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ラサのチベット人青年による証言

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(2008年5月19日 チベット人権民主センター(TCHRD) 

 2008年3月のラサ騒乱直後の混乱時に逮捕されたチベット人青年による証言をチベット人権民主センター(TCHRD) が入手した。想像を絶する拷問の様子、廊下に苦痛の叫びが響く中、監禁された人々から次々に聞かされる凄惨極める話。この、詳細にわたる数少ない証言の中で青年は、収容所内での監禁生活の様子を語り真情を吐露している。再生された以下の文章は第三者によって書き取られたものを、青年の身元が明かされないよう TCHRD が編集したものである。(*)は記載を控えた部分。[ ]内は追加された詳細、説明、コメントである。

3月(*)日、100人ほどの兵士が私の家に乱入してきた。5つのドアを壊しあらゆる物を物色した。投げ捨てられた物が床に散乱した。彼らはそこに居合わせた人間を誰彼構わず殴った。不法侵入を受け、その上強盗に遭ったようだった。彼らは小銃を携えていて、とても乱暴だった。私は逮捕され両手の親指を後ろ手に固く縛られて連行された。余りひどくきつく縛られたせいで未だに周囲が麻痺している。頭を何度も殴られ、殺されるのかと思った。骨が折れても不思議はないくらい殴られた。しかし彼らは私を殺さず収容所に連行した。それから4日間、投獄されただけで尋問は一切なかった。一日に与えられた食べ物は蒸した饅頭半分のみ。本当にわずかな食物だった。投獄されていた誰もが水を欲しがり、多くの者が自分の小水で渇きをしのいでいた。[拘留者には水が与えられていなかった。]衣類も毛布も、寝具も何もなかった。[コンクリートの床があるだけだった。]とても寒かった。4日間、彼らは我々をそこに放置したまま、話しかけてもこなかった。

昼間は静かだった‥‥ラサの街は昼は何事もなかった。夜11時から[明け方の]5時、6時にかけて何千という人が逮捕された。投獄された部屋で、4、5日してから白湯と蒸した饅頭二個を与えられた。その部屋には(*)人が監禁されていた。本当にひどかった‥‥ひどい話しをたくさん聞いた。腕や足の骨を折られたり発砲され負傷したものが大勢いた。誰も病院には連れて行ってもらえなかった。みんなそこに放置されたままだった。まったく恐ろしい光景だ。21世紀に生きているとはとても思えない。銃で4回も撃たれた少年がいた。傷が一ヶ所はここに[左肩後方から左胸心臓近くまで貫通]、もう一ヶ所はここからここまで[左肘内側から手首にかけて]それからここにも[右上腕に横の傷]。肋骨を折られた人もいた。一人の男性は[右の]目を殴られて内出血して顔が腫れ上がっていた。とにかくひどいんだ‥‥歯を折られたり‥‥ほかにもいろいろだ。本当に恐ろしい目にあったんだ。

食べ物がなかったのは辛かった。ひどい空腹のために人がばたばた倒れた。少年が一人トイレに倒れ込んだ‥トイレも部屋の中にあった‥何もかも同じ部屋の中にあるんだ‥その少年はトイレで顔を打ちあごを切った[あごのラインに沿って横一文字に]。精神的に参っている人たちも大勢いた。初めに倒れたのはそういう人たちだ。ツェタン出身の少年は心の病をもっていて‥とても痩せた子だ‥初めのうち日に2、3度気を失って倒れたがそのまま放っておかれた。

ラサには19の収容所がある。一番ひどいのはゴンシェ収容所だ。ラサの収容所で一番大きいのが タプチェ。チュシュル 県にも一つあるがその二つには誰も収容されていない。外部の人間にはそこを見せるんだ。見せて誰も囚われてはいないと言うんだ。駅に普通収容所はないが、駅の大きな建物を借りてそこを収容所代わりに使っている。その建物と トゥルン・デチェン 県、あとは ゴンシェだ。その三ヶ所に人々は監禁されている。夜になると大型バスで兵士がやってくる。そしてそこから100〜150人が トゥルン に移送される。兵士は口々に「家に帰る時間だ。何も悪いことをしていないのだから家に帰るんだ。」と言いながら、人々をバスに乗せトゥルンか駅の収容所に連れて行った。連行された者たちは秩序なくばらばらに混ぜられ、別の収容所へと移送された。私は直接見たわけではないが、トゥルン では数人の僧侶の頭に布袋が被されていたと友人らが言っていた。僧侶たちはどこかに連行されたまま戻ってはこなかった。殺されてしまったのかもしれない。

