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「民族浄化」と非武装化に関する北京のコメントに対する  中央チベット行政府の返答

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(2009年9月5日 中央チベット政権)

2008年10月31日から11月5日にかけて、ダライラマ法王からの二組の使節団、ロディ・ギャリ、ケルサン・ギャルツェンと上級側近たちが、「チベット人による真の自治権」に関するメモランダムを中国の指導者に届けるために中国を訪問した。中国政府はメモランダムの提案を全面的に拒否した。この最新提案は、チベットの独立、半独立もしくは「隠された形の独立」を求めているものでしかない、と中国政府は述べた。

それから一週間後、ダラムサラからの控えめで穏健な提案を拒否した事を正当化するために、中国指導者たちは攻撃態勢に入った。中国共産党の中央統戦部副部長の朱維群が、11月10日に記者会見を開くという前例にない動きをみせたのである。記者会見には中央統戦部の副次官であるシターも出席していた。チベット側の提案に対する北京の全面的拒否はチベット内のチベット人民にも支援された、という印象を与えるために「チベット自治区」の副議長であるチベット人、ペマ・ティンレイが各国報道陣との会議のため連れてこられた。

記者会見で、朱維群はチベット民族に関する2つの問題を取り上げた。チベット高原の非武装化とチベットへの人口移転の中止とその反転である。非武装化について、朱維群はこう述べた、「ダライラマと側近が人民解放軍(PLA)の’チベット民族居住大地区’からの解隊と撤退を要求してきたのは今回で4回目だ。我々は自国の領土から自国の軍隊を撤退しなければらなない、という訳だ...もし我々が軍隊を撤退させたら、中央政府が国土防御をすることがどう可能なのか。この要求は明らかに意図的なまやかしだ!」

二つ目のポイントとして、朱維群はこう述べた、「さらに、ダライラマと側近はいわゆる’チベット民族居住大地区’からチベット人以外の民族全ての一掃を要求してきた...何世代にも渡ってその土地に住んできた何千人もの住民を追放し一掃する、というのだ。このような邪悪な提案からみると、もしダライラマがいつの日か’大チベット’での権力と権威を得たとしたら、人種差別、隔離、そして民族浄化などを慈悲も戸惑う事も無くすぐさま行うことは間違いないだろう。」

この記者会見は世界各国のメディアで報道された。また中国のメディアでも大規模に報道、コメントされ十分に盛り上げられた。朱維群がこの記者会見を開き、北京側がチベットの提案を拒絶した理由を具体的に説明したのは、国際的な批判を避けるためだ。さらに重要な点は、この記者会見を開き大規模に報道したのは、中国国内の事情のためであることだ。中国が吐き出して止まない反分離派のレトリックは、中国一般市民と中国共産党、そして共産党の権力維持には欠かせない利害関係者たちとの間での、中国の将来の政治的な準備態勢に関する、時にはうるさく時には静かな三者論争の中で中国共産党が権力に残るためための強力な手段となった(※1)。ここでいう中国一般市民というのは、自分たちの利権が踏みにじまれるたびに毎日路上に出て、なんらかの問題に関しての正当な扱いを求めて声を上げている人々全てのことをいう。前述した利害関係者というのは、官僚政治とビジネスコミュニティーとその間の後援システム、そして官僚社会と市場の間での後援システムなどで構成されている巨大な連結ネットワークのことを示す。このシステムは利害関係者が個人的に莫大な富を得るために巧みに操作されている。「中国転換期の落とし穴:発展中独裁政治国家の限界」の著者、ミンジン・ペイはこの状態を「掠奪的な国家」と呼ぶ。中国共産党はこういうシステムを監督しながら、自党の正当化のためそれに依存している。

(※1) 「中国は内破するのか?」デイリー・ビースト誌のイザベル・ヒルトン著、2009年8月1日

朱維群の記者会見と、チベットの提案内容に関する中国側の完全拒否とその公共的な誤解釈は主に、現政権が握っている権力とその正当化のために依存している2組の支持者に対する声明だ。現政権が「民族浄化」の恐怖とチベットによる過去の平和ゾーン提案に繰り返し脚光をあびさせながら、「分離派」と「分離派の観念」に焦点をあてようとしているのは、政治の腐敗に対する日に日に増す国民の憤慨を避けるためである。この記者会見によって、チベット内部での利害関係者たちの広範囲にわたる利益とその社会的地位の保障が再確認された。

