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中国 対 ダライ・ラマ法王

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(2009年4月1日 ジャパン・タイムズ紙 ブラマ・シェリアニ)

インドへの亡命から60年が経つ現在、第14世ダライ・ラマ法王の存在は中国にとって、かつてないほど大きな課題となっている。これは中国が、法王に対する非難攻勢を強めていることや、チベットをめぐって「生きるか死ぬかの闘い」に巻き込まれていると認めたことからも明らかである。

1959年3月30日、当時24歳だったダライ・ラマ法王は、変装してインドへ渡った。側近達と家族で作った小さな一団で、チベット高原を抜ける13日間のつらく苦しい旅の後のことである。法王の到着が公表されたのは、その翌日であった。それ以来、法王は、近代世界の歴史において最長で最大の抵抗運動の一つを象徴する存在となった。法王が最近おっしゃったように、中国によるチベット支配は、「地上の地獄」を作り出した。 中国政府が、チベット政策の荒々しさや無常さに匹敵するような呼び方で法王の名を挙げ、象徴的存在であるダライ・ラマ法王を一番の敵として扱っていることに、驚きはしない。 中国政府はチベットであらゆること——チベットを分断した地図を作成すること、歴史を書き換えること、 大規模に移住させたハン民族の中にチベット民族を埋もれさせること、組織的にチベット機関を弱体化させること——をしてきたのだ。

ダライ・ラマ法王のソフト・パワーは中国の無限の権力に立ち向かってきた。だが、それにたじろぐこともなく、今日、中国は延々と政治宣伝を行ない、一方で、ますます反抗的になるチベットの地区を封鎖している。その地区の半分はチベットから分離し、青海省、甘粛省、四川省、雲南省と統合した。

ダライ・ラマ法王は、世界世論へ確固とした影響を与えるために、ご自身の国際的な倫理的地位を賭している。これに対し、躍起となった中国政府は、ますます文化大革命的な言語に頼らざるをえなくなっていった。 最近の中国の敵への感情的な爆発の一つ——「法衣をまとった狼 、人間の顔と獣の心を持った悪魔。我々はダライ派と血なまぐさい激しい戦いをしている。」——を考えてみて欲しい。

ダライ・ラマ法王は20年以上前に、チベットの独立要求を放棄した。だが、いまだに、中国の政治宣伝機関は、法王が「独立運動の首謀者」であるとし、温家宝首相は法王に独立運動を辞めるよう要求している。まるで中国が、 歴史的にも法律的にも疑いようのない権利をチベットに対して持っているかのような発言である。

中国政府が国際的にダライ・ラマ 法王を孤立させようとすればするほど、中国の悩みの種は大きくなってきた。 最近、中国は、アフリカでその最大の貿易相手国である南アフリカに圧力をかけ、ヨハネスブルグで行われる平和会議にダライ・ラマ法王が出席できないようにした。だが、欧州議会と米国下院議会が、チベットに関する個々の決議を採択し、中国は 苦渋をなめることとなった。欧州議会は「チベットの本当の自治」を、米国下院議会は「チベット人に対する苛烈な政策を即時辞める」ことを中国政府 に求めた。どちらの立法府も、チベット問題に対する永続的な政治的解決へのダライ・ラマ法王のイニシアティブを支持したのだ。

中国に捕らえられる前に、チベットを逃れた法王は幸運であった。 1956年、法王は釈尊入滅2500年記念祭に参加するためにインドへ渡った。このとき、ダライ・ラマ法王の相談役たちが、法王の安全を危惧していたにも関わらず、親中国派のインドのジャワハルラール・ネルー首相は、ラサに帰るよう法王を説得した。しかし、法王が戻ると、チベットの状況は 容赦なく悪化し始めた。

1959年3月17日に、ダライ・ラマ法王が、チベット人兵士に扮して中国軍が包囲するラサのノルブリンカ宮殿を脱出しなかったら、法王は第11代パンチェン・ラマと同じ運命をたどっていたかもしれない。第11代パンチェン・ラマは、6歳で認定された直後、1995年に行方が分からなくなってしまったのだ。1959年3月10日、チベットで起こった集団暴動は、ダライ・ラマ法王が中国軍キャンプで行われる催しにボディーガードなしに来るように言われた後で誘拐されるかもしれない、という人々の不安を引き金にして起こったのだ。

暴動は、一年におよぶ 大殺戮の中で厳しく鎮圧された。その時以来、100万人以上のチベット人が、中国政府の公式政策のために、命を落としたと言われている。

亡命中、ダライ・ラマは、学校のネットワークを作ることで、チベットの活動を存続させたり、チベットの言語や文化を保護する手助けをしたりしてきた。亡命チベット政権から、民主的に選ばれた行政・立法府への移行は、北京の独裁者たちに良い手本になるはずである。だが、共産独裁政権は、代わりに、チベット人を国の農奴にし、先週の土曜日を祝日とした。チベットの征服により、チベット人を農奴制から解放したことを、遅ればせながら発見したというのだ。

ダライ・ラマ法王が1959年の脱出に成功していなければ、中国はずっと以前に偽者のダライ・ラマ法王をすえたであろう。中国が拉致した正式な認定者の代わりに、中国が選んだパンチェン・ラマを置いたのと同じ方法で行われただろう。 しかし今や中国は、まがい物をお膳立てする前にダライ・ラマ法王が亡くなるのを待つしかない。 中国政府の計画を頓挫させるため、現ダライ・ラマ法王は、継承に関する明快なルールを正式に 定めなければならない。

1950年11月に現法王が15歳で全ての俗権を掌握 するときには、中国軍の侵略がすでに始まっていた。実際のところ、第13代ダライ・ラマの1933年の死から、このときまで、17年という長い間隔があり、これが、チベットの自由を奪う結果となった。だが、性急なダライ・ラマ法王の行政職への就任は、中国のチベット征服の貫徹を防ぐものではないかもしれない。

継承と育成のために同様の長い間隔が今空くことは、自治を取り戻すためのチベットの大義にひどい打撃となりうる。だからこそ、第15代ダライ・ラマ法王を選ぶルールを明快にすることが不可欠になってきたのだ。それには、現法王が以前提案したように、次の法王は中国が支配するチベット内からではなく、自由世界において選ばれるべきかどうかも含まれる。解決されるべきもう一つの問題は、 1999年後半にインドに亡命した第3位のチベットの精神的指導者である現カルマパ・ラマが、非公式の暫定的なダライ・ラマ法王の後継者となれるかどうかである。

インドにとって、チベットは、中国間との重要な問題である。中国は地理的ではなく銃によって、チベットの近隣国になった——伝統的な緩衝材を取り去ったのだ。

最近の議会の決議は、ダライ・ラマ法王とチベット難民を受け入れている点において、インドの寛大さを評価している。でもこれは単なる寛大さ以上のものである。ダライ・ラマ法王 はインドの戦略的な資産なのだ。なぜなら、法王なしには、中国に対する軍事的分裂が起きてしまい、国が貧しくなってしまうからだ。このように、インドは、後継者の訓練や教育の監督も含めて、後継者問題においては大きな利害関係がある。

※ブラマ・シェリアニは、ニュー・デリーの私立政策研究センターで戦略研究の教授である。
最近の著書に、「アジアの巨人-中国、インド、日本の台頭」がある。


(翻訳:廣田優子)