2002年5月1日 チベット人権民主センター
下院議員人権会議の皆さま方の前でお話させていただく機会をくださいましたことに深く感謝申し上げたいと思います。
私自身がアメリカを訪れチベット人を代表してお話をするときがくるとは思いもしませんでしたが、私たちチベット人は、アメリカ、そして議員の皆さまから必要とされる多くの支援を長期にわたっていただいてまいりました。
私は特に、1988年から1992年にチベット自治区の共産党書記長の任務についていた胡錦濤中国副主席のアメリカ訪問中に、私の主張をお伝えすることができることに感謝しております。胡錦濤副主席の野心が叶うとしたら、それは、彼が中国の次の指導者となることを意味しております。そのとき彼は、自分がチベットでしてきたことを、責任を持って対処する立場に立たされることになるのです。彼が、チベットの党の指導者として在職していた間に収監され今なお刑務所に拘留されている政治犯を釈放することを祈っております。
アメリカ議会がチベット政治犯の問題を中国当局に繰り返し訴え続けた結果、今年になってンガワン・チョペルとタナク・ジグメ・サンポの2人が釈放されました。私は、ラサのダプチ刑務所の旧第3棟で私と一緒に、胡錦濤の権限に基づいて拘置されていた尼僧の名前をお伝えしたいと思います。そして、彼女たちの自由を確保するためにご尽力くださいますよう謹んでお願い申し上げます。
プンツォク・ニードォルとナムドル・ラモは健康をひどく害し、刑務所での殴打や拷問により精神的に大きな損害を受けています。テンジン・トゥプテン、リンジン・チュンニー、ンガワン・チョンゾム、ンガワン・チューキはみな病気で苦しんでいます。ジグメ・ヤンチェンは、突発性不安と恐慌発作にしばしば見舞われています。ンガワン・ツァムドルとンガワン・サンドルは、殴打され続けた結果、頭部に損傷を負っています。
ンガワン・サンドルは、私が所属していたガル尼僧院の出身で1992年に15歳で収監されましたが、彼女が刑期を終えるまで存命であったとしても、32年間を刑務所で過ごすことになるのです。
私自身の身の上で起きたこと、そして刑務所で経験したことは、彼女たちとほとんど同じです。私は14歳のとき、尼僧となる決心をいたしました。それまで、私は実家の農作業を手伝い、家畜の面倒を見ていました。尼僧院では、家屋の改築や修復、あるいは、現地の当局による政治教育の授業にほとんどの時間を費やしていました。このような授業では、チベットが中国によって「解放」されたこと、そして、かつて後進的で迷信に満ちた社会であったチベットを多くの点で改善したのは中国政府であることを教えられました。
こういった内容を聞かなければならないこと、そして彼らの主張を機械的に繰り返さなければならないことは非常な苦痛でした。私は心の中で、中国政府がチベット人をどのように操っているかを理解し始めました。チベットでは、僧、尼僧は特に迫害されますが、一般人も弾圧の対象となります。チベット人の人権、ダライ・ラマ法王猊下、あるいはチベットの独立に関して勇気を奮って発言したものは刑務所へと送られます。小冊子を配布したりポスターを印刷し貼ったりしようとする人間もいますが、このような行動に対する刑罰は厳重で、こういった政治活動を行った嫌疑がかけられただけで逮捕されてしまいます。
1994年3月25日、スローガンを訴え抗議活動を行うために、私はほかの4人の尼僧と共にラサへと赴きました。私たちは警察に直ちに捕らえられ、グツァ拘留センターへと連行されました。私は、チュンニーが説明したのと同様の扱いを受けました。また、釈放される前には血液の採取まで行われました。
1994年11月、「国家安全を脅かした」という理由で私は懲役5年間を言い渡され、13人の尼僧と共にダプチ刑務所へ連れていかれました。私は、女性政治犯用の「旧」第3棟に収監されました。この棟には、1989年以来拘置されている尼僧たちの姿がすでにありました。