こういう利害関係がなければ、「民族浄化」や人民解放軍のチベット地区からの撤退提案の例に見えるように、チベット側の意図が誤解釈される理由は全く無い。チベット側の最新提案の主旨は中華人民国憲法に記されているように、北京が少数民族に与えられた権利の実施と遂行をするべき、というものだ。チベット平和ゾーンと人民解放軍のチベット地区からの撤退の提案は、中国を変革した経済改革のように20年以上前のものである。なぜ中国指導者はこんな昔のチベットの提案と観念を元に最新提案を拒否しようとしているのだろう?これは、中華人民共和国の建国者である毛沢東が中国を制御経済に基づいた社会主義の国にすると誓ったのを理由に、現在の中国は市場志向の社会ではない、と言っているようなものだ。中国指導者がチベットと交渉する気はさらさら無い、という疑念がぬぐいきれない。もしくは、毛沢東の母は献身的な仏教徒だったので彼は真の共産主義者ではなかったのか?もし中国指導者が本当にその気になれば、チベットの最新提案を元にチベット問題はすぐに解決できるはずだ。チベットの最新提案は中国憲法にかなうように案出されたものである。憲法によれば、独立国家の主権者は自国の軍隊をどこにも配置できるとしている。これは1997年に香港が母国の元に返還された時、中国がすかさず行ったことだ。

チベットを将来的には平和と環境保護天国の地区に変換するというのが、何千年にもわたってチベット人民を育んできた、チベット高原と自国民に対するダライラマ法王の願いである。この願いはチベットと中国間の交渉への前提条件ではない。

チベット高原への中国人人口移転とその反転を求めるチベット側の提案を、中国が「民族浄化」というレッテルを貼るのは、チベット問題を監視している世界各国の人々からのこういう政策に対する深い嫌悪感を避けるためだ。さらにこれは、チベット人民の自国への深い懸念を不正に描写している。中国政府は自国のことを単一民族国家ではなく多民族国家である、と言っている。多民族国家では少数民族にも自分たちの文化を保護、促進する権利がある。こういうことを中国でも可能にするためには、チベット人地区ではチベット人民を多数派にするという規制や規定を定めることである。

前イギリス領の香港では、中国本土からの移民に圧倒されるのを避けるための規制や規定が定められた。香港特別管理地区の基本法定条項22条は、中国の他地域からの住人が香港特別管理地区に入国する際には、入国許可を得なければならないとしている。その入国希望者中の何人が永住目的で入国できるというのは、香港政府に問い合わせた後に、中央人民政府の権限者が決断するのである。

香港への移住と永住は、公的、商業的、私的な訪問どれに関しても特別な規制や規定が基本法定により定められている。基本法定は家族との再会目的の人々に、毎日150枚の片道許可証(OWPs)を発行している。居住権利証(CoEs)を持ち、香港に住む権利のある子供には60枚の許可証が割り当てられ、10年以上別離している配偶者とその子供たちには30枚の許可証、そして「その他」の部類の申請者には60枚の許可証の割り当てとなっている。「その他」の部類というのには、10年以下しか別離していない配偶者とその子供たち、身寄りが無く香港に住む親戚に身を寄せなければならない子供たち、香港に住む年老いた親の面倒を見るために来る人々などである。

この様な規制や規定により、中国本土から香港への人口の流出制御を行い、香港の経済発展と独自性を保つ助けになったのである。同じ様な規制をチベットに適用することは可能だ。世界には30以上の自冶区域がある。

世界の自冶区の大半では、国家が税関、国境、外国人の移民を制御している。この様な権威を国政府と自冶区政府の間で分担もしくは分割することも可能だ。特に注意をしなければならないのは、国内での移住と居住資格に関してである。特に大多数民族が自冶区へ集団移住する事により、自冶区の文化の崩壊につながることもあるからだ。

