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1955年3月 北京政府「西蔵自治区準備委員会」の設立を提案

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「チベット政治史」(亜細亜大学アジア研究所)より抜粋

1955年3月、ダライ・ラマがラサに戻る前に北京政府は「西蔵自治区準備委員会」の設立を提案した。中国の動きは、チベット各地の代表を中国の国政に参加させるという中国側の約束を具体的に示してみせたように思われた。しかし実際のところ、これらの代表は中国政府によって承認をうけた後に指名をうけることになっており、中国政府にとって好ましい人物だけが自然に選出されるしくみになっていたのである。

中国滞在中にダライ・ラマと中国政府は速やかなる無事な帰還を願うチベット本土からの手紙を受けとった。ラサへの途上、ダライ・ラマはカムの各地からの招待を受けたものの、帰路ぞいの町や僧院を訪問することができたにすぎなかった。リタンやチャティンバなどでは自分の専任教授補ティジャン・リンポチェを代理として派遣した。また、自分の代理として、チュン・リンポチェをニャロンへ、カルマパ・リンポチェをデルゲとナンチェンへ派遣した。

それより前、ダライ・ラマが中国めざしてラサを発つ時に、彼の兄ギャロ・トゥンドゥプ、僧官書記補ロサン・ギェツェンはチベット社会福祉委員会を設立し、その長となった。委員会はダライ・ラマと毛沢東主席に幾度となく文書を送り、ダライ・ラマの不在はチベット人民の望みに反することを強調し、ダライ・ラマの安全にして遅滞なき帰還を要請した。また、まもなく北京を訪問する予定であったインドの首相ネルーに文書を送り、関係各庁に働きかけて、ダライ・ラマの速やかなる帰還を可能にしてほしいと訴えた。

1956年、北京政府は「西蔵自治区準備委員会」を発足させるために副総理陳毅元帥を派遣した。政府の要人や大臣たちは、ノルブリンカ離宮の北西1km半のキツァル・ルディンへ赴き、この中国代表を迎えなければならなかった。ラサの中国当局はダライ・ラマもまたキツァル・ルディンに足を運ぶべきであると強調した。これに対して政府の官吏とチベットの民衆の間から激しい批判がわきおこったが、ダライ・ラマ当人は出迎えに赴くことに同意した。そうすれば中国との関係が改善され、中国の破壊行為を徐々に減じることができるのではないかと思ったからである。