2002年1月26日
ムンバイ(タイムズ・オブ・インディア)
「蜂がいることに気付いていない !」近くで誰かが叫んだ。数秒後、私を含む集まった人間たちは叫び手を振り、彼の注意をひこうと躍起になったが、そう簡単には行かなかった。その若い男は、私たちの頭上にそびえる巨大なクレーンを登りきろうとしていたので、その位置があまりに高すぎて私たちの声は届かなかったのだろう。いずれにしても、私たちの方を見てはいなかったので、手を振る姿が目に入ることはなかった。問題だったのは、見上げることもしなかったことだ。彼が上を見ずこのままの状態で登っていくなら、蜂の巣にあっという間に衝突してしまうのは明らかであった。そんな高く危険な場所で、腹を立てている何千もの蜂と衝突した結果がどうなるか、想像すらしたくない思いであった。
幸いにもその若い男は、私たち、または蜂の巣、あるいはその両方に同時に気付いた。彼は、蜂の巣を上手に避け、さらに上へと登っていった。十分に高いと感じたところに到達すると、大きな青色の旗を丁寧に広げ、そのさおをクレーンの支柱にくくりつけると、私たちに向かってこぶしを突き上げて見せた。彼自身も支柱にしがみついている間中、私たちからは様々な歓声が湧き上がっていた。私は、初めてではない質問を自分に尋ねていた。この若い男が、昔、誰かがやったのと同じように、このようなクレーンを登った理由は何なのだろう?
私たちがいた場所は、ナルマダ川の支流であるマン川で建設中の、マディヤ・プラデーシュ州のマン・ダムであった。それは、私が自分のコラムである「ダムの上流では」で描いたこのダムを「占拠」した 2001年3月のことだった。夜明けとともに、数百人もの男女、そして子供たちが近隣の村々からダムへと集まってきた。彼らの家のほとんどは、このダムに水没する運命であった。彼らはその日、建設工事を行わせないことを決心し一日中座り込み、ダムの上部にある高台に集結した見物人、そして警察官たちに向かって反抗的なスローガンを叫んだのであった。
警察官が、彼らの中に踏み込み 52人の子供を含む 200人以上を逮捕した夕方、抵抗運動は終わりを告げた。彼らは、ダールの刑務所で数日間拘束されたが、その意図は明確に伝わった。このダムが建設される経緯、そして、彼らの生活を弄ぶようなやり方は、インドの不名誉に他ならないことが。
当日、私は現場にいたが、そのときの若い男がクレーンに登って行く姿が、私の記憶に焼き付けられることとなった。私は、今でも自分にこう訊くことがある。彼のような男を、蜂がいなくても命を失いかねない、誰が考えても危険な行動に駆り立てるのは何なのだろうと。
そして先週、同じような質問が心に浮かんできた。場所は、ここボンベイである。あのダムに対する抗議運動も村人も、ほかの惑星の出来事のように遠い存在に感じられた。今回の出来事は、私が担当する新聞のすべての紙面で報じられた。ある若い男が、ナリマン・ポイントにあるオベロイ・ホテルの支柱をよじ登り、14階にまで達したところで垂れ幕と旗を広げたのだった。
この男に関して分かっていることはわずかである。彼は、テンジン・ツァンドゥという名前のチベット人である。そして、思慮深く、意志のはっきりした情熱的なチベット人でもある。かれがホテルで広げた横断幕には、大勢のフロント係が確認できるほど大きな文字で『Free Tibet』と書かれていた。では、彼がこの特定の日にオベロイ・ホテルを選んだ理由は何なのか? 答えは、中国の朱鎔基首相が滞在していたからである。テンジンはミッドディ紙に対し、「階全体のすべての窓から、中国人の顔が私を見ているのがすぐに分かった。チベットの国旗を見せることができたことを名誉に思う。あの一瞬は、自分の行動が正しかったことを物語っていた」と語った。
テンジンは結局、ボンベイの警察官により支柱から引き剥がされ、その夜拘束された。しかし、マディヤ・プラデーシュでクレーンによじ登った男と同じように、テンジンは自分の主張を明らかにすることができたのだった。彼は、朱鎔基首相、側近、そして彼の行動を見ていたインド人たちに、チベットが中国政府のうわべを取り繕った政策に屈したり、チベットの存在が忘れられることはないことを思い起こさせたのであった。そして私は一人、例の疑問を考えることとなった。誰かが、自分の意見を主張するのにここまで危険な行動を起こすのは、一体なぜなのだろう?
