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1957年2月7日 中国共産党当局 「チベットの土地改革は6年間延期されるであろう」と発表

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「チベット政治史」(亜細亜大学アジア研究所)より抜粋

ダライ・ラマがまだデリーに滞在中の1957年2月7日、チベットは新たな改革を導入する準備ができていないと毛沢東は声明を出した。と同時にチベットの中国共産党当局は、チベットの土地改革は6年間延期されるであろうと発表した。

6年間たっても、チベットの民衆自身が改革を受け入れることを望まないならば、改革の導入はさらに15年、いや50年でも延期されるであろうというのである。また、ラサの中国当局は、西蔵自治区準備委員会」の規模が縮小されることも発表した。

ダライ・ラマはデリーを発つ前に個人的にネルー首相をチベットに招待した。ネルー首相はこの招待を喜んで受けたものの、後にチベット動乱が生じたためにこの招待は中国によって撤回された。

インド出発の前日、ダライ・ラマはチベット交易の拠点であり、数多くのチベット移民者の故郷であるカリンポンを訪れた。カリンポンは帝国主義者と国民党のスパイがおり、ダライ・ラマの身辺の安全を脅かす危険があるという中国側の反対にもかかわらず、ダライ・ラマはこの地に赴き、ブータンのジグメー・ドルジェ首相の母、ラニ・チューニー・ドルジェの賓客としてブータン・ハウスに1週間滞在した。

カリンポンにてダライ・ラマは宗教式典に臨席し、ダライ・ラマの祝福を受けに押しよせてきた何百人という群集を前に仏法を説いた。また、シッキムの故マハーラージャの賓客としてガントクでも同様の説法を行った。チベットが大雪であるとのニュースが入り、ラサへの出発は一時延期された。1957年2月、丙申年のチベット暦12月11日、ダライ・ラマは随行員とともにラサにむけて出発し、1957年4月1日に帰着した。その約3週間前にパンチェン・ラマとカワン・ジグメー・カプーの身の危険を危ぶんだ中国人たちは2人を飛行機でラサに呼びもどしていた。

インド滞在中、パンチェン・ラマはラサへの帰路、タシルンポ僧院に訪問するようダライ・ラマを招待していた。ラサに向かう途中でダライ・ラマはパンチェン・ラマの名代でもある高官に会見し、重ねてタシルンポ訪問を請われた。ギャンツェに到着したダライ・ラマとその随行員たちは、チベット政府の要人たちに出迎えられ、タシルンポ僧院に向かう途中請われるままシガツェ・ゾンを訪問した。シガツェ・ゾンは1642年、ダライ・ラマ5世が東は打箭炉(ダルツェンド)から西はラダックの国境に至るまでのチベット全土の主権をグシ汗より与えられ、正式に登位した歴史的な名所である。ダライ・ラマはシガツェ・ゾンに3日間、タシルンポ僧院に2日間留まった。

ラサにおいて、中国人は改革を延期させるとの前言を完全に翻し、チベット人に改革を受け入れさせるべく、全面的に宣伝活動を行い始めていた。チベット政府は人民の要望、習慣、事情に合った必要な改革を導入するために計画を作成した。チベット政府自身も改革の必要性に充分気づいており、強制も社会的分裂もない、平和的な段階を踏んだ改革の導入を望み、中国当局にいくつかの改革案を示した。しかしこうした改革案は中国側の案にそぐわず、完全に無視されるところとなった。

ダライ・ラマ自身は1959年6月20日、インドのムスリで発表した声明文の中で、改革についてこう述べている。

この時点で私が強調しておきたいのは、私も私の政府も、現行のチベット社会・経済制度に必要とされる改革になんら反対してこなかったということである。私はチベット社会が古い形態のままであり、チベット人民のために速やかなる変革を導入しなければならないという事実を偽る気はない。実際、過去9年間、私も私の政府もいくつかの改革を提言してきた。この提言は民衆からは賛同を受けたものの、中国側からはきまって強硬なる反対をうけ、そのためにどのような社会的、経済的改善策も打ち出せないという結果に終わった。とりわけ、土地保有制度を遅滞なく根本的に変革すること、つまり荘園の広大な土地を政府が保証金を支払って買い上げ、耕作者である農民に分配することは、私の最大の願いでもあった。
しかし中国当局はこの公正にして理屈に適った改革の実行にあらゆる手段をもって念入りに妨害したのである。

1957年より共産中国は軍事力確立のため、集中的に準備をすすめ始めた。チベット人自身が中国の裁可に従うことを選択するか否かに拘らず、力によって改革を推し進めようとしていたのは明らかであった。