2025年6月3日

現在、多くのチベット政治犯が私を含め、中国による拘禁下のチベットの三つの地域で同様の困難に苦しんでいます。チベットの宗教、文化、言語、慣習は中国の占領下で組織的に破壊されています。チベットの天然資源に対する大規模な採掘が行われていますが、その収益と利益はすべて中国政府に没収され、チベッ トの人々には何の利益も還元されていません。私と縁のあるキルティ僧院の学校は、かつて800人以上の生徒が学んでいましたが、強制的に閉鎖されました。キルティ・リンポチェの著作である『ロセル・ギュルゲン』の教授は現在禁止されています。そしてダライ・ラマ法王やキルティ・リンポチェに対し、キャブテンやンゴテン(病人や亡くなった方への祈祷奉納)といった伝統的な宗教儀式をお願い申し上げることすら禁止されています。リンポチェ二人の肖像を掲げることは、私たちの信仰の重要な一部であるにもかかわらず、それが取り調べや投獄の対象となっている事実が、チベットの現状を如実に物語っています。
私自身の体験談をお話しいたします。私はチベットのアムド地方ンガワ地区チャロのペマ・ラタンという、質素な遊牧民の家庭に生まれました。多くの遊牧民の子どもたちと同じように、幼い頃から両親と一緒に遊牧の仕事をしていたため、学校に通う幸運には恵まれませんでした。
しかし、幼い頃から主に両親など年長者から、チベットの歴史に関する悲しい話をたくさん聞いてきました。特に、中華人民共和国(PRC)が殺戮や略奪をもってチベットに侵攻したこと、そしてダライ・ラマ法王をはじめ、今生と来世にわたってチベット人を守る最高の聖者であるキャブジェ・キルティ・リンポチェがインドに亡命せざるを得なかったことを聞きました。これらの話を聞くたびに、とても悲しい気持ちになりました。いつかチベットが自由を取り戻し、私の根本の師の顔を見て教えを聞ける日が来るよう、何度も祈りました。
チベットでは、性別や年齢に関係なく多くの愛国者たちが、国連や世界各国がチベットの日々の苦しみや抑圧を知らないのではないかと懸念し、深く心を痛めていました。中華人民共和国 (PRC)は、直接的にも間接的にも、僧院や学校、そして一般市民がチベットの宗教、文化、言語を保存・管理・推進することを妨げ、移動の自由にも深刻な制限をかけていたからです。
2015年9月下旬、私はいとこのテンジン・ドルマと家畜の放牧をしながら、何度か秘密の話し合いを行いました。そして同年10月21日午後3時、私たちはアムド地方ンガワの「パウォ通り (英雄の通り)」へ行き、マニ車やチベットのブーツを含む伝統的な民族衣装を身につけ、大きなダライ・ラマ法王の肖像を手に持ち、群衆で賑わう通りを行進しました。私たちは「チベットに自由を!」「ダライ・ラマ法王とキャブジェ・キルティ・リンポチェが一日も早くチベットに戻れますように!」「お二人が千年もの命を持ちますように!」と叫びながら行進しました。
抗議を始めて10分もしないうちに、背後から大きな音が聞こえ、4~5人の警官が私たちの手から肖像を強引に奪いました。そこから約30分間、押し合い引き合いが続きました。彼らは前後から私たちを押さえつけ、「黙れ」「叫ぶな」と命じましたが、私たちはできる限り叫び続けました。その後、私たちは手錠をかけられ、背中で手を縛られ、車に乗せられてンガワ地方の拘置所に強制連行されました。その日の深夜、私たちはさらにバルカムの拘置所へ移送されました。
6日以上にわたり、過剰に暖房が効いた小さな取調室で、交代制の尋問官たちが私たちに次々と質問を投げかけました。「誰が抗議をそそのかしたのか」「誰が最初に言い出したのか」「ダライ・ラマ法王の肖像はどこで手に入れたのか」「外部に知り合いはいるのか」などの内容でした。彼らは私たちを「国家の裏切り者」だと罵り、「自分たちの罪がいかに重大か分かっているのか」と言いながら、髪を引っ張り、顔を平手で打ち、足で蹴りました。絶え間ない暴力、食事の制限、睡眠の剥奪により、私は何度も「早く死んでしまいたい」と思いました。ときには、取り調べ官が親切なふりをして、「真実を話せば刑が軽くなる」「早く釈放されるかもしれない」などと言ってきました。しかし、私たちは「この平和的な抗議は完全に自分たちの判断で行ったものであり、誰にもそそのかされていない」と明言し、家族は何も知らないと主張しました。
その後、私たちはタシ・ギャルカ地域の拘置所(現在の四川省簡陽市養馬鎮にある四川省女子監獄)に約7か月間収容されました。そして1年1か月ほど経った2016年11月23日、私といとこはトロチュ地域の裁判所に連行され、裁判を受けました。この日、私たちは拘束されて以来、初めて顔を合わせました。両親や家族の姿は一人も見当たりませんでした。法廷には中国政府により任命された女性弁護士が2人おり、一人はチベット人、もう一人は中国人でした。私たちは、「国家に対する反乱によって分裂活動を行ったこと」や「分裂主義者ダライ・ラマへの信仰を持っていたこと」などを理由に告発され、懲役3年の判決を受けました。その後、私たちは四川省の少数民族専用の刑務所へ、さらに成都市最大の女子刑務所(四川省女子監獄、簡陽市養馬鎮)へ移送されました。
これまでにもチベット人女性が同じ刑務所に収容されたことはありましたが、私たちがいた当時、その刑務所には6,000人を超える受刑者の中で、チベット人は私たち2人だけでした。最初の3か月間、私たちは軍事訓練を受けさせられ、中華人民共和 国の憲法や規則、さらには多数の中国語文書を「愛国心を育てる」との名目で学ばされ、その後、理解度を確認するための面接がありました。そこで、私たちは刑務所でどう生き延びるかを学びました。3か月が過ぎると、私は労働キャンプで銅線作りを毎日行い、いとこは最初にタバコの箱を作り、その後は腕時計の製造作業に従事しました。家族は刑務所に食べ物や衣類を送ってくれましたが、それらが私の手に渡ることはありませんでした。栄養の乏しい食事、薄い寝具や冬でも寒さをしのげない衣類、異なる民族であることによる差別や軽蔑、そして最初は言葉の壁にも大きく苦しみました。
2018年10月21日、私たちは刑期を終えて刑務所から釈放されました。その後1週間、アムド地方ンガワ地区のペマ・ラタンにある警察の拘留所に留められ、家族に対して誓約書を書くよう命じられました。
さらに、私の兄も投獄されていたため、私たちの家族は「ブラックリスト」に登録されていました。釈放後も私たちは監視下に置かれ、自由な移動はまったく許されず、人と会うだけでも細心の注意が必要で、苦しみが続いていました。そのため、私は2023年5月13日、家族には一切知らせず、叔母のツェリン・キとともにインドへ亡命しました。2023年5月27日、私たちはネパールの難民受け入れセンターにたどり着きました。続いて、6月28日にダラムサラの中央難民受け入れセンターに到着しました。
そして2023年7月3日、私はついに、全知全能でありチベット人すべての守護者であり指導者である、ダライ・ラマ法王との謁見の機会を得ました。それは言葉では言い表せないほどの喜びでした。 私は、平和を愛し正義を尊重する各国および団体の皆さまにお願い申し上げます。チベットの三つの地域の現状について学び、調査していただき、どうか中国政府に対して直接的・間接的なかたちで圧力をかけることで、私たちにご支援をお寄せください。
(翻訳:Yuki)