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中国国民党政府、パンチェン・ラマ6世の転生者を認定


「チベット政治史」(亜細亜大学アジア研究所)より抜粋

パンチェン・ラマ6世の歿後、タシルンポの官吏たちは、チベット政府と西寧に赴いていたパンチェン・ラマの侍従たちの助けをかりて、パンチェン・ラマの転生者を捜し始めた。1944年、タシルンポ僧院の官吏たちは2人の候補者を発見した。一方、西寧のパンチェン・ラマの侍従たちも候補者を1人みつけだしていた。政府はタシルンポに3人の候補者全員を連れてきた上で、伝統的な宗教テストを行い、真の転生者を選出するように指示した。しかし西寧の侍従たちは自分たちの発見した候補者をパンチェン・ラマの正統なる転生者として認定するよう要求し、それが認められたならば、候補者をチベットに連れていくと約束した。その間に西寧の候補者はクンブム僧院で得度を受けた。チベット政府もまたカムからの2人の候補者に、1人はデープン僧院で、もう1人はタシルンポ僧院で得度を受けさせた。

この問題に決着のつかぬまま数年が過ぎた。中国国民党政府は、西寧の候補者に対しいかなる言質も与えぬまま財政的援助のみを与えていた。しかし、チベット政府がラサの中国国民辧事処(代表部)に退去命令を出した時、国民党政府はクンブム僧院に代表を送り、1949年8月10日、通常のテストぬきで西寧の候補者をパンチェン・ラマ6世の転生者と認定した。数週間後、青海省の省都西寧は共産党軍に占領された。同時にパンチェン・ラマもまた彼らの手におちた。国民党政府は台湾に移動し、青海省政府主席の馬歩芳はその地方を放棄した。

中国共産党の手中におちたパンチェン・ラマは、いわゆるチベット解放において毛沢東と朱徳を支持することを余儀なくされ、逆に1951年の17条協約調印中に、チベット代表団は西寧の候補者をパンチェン・ラマ7世として認定するよう強要された。チベット政府は現在のパンチェン・ラマを7世とみなしているのに対し、パンチェン・ラマ側は10世であるとしていることは記しておくべきであろう。この相違は最初の3人の転生者を認めるかどうかにかかっている。

国務相2人が辞任させられた後、中国共産党兵に護衛されたパンチェン・ラマが壬辰年のチベット暦3月4日(1952年4月28日)、西寧経由でラサに到着した。ダライ・ラマをポタラ宮殿に表敬訪問した後、パンチェン・ラマはシガツェのタシルンポ僧院へ向かった。