バチカンとミクロネシア連邦などは、税関、国境など移民に関することは全て自主的に制御できるので、自冶区としても例外と言えよう。イヌイット原住民の領域内での国境や税関の制御権利はカナダ政府にあるが、イヌイット原住民は、非イヌイット人、カナダ人や外国人の入国を拒否することができる。イヌイット原住民の領域内におけるカナダ軍の活動は、イヌイット原住民の許可がいる。さらに、イヌイット原住民には誰がイヌイット原住民なのかを決断する独占司法権がある。同様に、ナバホ族は自地区領域へ入る者と居住者の管理をしている。

自冶権力を中央政府と住民の間で分割する場合もある。パレスチナでは、イスラエル政府とパレスチナ政府が共同で国境を制御しているのがその例だ。香港政府は税関と移民の管理を制御をしているが、最終的な権限は中華人民共和国にある。しかしチベット自冶区(TAR)の税関と移民は中国政府が完全な権限を持っている(※2)

(※2)「自冶権とチベットの見通し」、チベット議会政策調査所出版、ニューデリー、2005年、p20−21

このように人口の流れを制御することは「民族浄化」ではない。少数民族地区への大多数民族の移住を制御、監督する政策がないと、満州で起こったように少数民族が絶滅する結果になる。

満州民族、内モンゴルのモンゴル民族やウイグル民族に起こった様な悲劇の危機にチベット民族は直面している。現在の黒龍江省、吉林省、遼寧省などの北東三省が満州民族の伝統的な故郷であった満州を構成している。満州民族は中国最後の皇帝支配者であった。中国人の集団移住のおかげで、昔は自国であった満州の中で、今現在の満州民族は「役立たずで忘れられた」少数民族となってしまった。中国の2000年国勢調査によれば、黒龍江省の人口の95%は中国人で、満州人はたった3%である。吉林省の人口の91%は中国人で、満州人は4%のみ。遼寧省の人口の84%が中国人で満州人は13%である。中国人による満州民族とその文化に対する何十年もの人口圧迫のおかげで、満州語が話せる老人は100人以下、と新華社は2007年3月9日に報道している。

同じように悲劇的な運命が、内モンゴル、東トルキスタンや新疆ウイグル自治区の人々を待ち構えている。

南モンゴルの自然資源は地域人口3000万人の内、たった500万人の生活の足しにしかならない、と中国の専門家たちは結論した。中国共産党支配が設立された1947年には、南モンゴル内の連邦大半の人口はモンゴル人であり、モンゴル人しか居住していない連邦も多数あった。シーリイン・ゴル・アイマグのスンニット右旗地区の例を見ると、1947年には全連邦内での中国人人口は二人だけだったが、1984年には7万人の全人口の中、モンゴル民族人口はその3分の1以下となってしまった。1950年と1960年の間には、南モンゴルへの中国人の移住制御はある程度行われていたが、それでも500万人強の中国人が送られた。しかしこの期間の後は、中国人移住に関する制御は全く無く、中国人は自由自在に南モンゴルに移住したのである。中国国内の1980年代の改革と1990年代の市場経済への転換後、南モンゴルへの中国による投資がさらに増加し、南モンゴルへの中国人人口流出問題は「問題」ではなくなってしまった。それゆえに、中国人はアリのようにうじゃうじゃとモンゴルに移住し始め、現在3000万人の中国人に対してモンゴル人が400万人だけ、という割合になっってしまったのである。この割合からみて、将来のこの地域の人口発展の傾向を予測するのは難しくない(※3)

(※3)「絶滅への道:内モンゴル人民党の声明書」、2007年8月8日

新疆ウイグル自治区の人口は現在2100万人で、そのうち900万人がイスラム教系ウイグル民族、そして800万人が漢民族となっている。その他にも45種類の民族がいるがその数は比較的少ない。

1949年の漢民族の人口は、新疆ウイグル自治区の全人口の7%以下だったのと比較して、現在はほぼ40%となっている。漢民族の人口は、ウルムチ市、石河子市、カラマイ市などの地方に比べて生活水準の高い都市部に集中している。

