2023年6月4日
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インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ
今日はチベット暦4月、サカダワの主要な日である満月の日で、チベット人が迦牟尼仏陀の誕生と成道を偲ぶ日である。ダライ・ラマ法王は、お祝いの説法をするために法王公邸の門からツクラカンへと歩いて向かわれた。中庭の中央を上がり、集まった人々に手を振っては挨拶をしながら右に左にと歩かれた。
法王はツクラカンに到着すると、法座の右側および最前列に座っていた上座部(テーラワーダ)の僧侶たちに挨拶をされた。法王は、法座に向かう階段から合掌し、しばし黙して釈迦牟尼の仏像に祈りを捧げられた。法王が着座されるとチベット語で『般若心経』が唱えられ、続いてマンダラ供養が捧げられた。そしてお茶とパンが配られた。
法王は次のように話し始められた。
「仏法の絆で結ばれた兄弟姉妹のみなさん、今日は私たち仏教徒が、釈迦牟尼仏陀が悟りを開かれたことを偲ぶ日です」
「“仏陀たちは有情がなした不徳を水で洗い流すことはできない、その手で有情の苦しみを取り除くこともできない、自ら得た理解を他者に与えることもできない、ただ、真如という真理を示すことで有情を救済されている” と言われています」
「釈尊は、慈悲の心に突き動かされ、有情を苦しみから導くために教えを説こうと決意されました。そして、無数の劫を数える長い間、有情のためになることのみを考えて、最終的に悟りを開かれ、苦しみは原因と条件によって生じると説かれました。それらの原因と条件は、創造神のような外的要因とは関係なく、有情のかき乱された心から生じます。私たちは執着や怒り、憎しみに支配されがちで、そのために悪い行いを為して、苦しみを生むカルマを作ってしまうのです」
「すべての事物は単に名前を付けられたものに過ぎず、それ自体の側から独立して存在してはいないのに、それ自体の側から存在しているかのように現れてしまうため、私たちはすべての事物はその自性によって存在しているという考え方にとらわれています。つまり、間違った考え方にとらわれているのです。そこで釈尊は、有情がこの間違った考え方を正すために、苦しみを知り、その原因を断ち、正しい修行道を歩むことによって、苦しみの止滅を実現しなければならない、という四つの聖なる真理(四聖諦)を説かれました」
「釈尊はまた、苦しみは様々な異なるレベルで生じ、それは苦痛に基づく苦しみ(苦苦)、変化に基づく苦しみ(壊苦)、遍在的な苦しみ(行苦)であると説かれました。苦しみの直接的な原因と条件は、私たちの誤った行いと煩悩にあります。あらゆる現象は固有の実体を持って存在するという間違った考え方が、私たちの煩悩の根底にあるのです。それに対して、釈尊は、いかなる現象も固有の実体として存在することはない、と説かれました。この理解は対治として機能し、理解すればするほど煩悩は軽減されていきます」
ここで法王は、『心を訓練する八つの教え』を取り上げると、私たちの多くはプライドや傲慢さを抱えているが、このテキストは、自分を他者よりも優れているなどと見なさないようにアドバイスしている、と指摘された。第2偈には、“誰と一緒にいる時でも自分を誰よりも劣った者とみなせますように” とある。他の人も私たちと同じであり、欠点もあるが、だからといって否定したり見下したりする理由にはならないと指摘された。自分は他の誰よりも劣っていると思えば、より大きな資質の種を蒔くことになり、謙虚さは高い境地につながる。
次の偈は、「煩悩に真っ向から立ち向かう」ようにとアドバイスしており、仏陀とその後に続く偉大な導師たちは、否定的な感情を克服する方法を示されている。
ここで法王は次のように述べられた。
