2020年10月2日
インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ
今朝、法王は公邸内の居室に入られ、正面のモニターに映った人々をご覧になると微笑み、手を振られた。モニターには、法話を聴くために台北の会場に集まった沢山の人々の顔が映し出されていた。法王は、僧・尼僧・在家信者から成る聴衆の中に古い友人たちの姿を見出すと、時に声をたてて笑われた。
法王は以下のようにお話を始められた。
「今日は台湾の仏教徒の友人の皆さんが『了義未了義善説心髄』の解説をリクエストしてくれましたので、これから簡潔な説法をしていきたいと思います」
「ナーランダー僧院の導師たちは釈尊が説かれたことについて吟味されました。ナーガールジュナ(龍樹)は『根本中論頌』(以降『中論』と表記)で以下のように著されています」行為と煩悩を滅すれば解脱〔に至る〕
行為と煩悩は妄分別〔誤った認識〕から生じる
それらの妄分別は戯論から生じる
戯論は空によって滅せられる(第18章第5偈)
「悪しき業、悪しき行いによって私たちは輪廻を巡っていますが、悪しき行為と煩悩を滅する事で、初めて解脱に至ることが出来ます。ナーガールジュナの一番弟子のアーリヤデーヴァ(聖提婆)も『四百論』で同じことを述べられています」
からだにはからだの感覚器官が行きわたっているように
無知はすべて〔の煩悩〕の源に存在している
ゆえに、すべての煩悩も
無知を克服することで克服できる(第6章第135偈)
「ナーガールジュナは、縁起を理解すれば無知が生じることはなくなる、と記されました。無知とは、事物が他のものに依存せず、独自の力で存在しているという誤った見解のことです。このような誤った見解はただ祈っていても無くなりません。これに対する唯一の方策は縁起の理解を深めていくことです」
法王は、現代の科学者たちは信心に基づくシステムにはあまり興味を示さないが、根拠と論理をもって説明された事柄には注目するであろう、と述べられた。そして法王は、現代の科学者たちは、心と感情の働きについての仏教徒の説明を大いに歓迎する用意があることを知っておられるが、それらの知識はナーランダー僧院の伝統の特徴である根拠と論理に基づいて説明されているからである、と報告された。また法王は、漢族の仏教徒もナーランダー僧院の伝統を敬っており、中国の学匠であった玄奘三蔵法師は実際にナーランダー僧院を訪れ、そこに滞在した事があることが記されていると述べられた。
法王は、ナーガールジュナが瞑想されたと伝えられている中央インドの洞窟を訪ねた時のことに言及された。地元のインド人たちは、その洞窟に三蔵法師も巡礼に訪れた、と主張しているという。法王は、その洞窟の近くで法螺貝を見つけて拾い、これは吉祥の徴ではないかと思って、懐に入れて持ち帰ったことを告げられた。法王はその法螺貝をここに持ってくるようにと侍従の僧侶に依頼し、その法螺貝を掲げて聴衆に示された。法王は、漢族の仏教徒の友人たちはナーランダー僧院の伝統とナーガールジュナを心から尊敬しており、ナーガールジュナの『中論』はチベット語に翻訳されるよりもかなり前に漢訳されていたことを伝えられた。
法王は7世紀のチベットについて想起し、以下のように述べられた。
「ソンツェン・ガンポ王は中国の王女を娶ったことで唐王朝との血縁関係を結ばれました。私は唐から王女が持参されたジョヲ像の前で在家信者戒、沙弥戒、比丘戒を授かりました。ジョヲ像は12歳の釈尊のお姿を模写したラサのジョカン寺(大昭寺)のご本尊です」
「中国との繋がりを持たれたソンツェン・ガンポ王でしたが、漢字はあまりにも複雑だと思われたためか、サンスクリット語に使われていたデーヴァナーガリー文字のアルファベットを元にチベット文字を作ることを選択されました。同様に、8世紀にはティソン・デツェン王がナーランダー大学の最も優れた学匠の一人であったシャーンタラクシタ(寂護)をチベットに招聘することを決意されました」
「シャーンタラクシタは、チベットには独自の文字があるのだから、パーリ語、サンスクリット語、ネパール語に依存しなくてもいいように、インドの仏典をチベット語に翻訳することを勧められました。そのような経緯により、釈尊のお言葉の翻訳であるカンギュル(経典)100巻と、経典の注釈書の翻訳であるテンギュル(論書)200巻あまりがチベットに存在するに至りました」