新疆ウイグル自治区というのは実に広大で人口も拡散している区域であり、1949年以来重点的に軍隊、警官隊配置がされ、核爆弾のテスト、軍事訓練、強制労働収容所などの本拠地となっている。1800万人の人口の中にはチュルク語を話すイスラム教系民族も数種含まれており、800万人という最多数人口のウイグル民族もそのひとつだ。中国政府の政策により、新疆ウイグル自治区での漢民族の割合は1949年当時の6%から現在40%と増加しており、750万人という数になっている(※4)

(※4)参照リンク:www.uyghuramerican.org

チベット人民は過去に満州民族に起こったことや、内モンゴルと新疆ウイグル自治区での現在の情勢に関して懸念している。チベット人民による中国政府への人口移転の停止とその反転の提案は、チベット民族が自国の中で少数民族として衰えていって、チベット文化が博物館でしか見れない様な骨董品的なものになるのを恐れているからだ。チベット人民は、中国政府によるチベット民族削減政策によって漢民族に圧倒されるのを恐れていて、特に中華人民共和国のチベット占領後はこの様な恐れが強くなった。「中国共産党支配下のチベットの50年」はこの様に説明する。

「中国人をチベット高原に集団移住させるに事によって、チベットを中国化させるという北京の政策は、共産党の侵略初期から一貫している。教育優先権、商業優先権、寛大な出産政策などのチベット人にとっては差別的な奨励をによって’人口の少な過ぎる’西側地区への中国人移住を促進している。」

後に「チベット自治区」とされたチベットの西側半分の人口を5倍に増加するという北京の人口移転政策は、1952年に毛沢東が初めて公にほのめかした。毛沢東はこう述べた、「チベットは広範な地域を覆っているが、人口は少ない。現在の人口の200−300万人から500−600万人、そして1000万人へと増加するべきだ。」

1955年当時の中国主席、劉 少奇はパンチェンラマにこう言った、「チベットは未占領の大きな土地であり、中国の人口は多いのでチベットへ移住させるべきだ。」

それから5年後の1960年に周 恩来当時首相はこう説明した、「中国人民の数は同胞のチベット人民の数よりも多く経済的にも文化的にも卓越しているが、中国人民が居住する地域は耕作に適した土地も残り少なく、地下資源もチベット人民の地域に比べるとそんなに豊富ではない。」 また同年に、中国政府内部の文書にはこう助言されていた、「チベット民族地域の120万人の人口を、中国からの移住者も含めて300万人に増加するべきだ。」

1985年の2月にニューデリーの中国大使館が、「チベット民族地域だけではなくその他の’人口が少ない遠隔地域’でも生態的不調和と人口不足を解決する」意図があるいう声明を発表した。そして、「中国人民の移住はこれらの地域の住民にも歓迎されるべきで、これから30年にかけて6000万人の人口増加につながるはずだ」と述べた。さらに、「この数字は非常に保守的な見積もりである。実際には、人口増加は30年以内で1000万人まで膨れ上がる可能性もある」と述べた。

その2年後の1987年の6月に、当事主席の・小平は米国当事大統領のジミー・カーターにこう自認した、「チベット自治区の200万の住民は自治区内の資源開発には不向きであり漢民族の援助が欠かせない。」

そして1993年の5月12日に、四川省で開かれた北京政府トップレベルの秘密会合(暗号名512)において、中国人のさらなる移住がチベット問題に対する最終的な解決策になると予測された。この「解決策」は内モンゴルや新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)で起きたような反対運動が、チベット人民の間で起こることを数的に不可能にするためのものである。

チベット独立政府の見積もりによると、1959年以前のカム、アムド、ウー・ツァンを含めたチベットの全人口は600万人であった。1959年の中国政府によれば、チベットの人口は600万人以上で、その内130万人はチベット自治区(TAR)に居住していて、ほぼ500万人はチベット自治区外のチベット人地区に居住していたという。さらに1988の北京レビュー誌によれば、チベット民族全人口は600万人で、その内200万人はチベット自治区に居住しており、400万人はチベット自治区外の
チベット人地区に居住していたという。

