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2004年人権委員会を振り返って 国連の人権に揺らぎ セルジオ・ヴィエラ・デ・メロの記憶も無残に・・・

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(2004年4月22日 国境なき記者団(パリ) ジャン・クロード・ブラー)

人権を重んじる国々の多くのグループが今までになく捕虜となっているさなか、人権委の心配は軽減しているように見える。人権委員会(以下、人権委)はまるで何も起こらなかったかのように、いつものゲームのような政治的な駆け引きに興じている。それはまるで、8月19日にバクダッドの国連事務所の爆破により22人もの人が亡くなった事件—国連事務総長特別代表のセルジオ・ヴィエラ・デ・メロ氏が自らの命と引き換えに信念を貫いたあの事件などなかったかのようだ。人権委が開くにあたり、テロで亡くなったセルジオ・ヴィエラ・デ・メロ氏と国連事務所チームスタッフへの追悼があり、それは広く指示され浸透していた。しかし、こうした儀礼的行為もあっという間にただの日課となり、すぐに忘れ去られてしまったようだ。

1994年のルワンダの民族大虐殺を記念する4月7日ですら、人々の良心を呼び覚ますには十分ではなかった。国連はキガリのフトゥ人政権が人権委と国連安保理に自らを選出し最悪な計画を行っていた当時にすでに、その無能さを明らかにしている。1996年3月付けの特別裁判による判決に関する特別報告で、ルワンダの平和回復への早急なステップの提案として大虐殺を企てた者の逮捕が行われたと報告した。しかし、人権委はコメントを発表しただけで、行動は起こさなかった。1ヶ月後、ルワンダで大虐殺計画は進行していた。そして、国際社会はこのルワンダの悲劇により大きな過ちに気付くことになり、コフィ・アナン国連事務総長はこのルワンダの民族大虐殺の10周年記念日を虐殺防止計画の発起の日に選んだ。これは、コンゴ民主共和国のイトゥリ地方とスーダンのダルフール地域の新しい不穏な動きに対する注意による。

国連の小人権委(人権保護促進小人権委員会)のメンバーの半分にあたる26人の再選挙が、通常通り、郵便ポストに投函された手紙のように流れ作業的に行われた。再選された中に、人権分野で独立した専門家と呼ばれ「スター」的存在の者が二人いる。それは、この輝ける組織の議長を引退するモロッコ人のハリマ・ワルザジとキューバ人で元小人権委委員のミゲール・アルフォンソ・マルティネスだ。ふたりは1988年のハラブジャ大虐殺の後もフセイン政権を支持し、話題となった。当時、イラク空軍による毒ガスの散布を浴び砲撃に倒れた500人ものクルド人の女性、子供、老人の死体が広がる映像は世界中の人々の記憶に焼き付いた。しかし、この事件によってもミゲール・アルフォンソ・マルティネスが支持し、ハリマ・ワルザジの推進する9月1日の「ノーアクション(何もしない)」提案を止めることはできなかった。これは小人権委がイラクの禁止された科学兵器の使用を懸念する重大な決議をも切り上げる結果となったのである。

1989年3月、人権委に議席のあるフセイン政権のイラクは同じ策略で全ての重苦しい討議を成功させた。イラクではイランとの戦争の殺戮後、1991年の暴動において20万人ものシーア派の人々が虐殺されている。ヴィエラ・デ・メロは、バクダットで国連事務総長特別代表に就く以前、こう述べている。
「これは、イラクは国連安全保障人権委員会にとって、内政干渉の防止もできなかった上に、25年もの間ひどい状況があるのにもかかわらず、討論すらできないという無能さをさらけだした2重の失敗である。しかし、人権委員会はほとんど記憶にないようだが」

(今年の人権委では)4月15日、各国が決議案に意を表明することで、なんとか無関心が一般的にならずに済んだようである。まずは、キューバがその口火を切る名誉を得たわけだ。去年、キューバで反体制派とジャーナリスト合わせて75人が逮捕された件が挙げられ、賛成22、反対21、欠席10で対キューバ人権非難決議案がかろうじて通過。これに対してキューバ代表は激怒し、亡命キューバ人を殴打、被害者が国連会場から病院に運ばれるという騒動があった。しかし、加害者のキューバ代表は外交官特権を自ら適用、お咎めなしとなった。こうした人権委の様子は、まさに氷山にぶつかり座礁した一艘の舟に喩えられた。

イランに対する非難決議案は全くなく、ノーベル平和賞受賞者シリン・エバディは、(人権委内の)つまらない駆け引きに唖然とし、失望を隠せない。ジンバブエとロシアはいかなる非難決議案をも回避、利害の一致した自由剥奪の独裁と暴政の両国は同盟を結び、いかんなくその効力を発揮したわけだ。チェチェンも同様に対象外とされたが、それは各国が単にロシア政府と争いたくないという理由からではなく、53の人権委加盟国のうち15がOIC(イスラム諸国会議機構Organization of the Islamic Conference)に加盟していることも大いに影響があるだろう。アメリカとオーストラリアの支援を受けた欧州各国だけがチェチェンの援護にまわった。

予想されたように、53カ国のどの国も米国が出す決議案を支持したくなかったようだ。米国は、非常に穏やかに、中国の人権状況を非難する決議案—チベットとウイグルの状況についての懸念—を出したのだった。チアリーダーのように囃し立てる中国人の役人や職員で一杯になった会場で、中国大使は憤慨を表し、米国の決議案に対する「ノーアクション」の動議を突きつけた。中国大使曰く「国連規則に基づき、人権委がその真実と原則を守ることを要求する」は、まったく屁理屈である。こうした状況の中で、(中国と同じように非難された)パキスタン、ジンバブエ、ロシア、スーダン、コンゴ、モーリタニア、インドネシア、キューバといった国々が(皮肉にも)民主主義のお手本を示すことになり、チベット支援にまわったのである。

こうした策略が錯綜する中で、目に見える小さな成功、本当の価値とは何か?もちろん、人権委はアウン・サン・スー・チー女史とビルマ(ミャンマー)の政治犯全員が解放されれば、満場一致で喜ぶだろう。トルクメニスタが人権委に対して続けて2年間シャットアウトしていた頃、人権委は北朝鮮とベラルーシ両国に現地調査を送り、その結果、勧告をも出している。

人権委は死刑廃止賛成30、反対20、欠席5で死刑の廃止を要求し決定的なものとした。興味深いことに、反対したのは、アメリカ、サウジアラビア等イスラム圏の国々、中国、ジンバブエである。当初、対テロリズムという名目で調査報告官が中国に送られたが、意のままに調査に動くことができず、報告担当官は任期延長を辞退してしまった。3名の司法の専門家が略式裁判で死刑判決を受けたチベット人僧侶の国際的基準下での裁判のやり直しを求めている。しかし、これらの問題をどう解決していくかは、また別の問題である。

人権委60年目のセッションは、またもや惰性で運営され、毎年毎年どの国も繰り返すことだが、「参加国と人権委はどのような役割を果たすべきか」といった誰も煩わすことのない決議を出した。そして、「人権委は遂行内容に書かれてあるように人権の保護と促進がしっかりできるのか?」という印象的な質問を受け、幕を閉じた。 年々失望せざるを得ない結果に、今まで尽力してきたNGO団体は思わず、こう質問してしまったようだ。確かに、早急に事態を掌握出来ない場合、人権委は全く無用のものとなり、倒壊する危機に直面することになる。