ダライ・ラマ法王の手は、思いの外ずっしりとしていた。18日に都内で行われた記者懇談会の後、法王は、壇から降りて私の方に歩み寄り、微笑みながら右手を握られた。この予想外の出来事に、他の記者たちもわっと法王の周りに群がり、握手を求めた。
◆ 自分で調べ、自らの頭で考える尊さ
懇談会で私は日本に蔓延しているカルト問題について質問をした。これまたいささか意外であり、印象的だったのは、その回答の中でダライ・ラマ法王が「study 研究する」と「investigate 調査する」という2つの言葉を最も頻繁に使っていたことだ。「learn 習得する」や「believe 信じる」ではなく、自分で調べ、吟味することの大切さを、法王は繰り返し強調した。
記者懇談会だけではない。その前週に行われた仏教講演会のおいても、この2つの言葉の重要性が熱を込めて語られた。双方の機会での法王の発言は、おおむね以下の通りである。
「人が幸福になるには、必ずしも宗教が必要だとは思わない。が、1つの宗教を信仰するのであれば、まずは正統に継承された教えを勉強すること。経典に書いてあるから信じるのではなく、分析的に確かめ、なぜこれが必要なのか、自分の頭でゆっくり考えることだ。そして、土台をしっかり築いて段階的に進むことが大切で、いきなり密教の修行に飛びつくべきではない。ましてカルトは危険である。
師についても、その人が正統な教えを正しく継承しているか確かめ、その人格を含め、あらゆる角度から十分に調査することが必要だ。信じる前に、まず研究せよ。教師然とした態度をとる者には、警戒すべきだ」
自分で調べ、自分の頭で考える−まさにこういう力やそのための時間を、カルトは人々から奪っていく。
例えばオウム真理教の場合、一連の凶悪事件当時ばかりでなく、今に至っても信者たちは、麻原彰晃こと、松本智津夫を客観的に検証し、吟味することができない。謝罪についても、何がどう間違ったのか、1人ひとりが考えて行動するのではなく、信者たちは教団が指し示す方向に付き添っているだけだ。
ただ、彼らすべてが元々モノを考えない人間だったわけではない。むしろ、自分の生き方や夢、人類の行く末などについて考え込むタイプだった人が多いと答えるかもしれない。
経済的な豊かさは、人々に考える機会や時間をもたらした。職業選択も、「食うため」というより、より意味のある、より自分らしい人生を生きることを中心に考えることができる。それ自体は、素晴らしいことだ。
しかし、人生をかけてやりたいこと、人生の意味や目的、自分の使命などは、そうそう簡単に見つからない。そんなモヤモヤとした不安、不安定さを抱える若者に、オウムは、生きる目的は「悟り・解脱」であると、唯一絶対の回答を提示してみせた。さらには「人類救済」という大きな使命も与えた。
確かにそれは魅力的だったろう。が、それにしても、なぜ彼らはオウムのようなカルトに飛び込むことに、もっと慎重になれなかったのだろう。どうして、信じ込む前に自分で検証し、分析し、考えなかったのか。
◆「回答」第一の日本の教育にも原因
実は、こうしたことは、日本の若者たちの多くが苦手とする作業かもしれない。そもそも、1つの回答が用意され、いかに早くそこに到達するかという競争ではなく、すぐに答えが出ない問題、そして回答が決して1つでない課題について、自分で吟味し考える訓練や機会が、日本の教育の中でどれだけ提供されてきただろうか。カルト問題は、私たちが「考える」ことをおろそかにしてきた結果と言えるかもしれない。
法王の訪日に関しても、政治的な立場や発言ばかりが報じられているが、こうしたメッセージが込められた意味こそ、私たちはもっと重く受け止めるべきではないだろうか。
江川 紹子(ジャーナリスト)