オブザーバー
1953年、エドモンド・ヒラリーの世界最高峰登頂に同行したシェルパ、テンジン・ノルゲイはネパール人と信じられていたが、実はチベット人だった。
一冊の本でその真相が明らかになった。
エレベストの山麓で父が飼っているヤクの放牧の手伝いをしていた若者、テンジン・ノルゲイがシェルパ、つまり登山ガイド兼助手として1953年にエドモンド・ヒラリー卿と共に初のエベレスト登頂に成功するというストーリーは、登山に関するなかで最もロマンある伝説の一つに挙げられている。
しかし、ヒラリーと他の探検隊長、ロード・ハントはそのシェルパの若者がネパールの山村出身だと信じていた一方、アメリカ人の登山家エド・ウェブスターはテンジンがチベットで生まれただけでなく、幼少期のほとんどをチベットで過ごしていたと主張している。全世界で名高いシェルパは、実は本当のシェルパ(この場合シェルパ族)ではなかったというのだ。
1986年のテンジンの死後においてもこの事実は、今だ刺激的な事実な故に公にできなかった。というのも、登頂後の彼の身を保証していたインド政府の名誉を辱める恐れが少なからずあり、この事実が最初のエベレストに登頂した「中国人登山家」という中国の政治的宣伝力になりかねないという恐れがあったからである。だが今、ウェブスターはテンジンの肉親からの許可を得て彼の真の出生を明らかにする。
テンジンの生涯については曖昧なものが多い。ゴーストライター、ラムセイ・ウルマンによるテンジンの自伝、「雪の虎」の中で、ウルマンはテンジンの幼少期に関する事実を自己認識しながらも曖昧に語っているが、彼はネパールのテイムという地域のとある村で生まれたと書いている。事実、彼の両親は経済的困難とチベット人の地方役人への借金がもとで、1920年代初め頃にテイムに移住している。
しかしながら、テンジンは自分の出生地について自ら具体的な事を口にしているー「私はエベレストから約一日歩いたところにあるマカル山近くのツァ・チュという所で生まれた」
テンジンはまた自分が生まれたとき、母親はガンラにある僧院近くに向けて巡礼の旅の最中だったと説明している。
1953年にエベレストに登った際、当時、テンジンはインドに住んでいたのだが、カトマンズにあるネパール政府から地元の英雄とされ、脚光を浴びた。ネパールはインドによる政治支配を恐れ、またテンジンを現代において世界的名誉を得た最初の貧民層出身のアジア人として主張することで両国そのものに例え、彼に強力な宣伝価値を見い出した。彼自身の出生公開に対する警戒は一部、こういった政治論争が背景にあったといえる。
「エレベストに登ったあと、テンジンはイギリスに招待されたが我々は動けなかった。というのも、彼がパスポートを持っていなかったからだ」とヒラリーは語っている。
しかし、時のインド首相、ネールが介入して個人的にテンジンを保証し、インドのパスポートを発給することでこの危機はまぬがれた。だが一方、ネパール当局は最後まで許可を認めようとはしなかった。ネールはテンジンの後援人となり、ダージリンで登山学校の設立を認定し、彼はその運営をまかされた。政治的配慮から、テンジンは自分を「ネパールの母体から生まれ、インドの膝もとで育った」と語ってきたが、それは事実からかなりかけ離れている。
今、その事実がウェブスターの著書、「王国の雪」のなかで明らかにされた。1988年、テンジンの故郷のモユン村があるチベットのカルタ渓谷を通過して、めったに訪れることのなかったエベレスト東側の探検について書かれてある。その探検隊のなかにはテンジンの長男ノルブがおり、1930年初期にテンジンがダージリンに移り住み、そこのシェルパの村で生まれた。多くのシェルパのようにノルブは父の秘密すべてを知り、チベットを訪れたとき、兄弟のタシを含めて久しく離ればなれになっていた親類に出会い、テンジンの出生地の謎をも解決することができた。ウェブスターはこう語る。
「もしテンジンがチベット人であるという真実を告白していたら、彼の国籍に関する問題は大きくなり、インドをがっかりさせていただろう」
「何人ものシェルパが彼をペテン師とか社会的、文化的劣等者だと馬鹿にしたというのも予測できる」
「テンジンの三人の妻はすべてシェルパ族であり、ダージリンとクンブの地で権威ある英雄だった」
「テンジンはとても繊細で人の良かった男だと私は信じている」
「彼自身の執筆物が彼の性格を物語っている。テンジンは、一度も家族の出身地について平然とうそをついたことはない。だが、全部の真実を語ったこともない。おそらく、自分はただ一介の登山家であって国籍は関係ないことだと信じていたのだろう」
