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1956年4月 「西蔵自治区準備委員会」公式に発足


「チベット政治史」(亜細亜大学アジア研究所)より抜粋

1956年4月17日、丙申年のチベット暦3月5日に陳毅元帥がラサに到着した。1週間後、「西蔵自治区準備委員会」が公式に発足した。ダライ・ラマが主任、パンチェン・ラマは第1副主任、張国華は第2副主任、大臣カワン・ジクメー・カプーが書記長になった。委員会は51名のメンバーによって構成されていた。しかし51名のうちチベット政府代表はダライ・ラマを含めて15名にすぎず、残りは大僧院や各宗派、民間の委員会の代表、著名人が11名、昌都解放委員会の代表とパンチェン・ラマ委員会の代表が同人数で各10名ずつ、最後の5席は中国人が占めた。委員会は13の部門に分かれており、チベット各地にその支部が設立された。地方支部は中国人とチベット人各1名の委員によって共同で運営されていた。委員会の唯一の機能は中国当局がすでに決定した事柄を承認することにあり、決定権はないに等しかった。チベット代表は新たな提案をすることも、中国の決定に異を唱えることもできなかった。

ダライ・ラマ以下のように述べている。

委員のうち20名はチベット人ではあったが、彼らは昌都解放委員会と、西部地区に設立されたパンチェン・ラマの委員会の代表たちであった。これら代表たちは主に中国の支持によってその地位を獲得しており、そのみかえりとしていかなる中国の提案も支持しなければならなかった。とはいえパンチェン・ラマの代表より昌都の代表の方が理性的にふるまっていた。この統制された票決の固い壁に加えて、中国委員の5名の票が加算され、委員会は骨抜きとなった。チベット人代表は単なる飾りにすぎず、すべての実権は中国が握っていた。実際、一切の基本的政策は中国共産党チベット委員会なる別の団体によって決定されていた。この委員会にはチベット人は加わっていなかった。私たちはたいして重要でない問題ならば討議することも許されたが、大幅に変更することはできなかった。主任といっても名ばかりの存在であり、私のできることは何もなかった。議事進行が統制され、規定された上、他の委員会ですでに完成をみていた計画が要領の得ない、空虚な討議を経て可決されていく有様を目のあたりにしていると、吹き出したくなるほどであった。こうした会合で私はしばしば決まりの悪い思いをした。中国人たちが自分たちの計画にみせかけだけのチベット当局の権威をつけ加えるために私をわざわざ主任にしたことは私も承知の上だった。