しかしながら、1990年と1995年の間に発行された中国の出版物のデータによると、チベット高原全土におけるチベット民族人口は490万6500人しかでないとされていて、これらの数字は混乱に満ちている。1959年から1990年代にかけてチベット民族の人口が100万人も減少したのは、この間に死亡した120万人と亡命した10万人のチベット人を数えた結果であると仮定して間違いないだろう。それでも1988年と1990年代に起こったこの様な急激な人口減少を説明するのは至難なことである。

さらに、チベットへの中国人移住者数に関する信憑性のあるデータを入手するのは未だに不可能である。国際的な非難に北京がさらに敏感になったため、チベット高原地における中国人人口数を少なめに報告している、とチベット問題監視者の多くは信じている。1980年代初頭に行われた独立調査によると、チベットに居住する中国人移住者は700万人以上にもなると報告されている。その当時に比べて、経済的理由でチベットに移住した中国人の数は目に見えて増えている。しかしながら1990年から1995年に発行された中国政府の出版物によれば、チベット人以外(中国人と他の少数民族)の人口は528万500人だけでしかないとなっている。

この様な統計各種によれば、チベット内の全人口は1010万2000人で、その内482万1500人(48%)がチベット人であるとされている。1995年の中国政府の出版物各種は、チベット自治区内の中国人の数は微々たるものであるとしている。この様な出版物によると、236万人の人口の中、チベット人の数は227万5000人(96.4%)にもなるとされている。チベット自治区内での中国人移住者の数が他のチベット地区に比較して大幅に少ない理由は、チベット自治区の土地が主に不毛で人が居住するのに不適だからである。しかしながら、チベット自治区内のチベット人や外国人訪問者は、自治区内での中国人の本当の数は政府が認めている数の何倍にもおよぶと主張している。チベット調査同盟はこう発表した、「チベット自治区外部でも見られる傾向に等しく、自治区内の州都と郡選挙区全般での中国人の数は莫大で、自治区内での中国人の本当の割合は、チベット自治区外のチベット地区に住む中国人の割合に近いであろう。」

北京が「チベット繁栄援助」運動を開始した1980年代には、チベット自治区への中国人の人口移転が最も活発だった。1984年の5月に北京ラジオはこう報道した、「チベット地区での建築活動を援助するために、先駆者グループを代表する6万人以上の労働者たちが毎日(何日に渡ってかは不明)チベットに到着し、すでに準備作業を開始した。労働者たちは電気部門、学校、ホテル、文化団体、製粉場や工場の建設の援助を行う予定である。」1985年の夏には、さらに6万人の中国人「労働者」が主に四川省からチベット自治区に到着した。その時点で、ラサだけで5万人から6万人の中国一般市民が居住しており、その3年以内にこの数は2倍になった。

1990年代に「科学的、技術的な知識や専門知識」をチベット人民と共用するために、中国人の「同胞」たちがチベット地区へ大規模に移住することを、・ 小平元主席自身が奨励した。1991年の1月の北京レビュー誌によると、約30万人の労働者がチベット自治区の新しい建設プロジェクトに加わる準備ができていると報道された。1987年から1992年の間に、山南地区だけでも2万8000人の中国人移住者が到着し、1989年と1992年の間に2万7000人が那曲地区に到着、そして1986年と1992年の間には4万3860人の移住者が阿里地区に到着した。

この移住ブームの間に移住してきた中国人の事業家たちにとって、ラサは「黄金の地」となりラサから出たがる者はあまりいなかった。ある中国人の役人の話がこのいい例である。彼が手がけた非公式なビジネスベンチャーが驚くばかり成功したので、友人や親戚をなだめるために妻を1人だけで中国本土へ送り返すことにしたのである。その妻は同胞の事業家30人のと一緒に帰郷した。それと同じころ、チベット自治区の副主席、毛如柏が、自治区への中国人移住者は(軍事関係者を除き)100万人にものぼる、と述べたことで知られている。

だが、中国人移住者が最も集中しているのは、チベット自治区外部の肥沃なチベット地区の国境地方である。アムド地区全土とカム地区の大部分がそのような領域だ。中国政府の公式な統計書によると、これらの地域における全人口は774万2000人でその内の254万6500人(32.89%)がチベット人で構成されている。人口の詳細は以下のとおりである:

