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1368年〜1644年 明朝皇帝との関係

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チベット亡命政権 情報・国際関係省著「チベット入門」より抜粋

白書は、明王朝が

元王朝に取ってかわり、チベットの統治権も継承した

と書く。しかし、この記述には歴史的な根拠がない。先に述べたように、モンゴルの皇帝とチベット僧との関係は、モンゴルが中国を征服する以前から存在している。そのうえ両者の関係は、中国人が明朝を興す前にすでに途切れている。また、明は元からいかなる対外関係をも引き継ぐことがなかった。その一方で、モンゴルの王(ハーン)たちはその後数世紀にわたり、チベットとの宗教的な結びつきを、往々にしてチュ・ユンの形で堅持したのである。

仮にモンゴルが当時チベットに支配を及ぼしていたにせよ、モンゴル民族唯一の正統国家として現在モンゴルという国が存在するのだから、中国がチベットをモンゴルから継承したなどとする主張は、きわめて厚顔だといわねばならない。

チベットと明の間には、ほとんど接触がなかった。あったとしても、時にライバル同士でもあるさまざまな宗派のチベット僧が個人的に明を訪れ、皇帝から世俗の称号をもらったりする程度だった。僧侶たちの訪明の記録は、15世紀ないし17世紀のチベットの史書にみられるが、チベットが中国に政治的に従属したとか、支配されたとかいう記述はどこにもみえない。ところが中国の白書によれば、

高僧たちがこのように個人的な訪問を行うこと自体、チベットにおける明の主権を物語っている

という。しかしこれら高僧たちは誰ひとりとしてチベットの政治に関わっていなかったため、僧侶たちの訪明がいかなる性質のものであれ、チベットの独立を左右するものではなかった。

1350年以降、チベットはパクモドゥ派[カギュー派の1分派]1族の支配するところとなり、さらに1481年からは実権がリンプン1族の手に移った。パクモドゥ派の王タクパ・ギェルツェンは、1406年、明の皇帝による招待を辞退している。これは取りもなおさず、当時のチベットに主権があったことを示している。1565年から、ダライ・ラマ5世が政治権力を手にする1642年(明滅亡の2年前)までは、ツァン地方の王がチベットを治めた。これらチベット王と明王朝との間には、ときおりの外交関係もあったようだが、やはり明がチベットに対して政治権力を行使したり、支配したりすることはなかった。

1644年、中国の皇帝はふたたび異民族に玉座を追われることになる。満族はみずからの王朝を建てることに成功し、中国を中心とした大帝国を治めることとなった。これが清王朝である。

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