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チベットに対するネパール人の視点 ——ネパール人はチベットを支援すべきだ

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(2008年5月18日 ゴルカパトラ・デイリー)

2008年5月18日付ネパール政府公式新聞ゴルカパトラ・デイリーに掲載された、ネパール共産党議員アン・ダワ・シェルパによる記事。彼女は現地語の新聞の論説員でもある。

シェルパ、タマン、ロパ、ヨルモ、マナン、ドルポ、ムクンパ、ギャスムド、トゥンパなどのネパール側のヒマラヤ地域の人々とチベット人は、宗教、文化、精神的指導者、服装、習慣、言語、悟りへの究極的な願望、三宝への帰依を共有している。
地理的・政治的には異なる国の国民であるが、われわれはすべて同じボーティア族(チベット南部・ヒマラヤの高地に住む民族)である。我々の絆を断ち切ることは不可能だ。
隣人が困っていればいつでも、とりわけ隣人が同じ宗教や文化を有しているときには、可能な限り援助の手を差し伸べなければならないというのが人間の本性である。動物でさえ、仲間が他の動物に襲われていれば、集団で叫んだり噛み付いたりなどのあらゆる手段をとって助けるのが普通だ。われわれは動物以上の存在であるはずだ。

今日、われわれはチベットの状況について見聞きしている。わざとチベットの惨状から目を背けようとする人々が買収されているのかどうかは問うまい。しかしまったく無批判にそ知らぬふりを決め込むのならば、私は深く失望し言葉を失ってしまう。

チベット人は独立を要求してはいないということを、われわれは皆明確に知らなければならない。チベット人は、オリンピックのボイコットを要求しているわけでもない。要求しているのは、まさに、民族としての平等な権利、宗教の自由、仏教奨励の自由、古い寺院の修復と新たな寺院の建設、仏教を学び広めるために寺院に所属する自由である。つまり、われわれ仏教徒の同胞が要求しているのは、宗教的・文化的自由なのである。こうした基本的人権を要求しただけで、我々の同胞は、ラサでひどい弾圧を受けているのである。

チベット仏教の存続は、チベットの豊かな文化遺産の存続にかかっている。われわれが中国、チベット、インドの平和と安寧を、そしてわが国ネパールおよび世界の平和と安寧を切望するのならば、仏教哲学に基づくチベットの豊饒な文化遺産の保護のために闘うことが必要不可欠である。別にわれわれは、特定の国を好み援助する一方で、他国を嫌悪し抗議活動を行うというわけではない。わが国自身の平和と安寧に関係しているのである。

国際法によれば、何人にも、基本的人権を希求し抗議活動を行う権利がある。しかし不幸なことに、チベット人は、平和的抗議活動を行っただけで、銃殺され、ひどく弾圧される。抗議運動は制限され、生活も困窮化し、寺院は閉鎖され、何千人もの僧侶や尼僧が拘束され容赦なく殴打される。緊急事態以外の何ものでもない。

ヒマラヤ地域に住むわれわれすべてのネパール人仏教徒は、チベット人の窮境に対し連帯して立ち上がらなくてはならない。隣人が困難に直面していれば支援するというのは社会的責任である。物理的・財政的支援は不可能かもしれない。だが、われわれの憂慮や連帯の表明は、苦痛の軽減にいく分かは寄与するであろう。

さらに述べれば、最近ネパール警察が、スワヤンブ、ボーダ、ジャワラケル地域の崇敬すべき僧侶や尼僧、その他の人々を、チベット人の抗議活動を抑えるためという名目で拘束している。ネパールのヒマラヤ地域住民も、ネパール警察のこうした不法行為に服従せざるを得ない状況にある。住民が、日々の生活をおくるうえでの深刻な嫌がらせである。警察は、政府からの指示があってのことだという声明を誇らしげかつ安易に出しているが、このような声明は、ネパールの国際的イメージを大きく損なう。われわれは、今こそ深い懸念を表明すべきである。

抗議活動が限度を超えれば、抗議活動の現状に応じて、法に則して対処されなければならないというのは当然である。しかし、道を歩いている僧侶や尼僧を手当たり次第に逮捕し続けるならば、インドや世界の多くの地域と同じように、空前の暴力が、わが国でも噴出しかねない。そのような不測の事態がおきるとすれば、警察や政府関連各部局の責任である。

最後に、このきわめて重要な問題を、チベット人と同じ宗教・文化を有するヒマラヤ地域のすべてのネパール国民に問いかけることで締めくくりたい。今こそわれわれ皆がチベット人と連帯して立ち上がるときではないか?

願わくは、仏陀と菩薩がわれわれに正邪を区別する知恵と勇気を賜り、因果応報が実現せんことを。平和と安寧が、仏陀生誕の地であるネパールと世界にあらんことを。