1988年に行なわれた探険でウェブスターは、チベットのカマ峡谷の高台に位置するガンラの僧院をナムダッグ・リー・ポダン、「純粋なる神の宮殿」だと確認した。この地域はチベット仏教信者にとって大変神聖な土地とされており、争いや干ばつが起こったとき彼らは「天の避難所」として敬っていた。「ツァ・チュ」(より正確に言うと「チェ・チュ」)にはガンラからさほど遠くない僻地にもう一つの聖地がある。僧院の周辺に住むヤク放牧者らはエベレストの見事な景色を独占し、テンジンが子供のころ何度か夏の間をそこで過ごしたことは間違いないだろう。家族の家と僧院は1950年の中国侵略によって破壊されていた。皮肉なことに、シェルパ族の人々はエベレストから千マイル以上も離れたところにあるチベット東部にあるカムに起源をなしており、六世紀にネパールに移動している。彼らはネパールの人口、2千2百万人のうち、数千人にすぎないが、登山に対する彼らの貢献は世界的にも有名である。シェルパ族の故郷がエベレストの南側、ネパールのソル・クンブ地域と考えられていながらも、当のシェルパ族は常に国境を超えてチベット人との間で文化や経済的に強いつながりをもっていた。
テンジンのいとこで有名な高僧の生まれ変わりである僧侶のガワン・テンジン・ノルブはチベット側にあるロンブクとネパール側にあるテンポチェに僧院を設立した。彼はまた「幸運な信仰を守る人」という意味の名をテンジンに授けた。シェルパ族を登山ガイド兼助手として雇うという登山家の伝統は20世紀初めにダージリンから発祥した。丘の男らが最もたよりがいのある、体力的にも申し分のないポーターであることはすばやく証明された。
とびぬけて優れているポーターは「虎」と呼ばれ、メダルを獲得した。登山観光業が儲かると判明すると、多くのシェルパ族はエベレストの周辺からインドへと移っていった。それゆえ、1949年までネパールはほとんど全てのヨーロッパ諸国と結びつきが強かった。テンジンの両親は新天地クンブで新しい人生を始めるために大変努力したが、テンジンにとって、ダージリンは彼に金銭的に成功する機会を与えた。
だが、その地で西洋登山家にポーターとして彼の知名度を高めようしたことによって、最初の数年は逆に金銭的な問題に悩まされたのだった。父の死に目にもあえず、1952年になるまでネパールのクンブにいる母に会いに戻ることもなかった。彼に突然訪れた名誉のニュースがチベットの彼の故郷に届いたとき、「今まで会ったことも聞いたこともない親類までもが名乗りを挙げてきた」ことに彼は圧倒されたのだった。
いまやシェルパ族は、エベレストを目指そうとする西洋人を相手に年間何千ドルも稼いでいる。しかもネパールの観光業の開放化によって、もはや彼らは仕事探しのためにダージリンヘ移住しなくてもよくなった。一人当りの年収が平均200ドルという国で数多くのシェルパが金持ちになった。観光客がテンジンによって一躍有名になった地に殺到したことで環境問題を引き起こす原因になったのだが、また逆に中国のチベット侵略によって生じた経済的困難を和らげる手助けにもなった。
1950年のチベットへの侵攻後、中国はさらにチベット人が住むネパールのクンブ地方の主権を主張。中国は宣伝価値のために多くの中国チベット間の探検隊をエベレストに登らせ、いまだエベレストへの接近をコントロールしている。 「中国政府は テンジン出生の宣伝価値をよく理解しているはずだ。彼等はチベット内における中国の主権圧力のチャンスを無駄にしたことがない」とイギリスに本部を置くチベット・インフォメーション・ネットワークのケイト・サンダースが本紙に語った。おそらく、ウェブスターのもっとも興味をそそる主張はテンジンが7歳だった頃、1924年にエベレストで遭難して昨年遺体が発見されたジョージ・マローリーに出会ったであろうということだ。
登山家のガイ・ブロックが書いた日記によると、1921年8月のエベレスト初探検のあいだ、マローリーはテンジンの家族が使用する夏の牧草地を通過してエベレストの東側の山麓に向かう前にテンジンの故郷の村で一晩を過ごしていたという。
世界一高い山頂からの長い尾根は、元は1856年にインドの測量調査によって世界一高い標高とされ、「ピーク15」と称された。そして調査隊長のアンドリュー・ウォー大佐が前任者のジョージ・エベレスト卿に敬意を表するために「エベレスト」と提案された。
明らかにエベレストは「エヴェ・レスト」と、こう発音された。それゆえ私たちは135年ものあいだそう呼び間違え続けてきた。だがチベット人とシェルパ族は昔から「チョモランマ」と呼んでおり、テンジンの母が「高すぎていかなる鳥も超せない山」と言っていたが、一般的に「母なる大地の女神」と訳されてきた。
エベレストの正式な高さは今だに論争になっている。アメリカの科学者が1999年11月に海抜八千八百四十八メートルと発表したが、実は発表された規定の高さより二メートル高い、八千八百五十メートルが正式な高さであった。五十三年五月二十日にエドモンド・ヒラリーとテンジンによってはじめて南側のコルを通過し、それ以来、千三百回以上にわたる登頂と百七十人以上もの死者を出してきた。昨年、百三十人が登頂に成功し、そのうちの八十人が南側のコルを利用し、シェルパのバル・チリがベースキャンプから十六時間五十六分という早さで登頂に成功した。
エベレストに登山者が詰め掛け、多くのキャンプ地と使用済みの固定ロープのゴミが散在している。フランス人登山家シェリー・ルノーは息子のへその緒を頂上に納め、アメリカ人登山家がそこでカウボーイの格好をしてロデオの投げ縄を演じるなどして、いまやエベレストで珍事が行なわれるまでになった。