実行するのがもっとも簡単なのは、この2人の男を、自分の存在をアピールした後でほかにすることもなかったスタントマンとして記事で取り上げることである。私は、多くの人がそのように語るであろうこと、そして、この文章を読んだ人ならそうするように説得の手紙を送ってくるであろうことは分かっている。クレーンを登った男の名前は、彼のわずかな知人以外、知っている者はいない — 私はわざとその名前をここに記さないが — そして、テンジンは、彼がホテルをよじ登る前の市井へとっくに戻っている。このようなわずかな情報は、書き手が確信を込めて書く場合、少しも問題とはならない。ある行為の背景、そしてそれが示す正義を把握しようとするより、その行為を非難する方がはるかにたやすいのだから。
命がけの冒険以外にも危険は存在する。自分の良心に従って行動しようとするとき、多くの人は協力する代わりに気付かない振りをするものであることを理解しなければならない。テンジンはミッドディ紙にこう記している。 『負け戦で戦っている我々を、世界が見切りをつけてしまったことは分かっている』
けれども、実際のところ、世界がテンジンのような人々に見切りをつけなければならなかったとしたらその理由は何なのだろうか?インドも同じだっただろうか?
ここに考えられる理由が1つある。我々が、彼らの努力を無駄であると考えるようになったのは他ならぬ、自分たちの手で招いた権力主義であったのだ。権力主義の発想を持つ者は、「jis ki lathi, us ki bhains」 (「杖を持つ者は野牛を有する」、または、MS ゴルウォーカーがかつて記したようにそれほど生き生きとした英訳ではない「力は正義なり」) という意味深い言葉を直ちに口に唱えるであろう。彼らはまた、私たちがそのような言葉を受け入れ、世界の動きを正確に表す 「現実政策」と呼ばれるものがどのように捉えられてきたかを理解すると思っているに違いない。そしてこう言うのだ。中国はチベットを占領した。中国は強大な国家である。ならば、多くのチベット人の窮状を考慮するなどという、時間を無駄にする必要がどうしてあるのだろう?
しかし、このような権力主義者たちは、現在の世界の動向に対し主張を展開したとしても、歴史、とりわけ自由と正義を求める数多くの闘いが残した無数の教訓を忘れている。我々インド人が自由を求めて闘ったとき、我々を国家として団結させてくれたのは闘いそのものであった。最後には、英国は確かに力を行使しすべての “こん棒” を手にした。権力主義者が情勢を見渡し力が正義であると断言し、マウラナ・アザド、ラーラー・ラージパットラーイ、シャヒド・バガット・シン、ロークマンヤ・ティラク、そして忘れてはならないパテル、ガンジー、ネルーなどのインドの英雄たちに闘いを捨てるよう説得していたとしたら、現在の我々はどうなっていただろう? 武器の所有を考えると、彼らの行動は無駄であったことが理由となるだろうか?
英国が支配していた間、権力主義者の行為がこのとおりであったかを明らかにするには、私の歴史に関する知識はあまりに乏しい。しかし、仮に権力主義者がこのような意図を持っていたとしたら、その意図が失敗に終わったことは我々にとって幸運なことであったことは間違いない。インドは、武器の代わりに自由を獲得したのである。
私が、クレーンや支柱をよじ登った人たちを賞賛する理由はこれなのである。
最近の情勢として、インド人にとって中国と取り引きを行うこと、訪問する中国政府の様々な指導者たちを歓迎すること、そして彼らの発展と進捗を賞賛することは手軽に行われているようである。このような情勢は、見て分かるとおり、現実政策が再び台頭してきていることの証である。我々は、中国政府が通ってきた道を辿ることで中国の発展を同じように手に入れることができると考えているのだ。中国が、チベットで起こした恥ずべき行為をごまかそうと躍起になり、輝かしいほどの超大国化への道を歩もうとするとき、我々もまた、自分たちが抱える一連の不正を無視し、同じように超大国化への道を歩んでも構わないと思っているのである。
世界は、そのようなことを許すわけがないだけのことだ。そして、繰り返しになるが、クレーンと支柱を登ったあの若者たちを賞賛する理由は、まさしくこのことなのである。