釈書)、『正理大海』、『了義未了義善説心髄』の五作を読むとよいと思います。これらの著作は、10回読めば10通りの洞察を得ることができると言われています。こうした著作を読み、勉強するならば、中観の見解を学ぶことに自信が湧いてくるでしょう」

参加者のひとりが、苦難の時代において困難に対処できるようなアドバイスを求めると、法王は、「気を落とす必要はありません。今勉強しなければ、いつできるかわからない ―― このように考えて、強い決意を持って仏陀の教えを学ぶことです。そしてその教えが自分自身のものとなるまで心に馴染ませていくことが大切です」と述べられた。

最後に、ナーランダー・シクシャのアニタ博士が、法王がインターネットを介してのこの一連の法話会の開催を快諾してくださったこと、さらには2012年以来、ダラムサラ、ムンバイ、サンカーシャ、ブッダガヤなどインドのさまざまな場所での法話会開催にも応じてくださったことへの感謝の言葉を伝えると、法王は次のように述べられた。

「新型コロナウイルスの世界的蔓延により、今はこのような方法を取らざるを得ません。しかし、今年の終わりか来年には、もう少しよい状況になるのではないかと望んでいます。私もまたツクラカンに行きたいと強く願っていますし、今年の終わりにブッダガヤで法話会を開くことができたらと望んでいます」

「あと15年か20年はこの身体を維持できそうですので、たくさん教えを説いて過ごすことに決めました。私自身の修行の目的は、自分が学んだことをより多くの方々と分かち合うことにあるのです。ありがとうございました」