私が会った65歳の男性は肋骨を2本折られていて上半身が曲がった状態でうずくまっていた[体を曲げてみせた]。まっすぐに出来ないんだ。瀕死の状態だった。公安官が彼を人民病院に連れて行ったが、あそこでは毎日、公安に暴力を振るわれた人が一人二人と死んでいくんだ。病院に連れて行かれるのは銃弾を受けたか殴られたかした人たちで、大抵そこで死ぬことになる。(*)から来たある姉弟は、ある日突然寝ているところを兵士たちに襲われた。兵士はまるで物みたいに彼らを窓から建物の外へ放り投げたんだ。弟の方は即死だった。そうだよ、建物の外に投げ落としたんだ。それでも姉は死ななかった。横たわる彼女に兵士らは座ることを強要した。弟の遺体はどこかに移され、姉はこの出来事を口外するなと命令された‥これらはほんの一例で、こんな話しがいっぱいあるんだ。

何もしていない人たちも尋問を受けた。何もしていなくてもチベット人であるというだけで有罪になった。チベットにはたくさんの県があるが各地から人々の安否を気遣って公安に問い合わせがあった。彼らが見せられたのはラサ以外のいろいろな場所‥空の拘置所など都合のいい場所だけだ。(*)寺の僧侶たち、家族や友人、未だに居所のわからない者が大勢いる。

ラサには兵士はいないと言われているがあれは嘘だ。みんな民間人を装っていてチベット人を監視しているんだ。

私はチベットで今何が起きているかを話したい。みんなに知ってもらわなければ‥自分は何をされても構わない。でも家族は無事でいて欲しい。何も悪いことはしていないんだ。

『仲間が密告したために、お前はここに連れてこられたのだ』と収容所の監視人に言われた。私にも(*)寺に友人がいるが死んでも仲間を売ったりはしない。

真新しいジャケットを身につけたダデシェ [おそらく康定県]出身の男性がいたが、彼はジャケットを剥ぎ取られて殴り殺された。このジャケットは盗んだに違いない、と言われて。そうなんだ、新品のジャケットを着ていたために彼は殺されたんだ。

Sauko の高校生も大勢いた。17歳の学生は[3月]14日の抗議行動には参加していなかったが拷問を受けた。彼は服を脱がされ手を縛られて荷車で轢かれた。ありとあらゆる拷問がある。後で彼が言っていたが、やってもいないことを強制的に自白させられたらしい。多くの人がそうやって嘘の自白を強要されるんだ。収容所で死んだ人を目にすることは無かったが、『死人が出た』と公安や兵士を呼ぶ声を毎日聞いた。ゴンシェには9棟の建物がありそれぞれに11の部屋があった。一部屋に20〜30人が監禁されていた。ある日、『何人位のチベット人が逮捕されたか』という問いに対して、ある中国人が、一万人弱だろうと答えるのを聞いた。しかも そこにはデプン、セラ、ラモチェ、ジョカンからの人たちは含まれていないらしかった。我々が釈放されると、彼らは僧侶たちを逮捕した。収容所を出てから聞いたのだが、デプン寺で多くの逮捕者が出たらしい。私は4月(*)日に釈放された。

釈放前にラモチェの僧侶に会った。僧侶たちのことは本当に心配だ。兵士らの僧侶の扱いは格段にひどい。デルゲ県の僧侶は指が湾曲していたうえ、片目が完全に失明していた。我々なんかよりももっとひどい拷問を受けたんだ。本当にどうして僧侶たちにあんなひどい仕打ちをするのかわからない。ひどすぎる。

同じ収容所にいた(*)からの少年の話しでは、ラサのラモチェの近くに住む彼の友人二人は、銃撃に遭い負傷したそうだ。一人は21歳の青年‥‥名前は忘れてしまったが‥‥彼は尼僧院に運ばれたがそこで亡くなった。もう一人は20歳の青年で病院に収容されている。彼ももつかはわからない。ガンス通りで撃たれたらし い。

ラサ近郊の アニシム(Anishim) から来た少年の友人二人も銃弾を受け亡くなっている。二人は兄弟で、どちらかが18歳。ペンポの出身だ。ゴンシェの収容所にはペンポ出身者が大勢いた。

昼間は本当に静かなんだ。何もかもが夜に起こった。すべてが内密に進められた。デプンやセラ、そして例の駅とは電話は通じなくなっている。駅にはたまに繋がることがあるが、それも稀で、基本的に誰も連絡がとれない状態だ。

