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意気揚揚のモンゴル仏教徒たち ダライ・ラマ訪問に対する妨害を乗り越える

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(2002年11月3日AP一部)

(ウランバートル)ダライ・ラマを迎えるアマルサキカンは、一つの境地に達しているひとりの仏教僧である。このアジアの長い仏教の歴史をもつ氷の大地に精神的指導者ダライ・ラマを迎えることは、まるで何百マイルもの氷の大地を一歩一歩踏みしめるようなものであった。

「私は、ダライ・ラマに会うために心の準備をしてきた。そして私が行動するときが来た時、私はダライ・ラマに祈る」とアマルサキカンは言った。11月3日、アマルサキカンは、今週のダライ・ラマ訪問のための準備でモンゴル最大のガンダン・テグチンレン寺院で法要に参加した。アマルサキカンの期待は、チベットと文化的にも宗教的にも強い絆を結んできたモンゴルの多くの人々に感じ取られた。共産党支配が終わって12年間、仏教伝統はまた復興している。ダライ・ラマは、ロシアと中国に挟まれた内陸国モンゴルをすでに5回訪問しており、前回は1995年である。

ダライ・ラマは、11月4日か5日にモンゴル入りするとされている。詳しいスケジュールについては公表されていない。この訪問は中国から怒りの抗議を買うことが予想される。中国は、ダライ・ラマをチベットの中国支配を終わらせる恐れのある政治的策士と見られている。11月3日現在では、まだ中国政府はこの訪問について公表声明を出していない。その理由として、現在進行中の(中国とチベット亡命政権の)外交努力が考えられる。ダライ・ラマは、9月にインドからモンゴルを訪問することを計画したが、中国との関係を損なうことを恐れたロシアと韓国双方がトランジットビザを発給することを拒否したため、立ち消えとなった。モンゴルとダライ・ラマが亡命しているインド間の直行便がないため、トランジットを許可する国がなければ今回のモンゴル訪問は不可能だったことになる。日本を経由してモンゴル入りされると考えられる。中国はチベットを1951年に占領してから、チベットは何世紀にもわたって中国の領土であったと主張している。ダライ・ラマは、1959年のチベット民族蜂起にともない、インドへ亡命した。そして、仏教儀式とチベット人の政治的文化的権利を守るための活動を続けている。

チベット人もモンゴル人も大乗仏教を信仰し、高度の精神的権威としてダライ・ラマを崇めている。16世紀、モンゴルの国王は、ダライ・ラマに「智慧の大海」という意味のダライ・ラマの称号を与えた。1904年、英国軍がラサに侵攻したとき、先代のダライ・ラマ13世はモンゴルへ1時避難した。240万人のモンゴル人のうち90%が仏教徒である。ガンダン・ンテグチンレン寺院は1924年モンゴルが共産国になるまで重要な仏教の教えの場であった。モンゴルの共産主義支配は、決していかなる宗教も認めず、モスクワにスターリン政権がある間、宗教の実践を禁止した。モンゴルの共産主義政権は、モンゴルもソ連から多大な援助のもとにあった。モンゴルの仏教は、総選挙後少しずつ復興し、1990年の民主的な憲法ができてからさらに蘇った。

11月3日、モンゴルの首都ウランバートルの通りにはダライ・ラマの訪問を示すサインはいまだなかった。週刊ウランバートルポストは、トップページに「ダライ・ラマがモンゴルを訪問する予定」と掲げた。ガンデンテグシレン寺※では、僧たちが精神的指導者ダライ・ラマの到着準備のため、寺の清掃をした。 「私たちは、この訪問のために特別な祈りをした。とても高貴な気分だ」と僧のひとり。 凍てつく朝、本堂前の庭では、信者たちが祈祷室で法輪を廻したりなどして過ごしながら散策している。 「祈りによって、心と思念が清浄になる。ダライ・ラマがいらっしゃることは、モンゴルにとって幸福であり幸運をあらわす」と信者のひとり。
前回の訪問の時にダライ・ラマを見たという他の14歳になる女の子は、またのチャンスの到来にわくわくしながら、こう語った。
「今回は、私自身の人生が成功するようにお祈りにいくの」

ガンダン・テグチンレン寺院(通称ガンダン寺院)

1838年、第5代活仏によって建立されたチベット仏教寺院で極左政権期に寺院の機能は失われたが、40年代には回復。モンゴル最大の寺院で高さ26mの観音像がある。この大仏は民族の安全、幸福を祈願して建立された。