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『修行道の三要素』の法話会

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2021年3月13日
インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ

3日間にわたって行われたオンライン講演と法話会の最終日となる今朝、モンゴルの僧侶たちによるモンゴル語の『般若心経』の読経とマンダラ供養の儀式が完了すると、ダライ・ラマ法王は次のように述べられた。

モンゴル人のリクエストによるオンライン法話会の最終日、ダラムサラの法王公邸からモニターに映し出された聴衆に向かって説法を行なわれるダライ・ラマ法王。2021年3月13日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

「本日のインターネットを介した法話会は、モンゴルの皆さんを主な弟子として行ないます。今日は、ジェ・ツォンカパの多様な著作のなかから、『修行道の三要素(修行道の三要決)』のテキストを勉強したいと思います。これはジェ・ツォンカパの愛弟子のひとりで、東チベットのギャルモロン(ギャロン)にいたツァコ・ワンポ・ガワン・ダクパのリクエストに応えて書かれたものです」

「ジェ・ツォンカパはガワン・ダクパに、“私のアドバイス通りに修行するならば、将来私が成道した際には、まずあなたに教えの甘露を授けよう” と約束されました。テキストの最後の偈頌にある “わが子よ” という呼びかけは、私たちも全員含まれていると考えてよいでしょう」

「私はジェ・ツォンカパと同じアムドの出身ですので、地理的な近さだけでなく、精神的な身近さを感じています。私たちも、“仏陀は有情のなした不徳を水で洗い流すことはできない。有情の苦しみをその手で取り除くこともできない。自ら得た悟りを他者に与えることもできない。ただ、真如という真理を示すことで有情たちを救済されている” というお言葉を思い起こし、ジェ・ツォンカパがガワン・ダクパに助言されたように修行するべきなのです」

「釈尊はまた、“あなた自身があなたの主である” とも述べておられます。それはつまり、私たちは仏法を学び、実践し、一点集中の瞑想によって対象物を明確に捉え、分析的な瞑想によって深く考察し、その本質を探る必要があるということです」

「ジェ・ツォンカパの著作は全18巻あります。私たちはこれらを読み、そこに書かれていることについて熟考し、理解したことを瞑想によって心に馴染ませなければなりません。ジェ・ツォンカパは、ナーガールジュナ(龍樹)とチャンドラキールティ(月称)の著作を教えの源とされましたが、私自身もチャンドラキールティの著作『入中論』と自ら注釈された『入中論自註』をいつも手元に置いて、時間があれば読むようにしています。発菩提心については、私はシャーンティデーヴァ(寂天)の名作である『入菩薩行論』に依拠しています」

「他の有情を救済するには、仏陀の形あるおからだ(色身)を得る必要があります。つまり、すべての煩悩を断滅し、強力な功徳を積集する必要があるのです」

「私は、朝目覚めるとすぐに菩提心を起こし、『入中論』の偈頌を唱えます。今は亡きキョルポン・リンポチェは、ジェ・ツォンカパが『中論』について注釈された『正理大海』、『中観密意解明』(『入中論』の注釈書)、『菩提道次第広論』の観の章、『菩提道次第論中篇』の観の章、『了義未了義善説心髄』の五大注釈書を読むならば、空についての洞察力を得ることができると言われました。しかし、一度読めばよいというものではありません。何度も何度も読まなくてはなりません。そうすることで、確信が湧いてくるのです」

オンライン法話会の最終日、ダラムサラの法王公邸からモニターに映し出されたモンゴルの聴衆に説法をされるダライ・ラマ法王。2021年3月13日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

「私自身、中観や菩提心の省察はたんなる知的訓練ではなく、心の平和をもたらすものであるという実感があります。真摯に修行するためにジェ・ツォンカパが遺された忠告に対しても、自分は忠実であると思っています」

法王は、『修行道の三要素』のテキストを読み始めるにあたり、その三要素(三要訣)とは、解脱を求める決意(出離の心)を持つこと、菩提心を育むこと、正しい空の見解(正見)を育むことの三つであることを明らかにされた。テキストは、至高の尊いラマたちに対する礼讃と、“私もまた、勝利者(仏陀)の教えの精髄をすべて説くことができますように” という謙虚な宣誓で始まる。受者たちは、教えに耳を傾けるよう告げられた。