インドにいる親類に、インターネットを使って私が見聞きしたことを知らせようと思った。ワードを使って何行か書き、セーブしたところで突然書いたもの全てが消えてしまったんだ。とても怖かった。海外に大勢友人がいてメールを送ってくれても、それを開くことができなくなっている。

中国当局は、外見上何事もないように装ってはいるが、現実は極めて悲惨だ。彼らは事を荒立てておいてそれを我々の仕業に仕立て上げようとしている。ラモチェでは抗議行動が起こらなかったにもかかわらず寺という寺が何千という人民軍の兵に包囲され、軍の車が監獄のように門を閉鎖した。もうこれ以上我慢は出来ない。人は寛容であるべきだが、これ以上寛容にはなれない。我々に人権はない。ここにあるのは文化的ジェノサイドだ。‥‥それは大きな図だ。もっと細部をみてみよう。例えばラサの街。一体何人のチベット人が北京路や ゲンシュ路のような大通りで商売をしているだろう?チベットのラサなんだ。中国の話しじゃないんだ。チベット人には生きていく資格もないのか?大都市で教育を受けた中国人たちは我々より有能だろう。経験もあれば資金もある。それに比べてチベット人は地方出身だ。農民だったり遊牧民だったり。お金だってない。そういう人間がどうやってラサで商売をやっていけるだろう?中国人が道のあちら側で商売をするなら、なぜこちら側で商いをさせてもらえないのだ?バランスがとれるというものではないか。能力も教養もあるチベット人だって大勢いるのに起業する資金がないのだ。裕福なチベット人は北京や上海にしかいない。しかもそれもごくわずかだ。

私はチベットでチベット人がどのように生き、そしてまた中国人がどのように生きているかを見て知っている。チベット人が優遇される必要はない。しかし調和が必要だ。

中国政府から年金をもらって生活している老いたチベット人がテレビで同じチベット人の悪口を言わされているが、おかしくて笑ってしまう。海外にはチベット人の人権のために闘っている人たちが大勢いる。とても心強いことだ。私は家でもっといろいろと学びたいと思っているのにそれが出来ないのがとても悔しい。テレビで流れるのは嘘ばかりだ。本当に胸が痛む[胸を指差す]。

通りを歩いていると兵士がやってきて身分証明の提示を求める。『どこの出身だ?』と聞かれて少しでも間違えればもうおしまいだ。写真と顔を照らし合わされる。中国人なら[証明証なしで]パスなのに。

以前は最高の場所だったのに、今では牢獄のようだ。ラサがこんなふうになってしまうなんて。収容所に監禁されていた時、チベット人の公安官が親指を後ろ手に縛られている私に『ここに跪け』と命じた。その男は私の前[の椅子]に座ると私の頭を足で押さえつけ、額を蹴った。それから頭を後ろに反らせると顔を何度も何度も殴った。男の顔を見たがとても悲しかったよ。彼はそれでもチベット人なんだ。それ以来、その男を何度も見かけている。何人もの中国人やチベット人が私に馬乗りになって殴ったり蹴ったりの乱暴をはたらいたが、顔を見られたくないから人の顔をねじ曲げながらそういうことをするんだ。人の目を見ながら面と向かってひどい仕打ちをする‥‥こんなひどいことはない。

これは私にとって経験だ。学ぶことはたくさんある。監禁されている時に何度か食べ物の夢を見て、家の食事のことを思い出した。母と姉の作る食事。匂いまで思い出した。その時家の食事のおいしさを本当にありがたいと思った。食事を終えて『まあまあだったね』なんてよく言っていたけれど本当はとてもとてもおいしかったんだ。こんなに残酷で悲惨な経験をしたことはなかったけれど、それでもそこから学ぶことはある。よりよい人間になることができる。たまに(*)の子どもたちが学校の勉強をさぼっていたりすると怒鳴ったり叩いたりしたのだが、今では声を荒げるだけで心が痛む。いろいろ学んだんだ。

チベット人がどんどん減っていくのがとても心配だ。多くの人たちが命を落とし、そうでなければ手足を折られて不自由な体にさせられている。ひどいことだ。私がそうだったように逮捕され監禁されている人たちもいる。収容所に監禁されている人たちのことは決して頭から離れない。あのひどい状況‥‥わずか16、17歳の若者が始終泣き叫んでいるんだ。悲惨だ。手足を折られた人たち、銃弾で傷ついた人々‥‥彼らの青白い顔‥‥悲しみで胸が張り裂けそうだ。