「仏教がチベットに伝わった後、サキャ派、ニンマ派、カギュ派、インドの偉大な導師アティーシャの弟子たちによるカダム派など、様々な伝統が生まれました。カダム派の導師たちは、その謙虚さで有名でした。その一人がこの『心を訓練する八つの教え』の著者であるゲシェ・ランリタンパで、面長のランタンとして知られ、有情の窮状を見て常に涙していて、菩提心を育み、他者の役に立ちたいと決意していたのです。私は毎日、『心を訓練する八つの教え』の偈を唱えています」
「第3偈にあるように、何をしていても、どこにいても、否定的な感情や煩悩が生じたら、それに対抗してください。他者があなたを批判したり罵倒したりしても、報復しようとは思わず、相手に勝利を与えてください」
「第6偈には、誰かが自分をひどい目にあわせたとしても、その人を聖なる師とみなすようにと書かれているのは、その人に対して怒りではなく、思いやりの心を持ちなさいということです。中国には私を批判し、チベット文化を非難する共産党の指導者たちがいますが、それは無知で、近視眼的かつ偏狭な考えからそのような行動をとるのであって、私は彼らに憐れみを感じます」
「第7偈には、“有情の被害と苦しみをみなひそかに私が引き受けることができますように“ とありますが、これは、心の中で静かに相手の苦しみを引き受け、相手に幸せを与えるというトンレンの実践に慎重に取り組むことを指しています。最後に、第8偈は “すべての現象は幻のごときものと知って、執着を離れ、束縛から解放されますように“ と結ばれています」
ここで法王は、次のように訊ねられた。「仏陀になる主な原因は何でしょうか?それは菩提心です。菩提心をもとに、釈尊は三阿僧祇劫という無限に近い時をかけて功徳と智慧を積まれました。つまり、菩提心によって釈尊は悟りを開かれたのです。私たちも菩提心を主な実践としなければなりません」
「私は朝起きるとすぐに菩提心を生起するのですが、私の目にもよく涙が溢れます。釈尊の最も重要なメッセージは菩提心を育むことです。そのポイントは、単に煩悩を克服することではなく、修行道の終着点に到着することであり、悟りを開くことなのです」
「菩提心があれば、心が安らぎます。怒りや憎しみ、嫉妬がしずまり、その結果、リラックスしてぐっすり眠れるようになります。観音菩薩を信仰している人は、自分の頭頂に観音菩薩を思い浮かべて、観音菩薩のような資質を育むことを願うと、安らかに眠りにつくことができます」
「釈尊は、四聖諦、般若波羅蜜(完成された智慧)を説かれましたが、釈尊のすべての教えのエッセンスは菩提心です。もし今日、釈尊が私たちの前に現れたとしたら、そのアドバイスは同じで、菩提心を育むことだとおっしゃるでしょう。私たちはみな幸せになり、苦しみを避けたい、乗り越えたいと願っています。それを実現する方法は、菩提心を育むことです。虚空に広がるすべての有情の幸せを願い、すべての有情のために仏陀になることを志すのです」
ここで法王は、受者たちを導いて正式に菩提心生起の偈を3回繰り返し唱えられた。
仏陀・仏法・僧伽〔の三宝〕に |
法王は、次のように述べられた。
「釈尊は私たちの先生です。釈尊には仏性が備わっていたからこそ、修行道を修め、完全に目覚めた存在になることができました。仏性は私たちにも備わっています。私たちも学びと実践を通じて、あらゆる障害を乗り越え、釈尊のように悟りを得ることができます。菩提心を着実に育くんでいけば、私たちの人生は価値あるもの、有意義なものとなり、心が安らぐことでしょう。今日はここで終わります」
経頭が、感謝のマンダラ、護法尊への祈願文、『仏教繁栄のための祈願文』、『真実の言葉』など多くの祈願文の読誦を先導した。
法王は、法座から下りて檀上の端まで来ると、ジェ・ツォンカパの『菩提道次第広論』の末尾の偈を三度唱えられた。
仏陀の教えが広まっていないところと |
法王は、これに続いて『真実の言葉』の祈願文の最後の2偈を唱えられた。
要約すれば、守護者観世音菩薩が 現われと空という深遠なる縁起のありようと |
最後に法王は、ツクラカンから法王公邸に向かって歩きながら、笑顔で聴衆に手を振りつつ、最後の1偈を繰り返し唱えられた。
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