純粋な出離の心がなければ、輪廻における快楽への執着を鎮める術はない。そのすべてが煩悩と煩悩に基づく行為として機能してしまうからである。煩悩と煩悩に基づく行為の根源は無知である。それゆえに、出離の心を高める必要があるのである。“無駄に費やす時間はない”という第4偈の2行目にあるお言葉は、無常に言及している。一瞬毎に移り変わっていく刹那滅のありようは、微細なレベルにおける現象の変化であり、死は粗いレベルの無常である。

法王は、第3偈、4偈、5偈にはそれぞれ、出離の心を求めなければならない理由、それを培う方法、いつ出離の心が生じるかの目安が説かれていることを示された。続く第6偈には、発菩提心が何故必要なのか、そして菩提心がなければ一切智の境地に至ることはできないことが述べられている。

第7偈には、生、老、病、死という四つの激流に押し流されている有情たちのありようを深く考えることによって菩提心を起こす方法が述べられている。有情たちは断ちがたい業にきつく束縛され、我執という鉄の檻に閉じ込められて、無明の厚い暗闇に完全に覆い尽くされているのである。


限りない輪廻の生を繰り返し
三つの苦しみに絶え間なく苛まれている
このような母なる有情たちのありようを思い


7偈と8偈は、菩提心を生起するための方法を示すことが目的であるが、法王は出離の心を強める手段として、母なる一切有情から自分自身に焦点を置き換えて考える方法を好んで用いておられることを明らかにされた。

オンライン法話会の最終日、法王公邸からジェ・ツォンカパの『修行道の三要素』を読み上げられるダライ・ラマ法王。2021年3月13日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

法王は、菩提心を生起する方法は2つあることを指摘された。ひとつは「因と果の7つの教え」に基づく方法、もうひとつは「自分と他者の立場を置き換えて考える方法」である。そして、後者のほうがより強力であることを明言すると、シャーンティデーヴァの次の偈頌を引用された。


自分の幸せと他者の苦しみを
完全に入れ替えなければ
仏陀となることはできないし
輪廻においても幸せを得ることはない(第8章131偈)
故に、落胆や疲れをすべて取り除く
菩提心という馬に乗って
幸せから幸せへと進んでいくことを知ったなら
いったい誰が怠惰な心を起こしたりするだろうか(第7章30偈)


9偈では、解脱を求める決意(出離の心)を持ち、菩提心を育む修行をしたとしても、空を理解する智慧がなければ、輪廻の源を断ち切ることはできないことが述べられている。それゆえ、縁起を正しく理解するために努力する必要がある。

「アーリヤデーヴァ(聖提婆)が『四百論』のなかで述べておられるように、からだにはからだの知覚能力が行きわたっているように、無知はすべての煩悩の源に存在しています。無知を克服することにより、煩悩を滅することができるのです。事物はそれ自体の側から存在しているように現れてきます。私たちは自己というものをたんに名前が与えられただけの存在として見ないことが往々にしてあります。仏教の哲学学派のなかには、意識が自分であると考えている学派があり、さらには五蘊を自分として指し示している学派もあります。しかし、中観帰謬論証派ではこれらの主張を受け入れていません。これが自分の実体である、と指し示すことのできる実体を見つけることはできないからです」

法王は、チャンドラキールティの『入中論』から、3つの偈頌を引用された。これらの偈頌は、客観的実在性が主張された結果として生じる論理的誤謬について説明している。


もし、自相が〔自性によって成立する因や条件に〕依存して生じるならば
自性〔による成立〕はないと考えることによって事物は消滅するため
空性が事物の消滅の因になる
しかしそれは論理に反するので、事物は存在しない(『入中論』第6章34偈)
これらの事物を分析してみるならば
真如を本質として持つ事物以外に
とどまる所を見出すことはできない
ゆえに、世間において言葉で述べられた真理(世俗諦)を分析するべきではない(第6章35偈)
真如について述べる時
それ自体から、あるいは他から生じることは論理的に正しくない
それは世間の言説においても論理的に正しくない
あなたの言う生成とはどうやって存在することになるというのか(第6章36偈)


