「チベット政治史」(亜細亜大学アジア研究所)より抜粋
1954年4月29日、インド政府と中華人民共和国政府は平和五原則(パンチ・シーラ)の名で知られる協定に調印した。簡単に言うとこの協定はインドにおいては中国通商代表部を、チベットにおいてはインドの通商代表部を設立することを求めており、両国間において通商が行われる場所、交易人、巡礼、官吏のためのルートを定めるものであった。
平和五原則(パンチ・シーラ)はチベットとインドの交易と文化交流の促進のための協定であったにもかかわらず、チベット人はこの協定の埒外に置かれていた。
インド政府の全権大使ネーディヤム・ラガワンは、1954年4月29日付の中華人民共和国外務次官章漢夫宛の手紙の中で、
「自国の政府を代表して、チベットのヤトゥン、ギャンツェに駐屯していた護衛隊を撤退させ、インドが所有するレストハウス、土地、郵便、電報、公衆電話サービスを適当な値段で北京政府に譲渡すること」 |
に同意を与えた。
平和五原則(パンチ・シーラ)の第1条に従いインドはヤトゥン、ギャンツェ、ガルトクに通商代表部を設立、中国もデリー、カリンポン、カルカッタに通商部を設立した。中国とインドの間に交わされた平和五原則(パンチ・シーラ)の中に互いの内政には干渉しないという1項があり、それゆえ中国はインドの感情を気にすることなくチベット内部で暴虐の限りを尽くすことができた。逆にインドは1904年と1914年の条約で手に入れたチベット問題に調停役として入る権利、チベット政府と直接交渉する権利等の特権を失うことになった。平和五原則(パンチ・シーラ)は8年間効力を有するはずであった。しかし時代の流れもあり、更新されることなく1962年7月2日期限切れになると同時に、チベットのインド通商代表部とインドの中国通商代表部は閉鎖された。1954年7月、チベットとブータンの国境上に位置するニェロなる地の小さな湖が決壊した。溢れ出した水はギャンツェ、パナム、シガツェに深刻な洪水をもたらし、何百という人々の命を奪った。犠牲者の中にはギャンツェのインド通商代表部のメンバー、スタッフ、その家族も含まれていた。ニャンチュ河ぞいのかなりの土地や財産が被害にあった。