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中央チベット政権(CTA)、焼身抗議に関する白書を刊行

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(2013年2月2日 CTA

チベットは今なぜ燃えているのか…

チベット亡命政権シキョン(首相)ロブサン・センゲ博士が、チベットで増え続ける焼身抗議の根本的理由を『チベット政策論説書』にまとめ、発刊。

2013年1月28日:ダラムサラ:
この白書は、チベットで今なお増え続ける焼身抗議の根本的理由を考察するものである。
中央チベット政権は、焼身抗議を思いとどまるようチベット本土のチベット人に何度も呼びかけてきた。我々の繰り返しの呼びかけにもかかわらず、痛ましくもさらに多くのチベット人が自身の身体を炎で燃え上がらせ、その数と頻度は警戒レベルに達してしまった。焼身抗議に臨んだチベット人はみな、ダライ・ラマ法王のチベット帰還とチベットの自由を求めている。このような捨て身の行為にチベット人を追い込んでいる原因は何なのか?

その原因は、この60年以上にわたってチベットを支配してきた中国政府の政策の失敗にある。政治的抑圧や文化的同化、社会的差別、経済的軽視、環境破壊に対する憤りが、チベットを変革へと駆り立てているのだ。

これまで焼身抗議に臨んだチベット人の数は98名に上る。そのほとんどが10代または20代前半だ。中国共産党のプロパガンダによれば、彼らは中国のチベット支配によってもっとも多くの利益を得たはずの世代である。しかし中国の華々しい政策は失敗し、新世代のチベット人の気持ちは中国共産党から離れた。その気持ちが、彼らがまだ一度も目にしたことのない、この50年間一度もチベットの土を踏んでおられないダライ・ラマ法王に対する忠誠心の表明へと向かったことは明らかだ。

中国政府がチベット支配の根本的問題の解決に失敗するであろうことは、中国共産党設立に関わったチベット人リーダーたちがチベットに中国体制を敷いた当初から予見できたことだ。1960年代初頭、中国共産党設立に関わったチベット人リーダーたちは、中国共産党支配を激しく非難した。パンチェン・ラマ10世はそれまでだれも持ち得なかった勇気と豪胆さでもって『七万言の意見書』を書き上げ、中国がチベットで行なっている文化的ジェノサイドをやめるよう中国の指導者に訴えた。中国によるチベット支配の本質を痛烈に非難したパンチェン・ラマは、大きな犠牲を払うこととなった。
毛沢東はチベット本土のリーダーであったパンチェン・ラマを「わが階級の敵」と呼び、『七万言の意見書』を「毒矢」として糾弾した。パンチェン・ラマは批判闘争にかけられ、暴力を浴び、投獄され、長い年月を監禁下で過すこととなった。毛沢東が亡くなり、自由の身となったパンチェン・ラマは1989年、「中国共産党支配下となったチベットは、得たものよりも失ったもののほうが大きい」と発言。その数日後に、不可解な、時ならぬ死を遂げた。

チベットのクンブム僧院の僧院長であったアジャ・リンポチェは、中国仏教協会のさまざまな重要ポストに就いていた。1998年、中国側が指名したパンチェン・ラマの認定を迫られるなか、アジャ・リンポチェはアメリカへ亡命した。アジャ・リンポチェは、現代中国史を「三匹の魚」に例えて説明する。「台湾を魚に例えるなら、海で泳いでいる魚です。まだだれも捕まえていません、少なくとも現段階では。香港は、生きてはいますが、中国の水族館に展示されている魚です。三匹目の魚、チベットは、焼かれてテーブルに載せられた魚です。すでに半分食べられています。食べられたのは、チベットの言語、宗教、文化、そしてチベット人そのものです。氷河が溶けるよりも速いスピードで失われているのです」。

中国共産党設立に関わったチベット人として特に知られ、中華人民共和国のリーダーのひとりとされるガプー・ガワン・ジグメは何年も前、党大会の席で、「老いたチベット人のだれもが抱いている最大の願いは、死ぬ前にダライ・ラマ法王にお目にかかることだ。それが叶えば、人生最大の願いを叶えたことになる」と語った。

チベット人が抱いているこの普遍的な願いについては、チベット共産党の創始者ババ・プンツォック・ワンギャルも繰り返し述べている。彼は、中国のトップに宛ててチベット問題について幾度も手紙を書き、「カム(中央チベット)とアムドに住むチベット人のほとんどが、彼らの精神的指導者であるダライ・ラマ法王に会いたいと心の底から願っている。彼らはダライ・ラマ法王を心の拠りどころとし、頼りにし、自分たちのために祈ってほしいと願っている」と伝えている。

チベットで共産党の設立に関わった多くのチベット人有識者や幹部は、中国共産党支配を次のように評する。「最初の10年間(1950−1960)で、我々は土地を失った(共産中国によるチベット侵攻)。10年目からの10年間(1960−1970)で、我々は政治的権限を失った(共産党設立によるチベット旧政府の消滅)。20年目からの10年間(1970−1980)で、我々は文化を失った(文化大革命によるチベットの伝統的信仰の破壊)。30年目からの10年間(1980−1990)で、我々は経済力を失った(漢人の移住により、チベットの労働市場は漢人のものとなった)」。

これは中国のチベット支配に対する純然たる批判であり、これこそが、これほど多くのチベットの若者たちを焼身抗議に駆り立てている理由である。彼らは日々、中国が、チベットの仏教文化や言語、チベット人のアイデンティティーそのものを絶え間なく強襲するのを目にし、体験しているのである。中国共産党がチベットの精神的指導者の指名を企てていることを含め、彼らは中国共産党がチベット人の精神生活に盛んに介入することに強い憤りを感じている。中国政府がダライ・ラマ法王のことを悪鬼の中枢と呼び、僧侶たちにダライ・ラマ批判を強制する政策に対して憤りを感じているのである。漢人がチベットになだれ込み、移住し、チベット人がこなしていた仕事、チベット人が所有していた土地、チベット人の未来そのものが漢人に奪われ、チベットの町が次々とチャイナタウンに姿を変えていくのを、彼らは危機感と恐れをもって見つめている。
強制的に遊牧生活を断ち切られ、常設の住宅に入居させられたことに彼らは憤りを感じている。草原で遊牧民として暮らし、放牧を生活の糧としていたころは家族みな満たされていた。しかし生活の糧を失くした今、家族は貧しい生活を強いられているからだ。
これと同時に、チベットの人々は彼らの土地に大規模な開発の手が加えられていくのを目の当たりにしている。しかし、この開発はチベット人に少しも利益をもたらさない。チベットの天然資源を、天然資源に飢えた中国に運び去ることが目的だからだ。
つまり、中国が欲しいのはチベット人ではなくチベット——これがチベットの人々の目の前で繰り広げられている中国共産党の政策である。


(翻訳:小池美和)