「これ」や「あれ」というように事物を指し示すことができるなら、聖者の等引(深い禅定の状態)は事物を破壊することになる。そこには客観的実体は何もない。世俗の真理は論理的な分析に耐えうることになる。勝義における成立もまた、否定できないことになる。あなたは指をさして示すことのできる真実の実体を見出すことはできない。ゆえに、一切の現象の自性は空であると言われているのは正しくない。

オンライン法話会で、法王公邸からジェ・ツォンカパの『修行道の三要素』のテキストの解説をされるダライ・ラマ法王。2021年3月13日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

 

実際に、事物は客観的な実体を持って存在していると主張するならば、勝義における事物の生成を否定することはできない。こうした点に加え、チャンドラキールティは『入中論自註』の中で経典を引用して、“事物の客観的実体性の主張に対峙するとき、すべての現象にはそれ自体の側からの自性がないという仏陀のお言葉は哲学学派によっては必ずしも真実ではない”と述べている。チャンドラキールティはまた、7つの道理に照らし合わせて分析するならば、どんな事物にもその実体を見いだすことはできないのであり、しかも事物は世俗においてなお存在している、と述べている。

「ジェ・ツォンカパは、“縁起の理解に努めよ” と書いておられます。チョネ・ラマ・リンポチェもジェ・ツォンカパの『縁起讃』を解説するなかで、“何かに依存していることにより究極のありようを否定せず、生じていることにより世俗のありようを否定しない” と記されています。仏陀は縁起の見解と、二諦(世俗の真理と究極の真理)を説かれました。事物の現れは “世俗の真理” であり、究極の真理は事物がどのように存在しているかを示しています」

輪廻における誤りなき一切の現象の因果を見て、誤った認識をすべて滅する人は、仏陀が喜ぶ道に入る。


あらわれとは誤りなく縁起するものであり
空とは〔自性を〕受け入れないことである
この二つの理解が別々に現れている限りは
まだ成就者仏陀の真意を正しく理解していない(第11偈)
〔この二つの理解が〕いつの日か交互でなく、同時にあらわれ
縁起に偽りがないことを見ただけで
認識対象には〔実体があるという誤った〕とらえかたをすべて滅したならば
その時こそ〔空の〕見解の分析は完全なものとなる(第12偈)


空とは、何もないという意味ではない。事物や有情が私たちの前に現れてくるその見えかたの本質が空なのである。相互に依存して存在しているがゆえに、それ自体の力で独立して存在している事物はない。私たちが分析をしないときは、事物は確かに存在しているかのように見えるが、世俗のレベルにおいてのみ存在しているに過ぎないのである。

「ジェ・ツォンカパが弟子のガワン・ダクパに最後に残した、“わが子よ、静謐な場所と努力を頼りとし、速やかに最終目標に到達しなさい” という助言は、私たちにも当てはめることができます。『ガンデン・ラギャマ(兜率天の百尊)』を唱えているときには、自分に向けての言葉と思ってください。テキストは、“この助言は多聞の比丘ロサン・ダクパ(ジェ・ツォンカパ)がその弟子ガワン・ダクパに授けたものである” という言葉で締めくくられています」

「僧侶、尼僧の皆さんをはじめ、モンゴルの法友の皆さんは、僧院においてよく勉強しておられます。チベットにおいても、そして現在は南インドにおいても、弟子たちは誠実に勉強しています。勉強の目的は、教えをあなたの内に統合し、よりよい人間になるためであることを忘れないでください」

「外モンゴルの皆さんも、内モンゴルをはじめ他の地域の人々のためにできることがあれば、是非それを実行してください。モンゴルはかつて仏法が広まっていた地域のひとつです。私の問答の相手をしてくれていたゴドゥプ・ツォグニ師は内モンゴル出身ですので、私には内モンゴルとの繋がりがあります。彼は問答の指導をしてくれただけでなく、私の『中論』に対する称賛と関心をかきたててくれました。彼は私に、“法王の家庭教師リン・リンポチェは偉大な学者であると同時に哲学論者の導師であり、もうひとりの家庭教師キャブジェ・ティジャン・リンポチェは『菩提道次第』に関する文献の専門家なのですから、この二つの伝統を貴方の内に統合してください” と言ってくれたのです」