「宗教への関心が世界的に薄れていく一方で、漢族の仏教徒たちの仏教への強い関心は高まっています。同時に、先ほども述べましたが、科学者たちも仏教の心理学についての詳しい解説に興味を持っていますし、仏教の考え方と量子物理学の学説の間には一致する点があります」
「量子物理学者は彼らの見解を煩悩の対処法として活用してはいませんが、自分たちが得た理解により、事物は客観的に存在すると誤解してそれらに執着する気持ちが減退しつつある、と蘭州大学の何人かの学者が私に話してくれました。中国本土とつながりのあるテンジン・ジャムチェン師の弟子の皆さんは、これについてもっと探求できるのではないでしょうか」
法王は知人の学者が、状況が変われば、北京の清華大学に法王を教授として迎えたいと述べたことに言及された。彼はまた中国でノーベル平和賞受賞者の会議を招集したいと語り、台湾において伝統的な中国の文化が生きたまま保持されていることに賞賛の意を示したという。
法王は、チベット仏教の伝統を引き継ぐすべての導師たちが、ナーガールジュナが書かれたことに特別な関心を寄せていたことに注目された。ツォンカパ大師は中観の見解に疑念を抱かれた時、インドに出かけてその地の学匠たちと話し、疑問点を晴らそうと思われたそうである。しかし、そのような旅は命を脅かす危険があるため、文殊菩薩が大師と直接議論され、その結果、ツォンカパ大師はチベットに留まり、中観に関する既存のインドの注釈書をすべて読まれたのである。そして十分な学識を得た大師は、理解したことを瞑想によって心になじませるために隠遁修行に入り、そこで中観の見解に対する特別な洞察を得られたのだ。
法王は『了義未了義善説心髄』の解説の伝授を先代のヨンジン・リン・リンポチェから受けていると伝えられ、次のように続けられた。
「リン・リンポチェはチョネ・ゲシェ・ロブサン・ギャツォから伝授を受けられました。このテキストの伝授の系譜は当時の中央チベットにはなかった様です。しかしアムドのラプラン・タシキル僧院にはその伝統がありました」
法王はテキストを読み進まれ、帰敬偈のそれぞれの偈頌が持つ深遠な意味について説明された。そこに記された数人のインドの導師たちに関連して法王は、“六人の飾りと二人の最勝なる方々” 以外にも讃えられるべき導師が沢山おられるので、他の9名の導師を加えて『ナーランダー僧院の17人の成就者たちへの祈願文』を著したと伝えられた。法王は、了義の教えが説かれている仏典と、解釈が必要な未了義の教えが説かれている仏典を分類するための依拠となった典籍が2冊あり、それは『解深密教』と『無尽意経』であると述べられた。
聴衆との質疑応答セッションに移られた法王は、最初の質問に対して、人我は五蘊を土台に名付けられたものである事を明らかにされた。釈尊は初転法輪において人無我を説かれたが、第二法輪の般若波羅蜜(完成された智慧)の教えにおいて五蘊ごうんを始めとする諸法の無我、つまり法無我について解説された。法王は、死ぬときに身体は捨て去られる一方で、善き行いと悪しき行いの両方の習気じっけ(習慣性の力)が心の連続体に残され、その微細な意識が次の生へと続いていく事を説明された。
法王は、目覚めている時の粗いレベルの意識、それよりも微細な夢を見ている時の意識、ぐっすり眠っている時の意識、そして死に直面した時の最も微細なレベルの心という異なるレベルの意識について話された。密教では、八十の自性の心と呼ばれるより粗いレベルの意識が、真白に顕れる心(顕明けんみょう)・真赤に輝く心(増輝ぞうき)・真黒に近づく心(近得きんとく)という三つの顕現を経て、どのように最も微細なレベルの死の光明の心へと溶け入っていくのかを説明している。これは、より粗いレベルの心が順次機能を停止していく段階である。
