2021年10月10日
インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ
法話会の2日目、『般若心経』の読経が終わるやいなや、法王は、「本日は『縁起讃』の残りの伝授を行ないたいと思います」と述べられた。
「仏陀は、『聖宝積経』の一部の中で次のように述べられています。
そのありようは空であり、寂静で、不生である それを知らずに有情たちは〔輪廻を〕彷徨っている 〔世尊は〕慈悲の心に基づいて 何百もの理由を有情に示されている |
「釈尊は当時、有情を解脱へと導くために様々な方法や手段を用いて教えを説かれました。もし釈尊が最初から空くうの教えを説かれていたなら、それを虚無論と思った人々が恐怖に陥ってしまったことでしょう。そこで釈尊は、初転法輪では “四つの聖なる真理(四聖諦)” をその本質、はたらき、結果の観点から説かれ、第二法輪において空の教えを説かれたのです。その結果、サンスクリット語の伝統に従っている仏教徒は皆、25偈から成る有名な『般若心経』を唱えています」
「『般若心経』には、“色即是空、空即是色、空不異色、色不異空” という般若波羅蜜(完成された智慧)の要約である四種類の空性(甚深四句の法門)が説かれています。色しき(物質的存在)から一切智の心に到るすべての事物はその実体を探しても見つけることはできませんが、しかし、確かに存在しているのです。現れている通りには存在していない、これが色即是空(色はすなわち空である)の意味していることであり、事物の実体をどれほど探し求めたとしても、見つけることはできません」
「物質的存在や事物は、それ自体の側から実体をもって存在しているのではありません。しかし、原因と条件が満たされると、他に依存して仮に設けられただけのものとして存在していることが理解できます。チャンドラキールティ(月称)が述べているように、事物が空くうから生じてくるのは明らかな事実なのです」
「私は毎日、空くうについて瞑想しています。長年空について瞑想し続けてきて、悟りに至る五つの道の中の第三の道である見道けんどうに近づいているのではないか、見道に到ることができるのではないかという希望を持って修行をするようになりました。おそらくその瞬間、私は第二の道である加行道けぎょうどうに近づいているのかもしれません。仏陀の教えは根拠に基づいており、私たちの内面にある悪しき感情を対治するのに大変役立ちます」
「漢族の皆さんは、『般若心経』の終わりに、次のように唱えていますね。
〔怒り、執着、無知という〕三毒の煩悩を滅することができますように 正しい智慧を得て、真実の光が輝き出しますように 罪と障りを悉く滅することができますように 多くの生において常に菩薩道を実践することができますように |
「究極的には、怒り・執着・無知の三毒を滅し、智慧を培い、障害を克服するのは菩薩行を実践するためです。そして私たちが菩薩行を実践するのは、一切有情が悟りに至れるよう助けるためです。そうした洞察を深めるために、私たちは勉強が必要なのです」
法王は、テキストの第22偈から再び読み始められると、「偉大なるインド人の導師たちは、2500年以上にわたって他者に害をなさないよう提唱してきましたが、それでもその多くの人々が、五蘊と別個に存在する自我があるという概念に固執し続けてきました。一方で釈尊は、事物はそれ自体の側から独立して存在しているように見えたとしても、実際には相互依存(縁起)によって生じていると説かれたのです」と語られた。
また法王は、ツォンカパ大師が長年にわたって釈尊の教えをよく検証されたことにふれて、「『善説金蔓ぜんせつきんまん』などツォンカパ大師の初期の著作と『中観密意みっち解明』など後期の著作を読み比べてみるならば、大師がどのように中観の見解を展開されてきたのかがわかります」と述べられた。
文殊菩薩はツォンカパ大師に対し、隠遁修行に入って浄化の修行をし、福徳と智慧の資糧を積むよう助言された。ツォンカパ大師が、今教えているたくさんの弟子たちへの責任を果たすべきではないでしょうかと答えると、文殊菩薩は、仏法と自分にとって何が利益りやくとなるのかよくわかっているはずではないか、と鋭く言い放たれたという。
その後、ウォルカで隠遁修行に入られたツォンカパ大師は、懺悔の本尊である三十五仏に関連した浄化の修行をされた。ある晩、ナーガールジュナ(龍樹)とその弟子たちが夢に現れ、青ざめた顔色の方がツォンカパ大師に歩み寄ると、一冊の仏典を手にして大師の頭に触れられた。翌日、ツォンカパ大師は『ブッダパーリタ註』として知られる論書を読んでおられた。そして『中論』18章「自我と現象の分析」を読み、瞑想をして心に馴染ませていくと、突然すべてが明確になった。あらゆる疑念、とりわけ空における否定や手付かずの疑問が跡形もなく消え去ったのである。
法王はテキストを読み終えると、次のように述べられた。「まだラサにいた頃のことですが、ある日、守護尊をなだめて祈願をしていたときのことです。その晩、『ラムリム(道次第)の廻向祈願文』を唱えている自分の姿を夢で見ました。