1996年4月、「旧」第3棟のすべての囚人であるおよそ100人の女性政治犯は、ダプチでの無慈悲なまでの殴打、そして過酷な扱いに抗議してハンガーストライキを行うことを決めました。私たちは、いかなるものも飲食することを拒絶しました。1週間後、刑務所の役人たちはこのハンガーストライキに非常な危機感を抱き、国家に与える悪影響を心配するようになりました。彼らは私達に、ハンガーストライキを止めさせるための医療施設があると警告し、これ以上続けることなく断念するよう命じました。また、ハンガーストライキを中止したなら、殴打や拷問を止めることを約束しました。私たちがこの申し出を拒否したところ、彼らは無理やり私たちの口に水や食べ物を押し込みました。体調を悪くした尼僧には、点滴による栄養補給がなされました。しかし、殴打や拷問は、ハンガーストライキの前とまったく変わることなく繰り返し続けられました。ンガワン・サンドルは、ハンガーストライキの首謀者であると非難され、その結果、刑期が8年間延長されることになりました。
チュンニーが説明しているように1998年5月1日に私たちがデモを行った後、当局は自分たちのやり方を変えようとはしませんでした。5月4日の国際児童節には、信じられないことに彼らは、初回より数ははるかに少ないとはいえ、囚人たちを中庭へと連れ出しました。 ここでも、囚人たちは役人の企みに加わることを拒否しました。私が拘置されていた棟の全員は独房に監禁されましたが、何が行われていたかは窓を通して見聞きすることができましたので、私たちは直ちに窓を叩き壊しました。私たちは、中庭にいる仲間を応援するためにスローガンを叫びましたが、殴打が続けられるのを目の当たりにしたときには嘆き悲しみました。
1999年5月24日、ドラプチ刑務所での5年間が過ぎた後、私は刑期を終え釈放されました。ペンポにある自宅に戻ると、家族全員の生活が成り立たないほど、私、そして家族の自由が極端に制限されていることに直ちに気付きました。私はまた、チョンニーが置かれている状況を知りました。私たちは、家族や親族に気付かれないように、チベットを去る計画を立てました。ペンポから移動するのに必要な許可を取得するため、私たちは治療を受けるためにラサに行く必要があると当局に説明しました。ラサでは、導いてくれる人の援助を確保することができました。
刑務所から釈放された1年後、私の心は説明できないほど満たされました。私は、チベットからのすべての新着者と同様に、ダライ・ラマ法王猊下に謁見することを許されました。申し上げるまでもなく、故郷を後にしなければならなかったのは非常に悲しい出来事ですが、法王猊下の、「インドでは、自由な民主主義国家での生活を送ることができ、恐れを抱く必要もなく、自由に信仰を深めることができる」というお言葉は、私たちを非常に勇気付けてくださいました。
チュンニーと私はダラムサラで暮らしています。彼女は、ダライ・ラマ法王猊下の僧院であり御邸宅である場所からわずかに歩いたところにあるガンデン・チョーリン尼僧院にいます。また私は、サラ・スクールで宗教研究の講座の準備を進めています。私は、皆さま方がダラムサラでチベット人が生活を営んでいる場所を訪れ、信仰の自由が私たちにとって意味するものをご覧になられることを願っております。また、チベットを訪れ、信仰の自由が存在しないことが何を意味するのかを確かめられることを願っております。
私の同胞たちの窮状を証言する貴重な機会をくださいましたことに、もう一度、心からのお礼を申し上げます。私は、ほんの少女であった頃から、アメリカが自由を愛しチベットを支援してくれる国家であると聞かされてきました。アメリカ政府が中国政府との対話により、チベット人を助けチベットに自由をもたらしてくださることは、チベット、そして亡命社会在住のすべてのチベット人の願いです。
どうか、刑務所で不当な扱いを受け続け苦しむすべての人たち、とりわけ、私が本日名前を申し上げた尼僧たちの問題を取り上げてくださいますようお願い申し上げます。