2001年7月15日
オーストラリア(ジ・エイジ オーストラリアの新聞)
3年前、北京が2008年オリンピックの立候補を宣言した時から、中国は目的を達成するため、異常で冷淡とも思える決定を示した。
1993年に行なわれた2000年オリンピック開催地決定の投票で、シドニーが2票差で勝利し、中国の責任者が屈辱的な敗北から学んだことがある。それは、剣をしっかりさやに納めておくことである。オリンピック招致委員会には、流暢な英語を話す中国人がおり、その中にはアメリカ留学中に中国へ召喚され加わった人達もいた。
中国政府は、「スポーツは、政治から分離するべきだ」と呪文のように何度も唱え、オリンピック開催地となることで共産主義のリーダーらが人民の自由を改善するとほのめかし、対立を避けてきた。今週(7月中旬)、モスクワで開かれたオリンピック誘致委員会で、中国は、オリンピック開催中、北京での抗議行動と外国メディアに自由な報道の許可を約束した。どんなに規模が小さくても弾圧し首謀者を刑務所に送るような中国にとっても、IOCが何か文句を言うとなると大変な打撃になったのである。
欧州の二つのPR企業であるベル・ポティンジャーとウェバー・サンドウィック・インターナショナルからの助言に従い、北京オリンピック招致関係者らは、の世界最も汚れた首都である北京を環境の素晴らしい街にするよう焦点を合わせた。二月のオリンピック視察団による専門的な評価訪問は、中国にとって最も難関だった。パリや大阪とは違って、北京には視察団に見せるような施設はほとんどなかったため、代わりにコンピュータ操作によるスタジアムに光を当てる演出と選手の宿舎を見せた。
北京は、すべて用意すると約束し、後に統制と徹底を約束した。視察団の護衛が近づくと、すべての信号を青にし、慢性的な交通渋滞の都市で彼らが混乱しないよう、数百人の交通警察が配置された。視察団が来る前日、約百万人の北京の労働者は、手動で、幹線道路の分割器、高架式交差路、電話ボックス、ごみ箱を洗った。乾いた冬の草は、緑色にスプレーされた。いくつかの工場を選んで操業を停止させ、オフィス街や住宅地にある植物を暖め、汚れた冬の空気をきれいにした。主要道路には、旗、街頭ランプ、プラスチック製の花を生けた数百の花びんを一列に並べ、単調な住宅地の壁は、大急ぎで塗り替えられた。中国政府に批判的な家族は、仮りの住まいに監禁された。警察は都市部から、何千人もの乞食、ストリート・チルドレン、違法商人を取り締まり一掃した。
中国にとっては昔馴染みのサマランチIOC会長によって、北京の勝因は確実なものとなっていった。サマランチ会長は、政治を無視し立候補都市の「実務」に集中すべきだと視察団に指示した。こうして、視察報告書が5月に公表されたとき、北京は「すぐれたオリンピック」を開催し、「中国とスポーツに無類の遺産を残すだろう」と報告された。天安門広場でビーチバレーを実施する計画を止めさせるべきだと指摘した稀な視察官もいた。中国国内では、開催地立候補は古典的な共産主義の大衆向けキャンペーンの中心とされ、同時に恐ろしい不安材料でもあった
2000年が明けた時、共産主義の宣伝幹部は、すべてのエネルギーをオリンピックに向けた。来る日も来る日も全国各地で、中国国旗を形作る何百万人もの学童から、ボールをドリブルする若者まで、新聞は愛国心の強いオリンピック活動について報道した。
新彊からのイスラム教徒だけでなく忠義なチベット人も、オリンピックを祝うために北京にやって来た。「カトリック教会は、北京の成功を神に祈るようミサを開くよう勧められた」と無神論者の立場で中国国営新華社通信社は伝えた。