教えの十の行いにより 最勝なる乗り物に至ろうと懸命に努力する時 力を持つ者たちに常に伴われていますように そして吉祥の海がすべての方位に広がりますように |
「この夢は、仏陀の教えを共有することによって世界中の人々の幸福に貢献できるようになったことと関連しているのかもしれない、と私は後に考えるようになりました」
法王は聴衆からの質問に答えるなかで、現れと現実との相違に言及された。「今日こんにちでは、量子物理学者たちでさえそのような外的要因に関する相違に注目しています。事物には客観的実体があるように見え、それ自体の側から存在しているように見えますが、こうした印象は単なる心の投影にすぎません。自分自身の心に関しても、事物が目の前に現れたとき、目にしているのがなすべきことであると感じるのです。しかし、現実は違います。シャーンティデーヴァ(寂天)は次のように述べています。
この世のいかなる幸せも他者の幸せを願うことから生じる。この世のいかなる苦しみも〔自分だけを大切にして〕自分の幸せを求めることから生じる(第8章129偈)
多くを語る必要がどこにあろう。凡夫は自利を求めて〔望まぬものをすべて得て〕、成就者〔仏陀〕は利他をなして〔すべてのすばらしきものを得る〕。この二者の違いを見よ(第8章130偈) 自分の幸せと他者の苦しみを完全に入れ替えなければ、仏陀となることはできないし、輪廻においても幸せを得ることはない(8章131偈) |
次の質問者が、ツォンカパ大師の『修行道の三要素』の中で言われている、「現れは実在論を取り除き、空は虚無論を取り除く」という逆説的な見解について訊ねると、法王は次のように述べられた。
「単なる名前を与えられただけの対象を探しても、私たちは何も見つけられません。それは、現れによって実在論が打ち消されているからです。事物はその現れ通りに存在しているのではなく、他の因に依存して単に名前を与えられただけのものとして存在しているのです。これは虚無論を取り除くのに役立ちます。事物は他に依存して名前を与えられただけの存在であると言っても、その事物の存在そのものを否定しているわけではないのです」
「他に依存して仮に設けられただけであるという理解が深まると、どのように空によって虚無論を取り除き、現われによって実在論を取り除くのかということもよく理解できるようになります」
「今はまだ難しいですが、また師と弟子たちが直接会えるようになるとよいと思います。しかしながら、仏陀にもナーガールジュナにもお目にかかったことはないものの、その教えは効果的に引き継がれ、私たちはそれを勉強できているのです」
紛争にどう対処すべきか意見を求められると、法王は次のように述べられた。
「最近は、哲学的見解の相違を原因とする争いはめったにありません。それよりも生計など日々の生活に関連する問題のほうがはるかに紛争につながりやすいでしょう。それぞれの伝統宗派にはそれぞれの哲学的見解がありますが、思いやりと他者を助けることの大切さを伝えている点に関しては、どの宗派も共通しているのです」
「思いやりであれ、苦しみであれ、私たちは身近な人のことほどよく考えるものです。菩薩戒において大切なのは、他者を害さないこと、そして可能な限り助けることです」
「先ほどの偈頌にもありましたが、三毒を取り除くには智慧の光を育む必要があります。私は朝起きると、まず菩提心を生起し、自ら菩薩戒を授かって新たなものとします。そして人無我の本質について考えてから、『縁起讃』とそれに関連するナーガールジュナの詩頌を唱えています」
また法王は次のようにアドバイスされた。
「師僧の教えをすぐに理解できないときは、繰り返し教えに耳を傾け、よく考えてください。しかしながら、教えられたことが偉大な註釈書の説明と矛盾する場合もあります。大切なのは、誰の意見であれ、疑わずに受け入れないことです。よく調べ、論理的に検証しなくてはなりません」
質疑応答のセッションが終わると、法王は、「昨日学んだ “一切ヨーガの菩提心生起” を復習しましょう」と述べられた。 「仏陀に従う者は他者を害してはならず、他者に害されることがあっても忍耐強くあらねばなりません。“一切有情を救済するために仏陀になることができますように”、という熱望を持って、菩提心を培えるよう懸命に努力しなければならないのです。今、その菩提心が、自分の胸の位置で光り輝く月輪になったと観想してください」
「次に、悟りに至ることができますように、と熱望している ‟私” とは誰なのか省察してみてください。ナーガールジュナの『根本中論偈』には、次のような偈頌があります。
〔如来は〕五蘊ごうんではなく、五蘊と別のものでもない 五蘊は〔如来に〕依存しているのではなく、如来が〔五蘊に〕依存しているのでもない 如来が五蘊を所有しているのでもない では、如来はいかなるものであろうか(22章第1偈) |
「ここで、あらゆる事物の存在は空くうであり、空について瞑想しているその心が、白い五鈷杵となって胸の位置にある光り輝く月輪の上に立っていると観想してください」
「私はこれを毎日実践しています。皆さんも、いつでもできるときにやってみてください」
法王は、廻向の祈願文を唱えして、法話会を終えられた。