「三大僧院の僧侶である皆さんは、実によく勉強しています。これからもこの調子で励んでください。大変な苦難があったにもかかわらず、私たちは千年以上にわたる仏教哲学の伝統を維持してきました。私たちが守ってきたナーランダー僧院の伝統は、私たちチベット人の文化とアイデンティティのまさに核心部のようなものです。モンゴルについても同じことが言えます。近年では、科学者たちも私たちの仏教哲学の伝統に関心を寄せてくれています。私たちは、遅れていると感じる必要はありません。世界中で平和について話し合われていますが、まずは心の平和を得なければ世界平和を実現することはできません。どうかこれからも全力で励んでください」

聴衆との質疑応答のなかで、法王は、祈祷や読経、礼拝、巡礼、仏塔の建立などはすべて、汚れを取り除いて功徳を積む方法であることを説明された。長い目で見れば、こうしたことはすべて一切有情が悟りを得ることに役立つだろう。同時に法王は、『修行道の三要素』の枠組みのなかで行なうのがよいと述べられた。

オンライン法話会の最終日、法王公邸のモニターに映し出されたモンゴルの聴衆の質問に答えられるダライ・ラマ法王。2021年3月13日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

法王は、仏陀の教えは家庭や子どもの成長に良い影響を与えるという意見に同意された。そして、実際的な見地からシャーンティデーヴァの『入菩薩行論』には非常に読みやすく教えが説かれていることを指摘された。第6章の忍耐と第8章の禅定には、怒りを爆発させるのではなく、やさしさと思いやりのある行動をすべきである、という子どもたちが耳を傾けそうな助言も含まれている。シャーンティデーヴァは次のように述べている。


この世のいかなる幸せも
他者の幸せを願うことから生じる
この世のいかなる苦しみも
〔自分だけを大切にして〕自分の幸せを求めることから生じる(第8章129偈)


法王は、過去においては王や女王が人々を支配していたことを認められ、階級やカースト制度、社会的地位などの違いによって人々を支配していたが、近年になって次第に民主主義が広がったと述べられた。民衆が平等であるとき、人は他の人々の幸せを考える機会をより多く持てるものである。

次に、法王の長寿を願って短い祈願文が唱えられると、法王は発菩提心の儀式を行なう予定であったことを思い出された。法王は、目の前にインド人、チベット人、モンゴル人の導師たちに囲まれて仏陀が座っておられる様子を観想し、法王のことを仏陀の使者として考えるよう聴衆を促された。そして、次の偈頌を3回唱えるよう導かれた。


私は三宝に帰依いたします
すべての罪をそれぞれ懺悔いたします
有情のなした善行を随喜いたします
仏陀の悟りを心に維持いたします
仏陀・仏法・僧伽〔の三宝〕に
悟りに至るまで私は帰依いたします
自他の利益をよく成就するために
菩提心を生起いたします
最勝なる菩提心を生起したならば
一切有情を私の客人として
最勝なる菩薩行を喜んで実践いたします
有情を利益するために仏陀となることができますように


最後に『入菩薩行論』の偈頌を唱えて、菩薩戒授与の儀式が完結した。

モンゴルのバヤンホンゴルの子どもたちが「オーム・マニ・ペーメ・フーム」の歌に合わせて伝統楽器の演奏を披露した。

 

NGO代表のN・トゥブシントゥル氏はモンゴルのラミン・ゲゲン・モンゴル・スンチョイ師に呼びかけ、法王に感謝の言葉を捧げた。そして、モンゴルのガンダン・テクチェンリン僧院のスタッフをはじめ、この法話会の運営に関わったすべての人々に向けて感謝の言葉を伝えると、最後に次の吉祥偈を法王に捧げた。


ダライ・ラマ法王が百阿僧祗劫ひゃくあそうぎこうという永きにわたり
私たちと共にいてくださいますように
モンゴルの人々を祝福し
何度も何度も私たちの国を訪問してくださいますように


法王が感謝の意を表明して手を振られ、法話会の幕が閉じられた。