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1951年5月23日 中共・チベット17ヶ条協定

1951年5月23日

中共・チベット17ヶ条協定について

チベット亡命政権 情報・国際関係省著「チベット入門」より抜粋

1951年4月、チベット政府は大臣(カロン)のアポ・アワン・ジクメーを団長とする、5人の代表団を北京に派遣した。代表団に与えられた権限は、チベットの意見を述べ、中国の見解を聞き出すことだった。ところが白書は、代表団が「全権」を与えられていたと書く。しかし実際のところ、代表団は条約を結ぶだけの権限はもっておらず、重要事項はすべて政府の指示を仰ぐようにと指示されていた。

4月29日、交渉は、中国代表団の団長が協定草案を提示することから始まった。チベット代表団が草案を拒否すると、次に修正草案が提出された。しかしそれとて受け入れがたいことに変わりはなかった。この段階で、中国側の代表であった李維漢(りいかん)と張経武は、これがぎりぎりの条件であり最後通牒だと明言した。チベット代表団は侮辱的な言葉を浴び、暴力をほのめかす脅しを受け、団員たちは囚人同様に拘束された。それ以上の議論は許されず、中国の言い分とは裏腹に、チベット代表団はチベット政府の指示を得ようにも、連絡を取ることすらできなかった。

自分たちの責任で「協定」に署名するか、あるいはラサへの即時侵攻を受け入れるか、代表団は苦しい選択を迫られた。

1951年5月23日、チベット政府に知らせるすべのないまま、また中国の重圧の下、チベット代表団は「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放に関する協定」に署名した。代表団は、署名はあくまで個人の責任で行うものであり、ダライ・ラマやチベット政府を拘束する効力がないことを中国政府に確認した。しかしそんなことはおかまいなしに、中国政府は調印式を行い、「チベットの平和解放」のために「協定」が締結されたと世界に向けて報道した。また中国政府は協定を本物に見せるため、チベットの印璽(いんじ)を偽造して捺(お)すことまでした。

「協定」に書かれた17の条項には、中国軍のチベット入りを許可し、チベットの外交権を中国政府に委譲する旨が規定されている。一方で、現在のチベットの政治制度を変更しない、ダライ・ラマやパンチェン・ラマの地位・職務・権限に干渉しない、などの保証がなされている。チベットには自治権を与え、宗教と伝統を尊重し、また、内政改革についても、チベット指導者の意見を入れて強制はしない、としている。

「17条協定」として知られるようになったこの協定の全文は、1951年5月27日、北京放送を通じて公開された。ダライ・ラマとチベット政府は、この破壊的な文書の存在をこのとき初めて知ったのである。ダライ・ラマの滞在していたドモ[亞東(ヤートン)]とラサに、衝撃が走り不信が渦巻いた。

北京の代表団には即座にメッセージが通達され、政府に無断で「協定」に署名したことが叱責された。さらに署名した文書の全文を送るように指示が与えられ、代表団はそのまま北京に残って次の指示を待つようにと伝えられた。ほどなくして代表団から電報が届き、中国政府代表・張経武将軍がすでにインド経由でドモに向かっていると知らせてきた。さらに団員の何人かがインド経由でラサに戻り、団長自身はラサに直接戻る予定であることが付け加えられていた。

ダライ・ラマとチベット政府は、「協定」を表だって拒否することはとりあえず避けることにした。1951年8月17日、ラサに戻ったダライ・ラマは、再度中国と交渉して少しはましな協定が結びなおせないかと考えていた。

同年9月9日、約3,000の解放軍がラサに行軍した。

続いて20,000の兵が、東チベットと北側の東トルキスタン(新彊)とからやってきた。人民解放軍はルトクとガルトクの主要都市を占領し、ついでギャンツェとシガツェを手中に納めた。

ラサをはじめとするチベットの主要な町はことごとく占領され、東チベットと西チベットに大軍が集結された。こうして、チベットの武力支配は完成した。中国はこのような状況下で交渉の再開を拒否し、ダライ・ラマは、実質的に「協定」を受諾することも拒否することもできなくなった。しかしインド亡命後の1959年6月20日、ダライ・ラマはようやく自由に意見を述べる機会を得て、「武力を背景としてチベット政府とチベット人民に押しつけられ」ていた「17条協定」を、正式に拒否することを宣言した。

中共・チベット17ヶ条協定の詳しい内容

「中央人民政府は、中華人民共和国の領土と主権を統一し、国防を維持し、チベット民族とチベット人民を開放し、中華人民共和国の大家庭に復帰させ、国内における他の各民族と同じく民族平等の権利を持たせ、その政治経済、文化、教育の事業を発展させるため」
(本協定前文より)

このように人民解放軍のチベット侵入の理由として、中国はチベットから侵略的帝国主義勢力の一掃をうたっているが、チベットにはかかる勢力は全く存在していなかった。

「中共軍のチベット侵入の後、結ばれたこの協定は、武力によってチベットの人民及び政府に推し付けられたものである。それは、自分たちの自由な意思によって受け入れたものでは決してなかった。我が政府の同意は、強迫と銃剣を付きつけられてなされたものであった。わが代表団は、中共軍のチベットに対する一層の武力行使とそれによる我が国の全面的な破壊と荒廃という強迫を受けて協定調印を余儀なくされた。」
(1960年6月20日ダライ・ラマ記者会見より)

「チベット代表団は、隔離され何ら助言も与えられず、ついに強制に屈服して文書に署名した。だが、彼らは、同文書の効力発生に必要とされた印章の捺印を拒否した。しかし、中共側は、北京でチベット代表団の印章の複製を偽造し、それでもって文書に捺印するよう代表団を強制した
(ダライ・ラマ自伝より)

「条約に拘束されることについての国の同意の表明は、当該国の代表者に対する行為または脅迫による強制の結果行われたものである場合はいかなる法的効果も有しない」
(1969年「条約法に関するウィーン条約」の第51条)
このように本協定は強制だけでなく詐欺により無効ということにもなる。

協定の問題点

「チベットからの帝国主義勢力の駆遂」という中国の名目についてに言及すれば、中共軍の侵入前には、西洋人はチベット内にたった6人。しかし中共軍侵入時には、皆チベットを去っていたのである。

協定その後 この協定によりインド議会で批判が起きる。チベットに対する中国主権の承認について、インドの盲目的な対中国友好政策に遺憾の意を表し、中国のチベットに対する宗主権は時代遅れで名目だけのものに過ぎなかったと強調。さらに、緩衝国チベットの消滅はインドに重大な影響を及ぼすことになることを警告した。国境問題に関して中国とインドの間に根本的相違は見られたものの、この条約が締結した背景には以上のことが挙げられる。インドはカシミール紛争を始めパキスタンと激しく対立しており、アメリカがパキスタンに接近していたことは脅威であった。一方、中国も朝鮮戦争で北朝鮮に加担し、アメリカ国連軍と激戦。こうしたアジアにおけるアメリカ進出に対抗するという同じ名目のために、両国はこの条約を取り交わしたのである。

しかし、ツァン・チョクラ峠やシプキ・ラ峠をめぐる中印国境紛争問題はエスカレートし、ダライ・ラマ法王やチベット難民をインドが受け入れたことで1962年協定失効となる。インドと中国の国境衝突の激化を見、外交関係は極度に悪化することになる。


重要参考資料
  1. チベット史情報室「テングリノール」
  2. 17ヶ条協定の全文和訳
  3. 中国側全権書名・捺印、原本の写真
  4. チベット側「全権」の署名捺印、原本の写真 (偽造された印璽によって調印されたもの)

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