「チベット政治史」(亜細亜大学アジア研究所)より抜粋
1951年7月、新たにチベット軍事、民事行政官兼弁務官として任命された帳経武将軍がヤトゥンに到着し、ダライ・ラマにラサへの帰還を要請した。1951年7月20日、辛卯年のチベット暦5月17日、ダライ・ラマはヤトゥンより出発した。通商代表団団長W・D・シャカッパは彼に随行してパリまで赴き、その地でチベット政府よりインドに残る許可を得た。ダライ・ラマは1951年8月17日、辛卯年のチベット暦6月13日にラサに帰還した。同年9月9日、王基梅指令官率いる何千もの中国共産党軍がラサに到着した。その後を追うように張国華と譚冠率いる約20,000の中国兵がラサ入りをした。
いわゆる中国人民解放軍のラサ到着とともにチベット人民に対する制圧が始まった。中国人たちは軍隊用の駐屯用地と兵士のための莫大な食糧を支給するよう、チベット政府に強要してきた。これが引き金となって安定していたチベット経済は崩壊の一途をたどった。食糧は枯渇し、物の値段は数倍にはねあがった。歴史始まって以来、初めてラサの民は飢餓の淵に立たされた。人々は中国側から押しつけられた不当な手段に抗議した。しかし状況は悪くなる一方であった。
ルカンワ・タシは、中国によるこのチベットへの内政干渉に強く反発しており、その政策に不満の意を表わしていた。ルカンワは、
「中国の要求する莫大な量の食糧を支給するのは不可能である、チベットは自給自足に足るだけの食料資源しかもちあわせていないのだからと主張した。彼はさらに、ラサにかくも多くの中国兵を駐屯させておく理由はない」 |
とまで言ってのけた。中国人たちがチベット政府やチベットに対し物理的支配を確立した後に、政治的支配を確立するつもりでいることは明らかであった。食糧の提供を不当に強要されたうえ、厳しい武力制圧を加えられてチベット人民は飢餓の状態においつめられていた。決断力に富んだ勇猛なるルカンワは、
「チベット人に強いたいわゆる17条協約を中国自身が破っている以上協約の条項を云々すること自体馬鹿げている」 |
と述べて、チベットを不法に占領している中国軍の撤退を公然と要求した。
チベット人民の不満は、チベット政府と中国人指令官張経武に6箇条の抗議文を手渡すまでに昂じていた。中国当局はそれに対し、2人の国務相を抗議運動の首謀者であり帝国主義者の手先として糾弾し、ルカンワの解任をダライ・ラマに強く要請した。ルカンワは中国側のいわゆる福祉プログラムに水をさしているというのである。また、もし、ダライ・ラマがルカンワを解任しないならば軍隊を動かして無理にでもそうしてみせると警告した。
ダライ・ラマは難しい立場に立っていた。というのも、彼自身が述べているように、
「私は中国に対して立ちあがったルカンワを大いに賞賛する。しかし私は彼をそのまま国務相の地位に留めるか、中国の要求に屈して解任するかの決定を下さねばならなかった」 |
からである。実際にはダライ・ラマには中国の要求を呑むほかなかった。なぜなら
「中国当局に反対しその怒りを買ったところで……結局はさらなる暴虐と圧制、人民の怒りという悪循環を招くだけであっただろうから」 |
結局、この2人の国務相は1952年、壬辰年のチベット暦3月2日に辞任した。その上、中国当局はチベット政府に圧力をかけ、抗議行動を行い6箇条の抗議文を手わたしていたチベット人民代表5名を投獄させた。