法王は熟達した瞑想者が死の際に経験することがある “トゥクダム” の状態について言及された。人は呼吸と脳の機能が停止すると臨床上の死を迎えるが、その後も身体が暖かいまま留まるというこの状態に、法王の家庭教師であったヨンジン・リン・リンポチェは13日間留まられた。最近では、台湾の仏教博士(ゲシェ)のひとりが26日間トゥクダムの状態に留まったという記録がある。現代科学はまだこの現象を解明出来ていないが、仏教科学においては、瞑想者の最も微細な意識が身体に留まっている限り、身体が腐敗することはないと主張している。
次の質問者は自分たちが実践している空性についての瞑想は正しいかどうかと法王に尋ねた。法王はチャンドラキールティ(月称)の『入中論』第6章の以下の3つの偈に照らして吟味してみるようにとアドバイスされた。
もし、自相が〔自性、自性によって成立する因や条件に〕依存して生じるならば
自性〔による成立〕はないと考えることによって事物は消滅するため
空性が事物の消滅の因になる
しかしそれは論理に反するので、事物は存在しない(第34偈)
これらの事物を分析してみるならば
真如を本質として持つ事物以外に
とどまる所を見出すことはできない
ゆえに、世間において言葉で述べられた真理(世俗諦)を分析するべきではない(第35偈)
真如について述べる時
それ自体から、あるいは他から生じることは論理的に正しくない
それは世間の言説においても論理的に正しくない
あなたの言う生成とはどうやって存在することになるというのか(第36偈)
法王は、空を対象にした虚空のような瞑想状態から出た時、目の前に機能している事物が現れてはくるけれども、それは幻のようなもので、自らの力で実体を持って存在しているわけではないと見なすように示唆された。そしてツォンカパ大師が、縁起とは現れであり、縁起によって生じる事物が存在しないということではない、と述べたことに言及された。
次の質問者に対して法王は、私たちの自然環境を保護する事は大切であるが、同時に愛と思いやりの心を育む事と、自分の心を対象としてその空性を理解する事の重要性についても強調された。そのような瞑想を実践していけば、将来他者を助けることが出来るより善き生を得ることになるだろう、と述べられた。また、怒りや執着の感情に圧倒されている時は、菩提心を育んだり、空の見解を高めるよい機会とは言えない、と述べられ、心が平和でくつろいでいる時にこそ、そのような実践に取り組むべきであり、そうすることによって次第に怒りや執着などの煩悩に屈する瞬間が減っていくだろう、と話された。
最後の質問に対して法王は、『菩提道次第』に記されている無常についての説明をかいつまんで解説された。まず、全ての不必要な行為に携わっている限り、その行為には終わりがない事を考え、次第に自分が死ぬ運命にあり、しかもその時期は不確定である事を学ぶべきである。死に際して苦痛を和らげることが出来る唯一の対策は仏法の理解であり、それだけが確実なことなのだ、と告げられた。
質疑応答のセッションが終わり、司会者は法王に、何か付け加えたいことがあるかどうかを尋ねた。
それに答えて法王は次のように述べられた。
「煩悩に駆り立てられて、私たち人間は本当に沢山の問題を作り出しています。指導者であろうと、一般市民であろうと、困難に遭遇したいと考える人はいないでしょう。しかし、怒りなどの悪しき感情によって問題が生じてしまいます。私たちは、心の中に幸せを育む方法を知らず、幸せの原因が何であるかも知らずに生きています。感情的な衛生観念の規範を守り、煩悩が生じるやいなや、その瞬間を捉えて対処しなければなりません」
「人間には知性があるので、将来の計画を立てることも出来ますし、私たちがいかに家族や友人には愛情を示し、その他の人々には敵対心を抱いているかを知ることも出来るでしょう。知性を働かせて考えれば、自分たちが人々や物事を “絶対的に善いもの” と “絶対的に悪いもの” などと決めつけている事がわかるはずです。しかしこのような判断は変わり易く、無常を反映したものなのです」
法王は聴衆に向かって、まず粗いレベルの無我について考え、徐々に微細なレベルの無我について考えるようにしていくことを奨励され、段階を追って理解を高めていくことを、社会における学校教育の過程に喩えられた。法王は、そうすることが煩悩を減らしていく方策であり、私たちは本質的に苦しみを厭い、幸せを望んでいるのだから、このような習修をしていくことが必要であると繰り返された。