青海省(アムド)の全人口は474万9000人でチベット人は97万2600人(20.48%)、チベット自治州のカンロと甘肅省のパリグ チベット自治州の全人口は83万7000人でチベット人は35万7700人(42.74%)、四川省の阿・チベット自治州、カルゼ チベット自治州とミリ チベット自治郡の全人口は182万人でチベット人は110万5000人(60.71%)、雲南省のデチェン チベット自治区の全人口は33万6000人で、チベット人は11万1200人 (33.10 %)となっている。

チベット自治区外部のチベット人地区への中国人の移住は,1949年の人民解放軍の足跡を辿っていた。北京の軍隊侵入のすぐ後に、公式管理人、公式職員とその家族などの報酬目当ての一般人がこれらの自治区へ到着し、後に到着する一般人がもっと大きな町で生活を安定する基盤となった。1955年、1959年と1965年の3度に渡る集団移住の間、約17万5000人の中国人がアムドに移住してきた。

このような顕著な移住の他に1962年と1976年の間、北京はアムドに膨大な数の囚人を送還したため、アムドは「中国の強制労働収容所」というあだ名をつけられた。
人権運動家のハリー・ウーによると、100万人以上の囚人がアムドの強制労働収容所と刑務所に送還され、これらは「中国政府の連続的な追放政策の被害者用の人間倉庫」となっている。囚人の大多数は釈放後も中国本土に帰る許可が得られなかった。それどころか、アムドにある刑務所が経営する26ヶ所の工場での就業機会が与えられた。これらの工場での全就労者数は定かではないが、10万人に及ぶ数の就労者が働いている工場もあるという。

チベット自治区外部のカム地域では1962年以降、中国からの移住者の数が急上昇した。近隣の中国の各省から、古代森林を大量伐採するために、国営の材木産業からの「建設業者、労働者、技術者」として何千人もの中国人移住者がおくられてきたからだ。チベットの経済発展のためにはこれらの中国人移住者は欠かせない、と北京は主張している。だがチベット人民の見解は、中国人移住者によってもたらされた明らかな恩恵は全く見えないとしている。それどころか、中国人の集団移住はチベットの経済にとっては大きな打撃であり、チベットを中国化するための陰湿な試みであるとチベット人民は見ている。このような見解の中、故パンチェンラマはこう供述した、「チベット内で中国人1人を扶養する金額で、中国本土では4人の中国人が扶養できる。なぜチベットが自国の予算を使って中国人を養う義務があるのか?役に立たない移住者を大量に送るという政策のため、チベットは大変な苦難を強いられた。当初の中国人移住者の数は数千人だけだったが、現在その数は何倍にも増加した。」

北京での第3回チベット労働フォーラムにおいて、中国の経済必要性に応じたチベットの統合を加速するという決断がなされた。この計画の主な「押し」は、「様々な種類の事業をチベット中心地で展開し、中国からの貿易業者、投資家、経済グループや個人の移住を促進するために、チベットへのドアを中国内部の区域に広く開けること」だった。

近年では、中国の貧民や難民人口をチベットへ移住させるという大規模なプロジェクト各種が北京により生み出された。その1つが中国西部貧困減少プロジェクトである。アムドのデュラン地域に農業を発達させ、5万8000人の中国人を移住させる、というのがこのプロジェクトの内容である。2000年には、チベット人民とその国際援助者たちのプロテストに応じて、世界銀行はこのプロジェクトのための40万米ドルの融資を撤退した。中国はそれでも自国の財政を運用してこのプロジェクトを進行させる強硬姿勢を取った。

チベットへの中国人移住者は、チベット人民に計り知れない経済的な打撃をもたらした。チベットを中国経済に統合するという政策上、中国人移住者がその中心の役割を担っているので、チベット人民の生計は移民者の存在により危ぶまれている。長年に渡って、チベットの経済は中国人移住者に支配されるようになった。チベット内の商業活動は、ほぼ全面的に中国人移住者が支配している。1992年に、西洋人の観光客がチベットで秘密調査を行った。この調査によると、(八廓地区以外の)ラサ市内では1万2227軒の店やレストランがあり、その内のわずか300軒だけがチベット人による経営だったという。カム南部のツァワパショでは、中国人経営の商業は133件で、チベット人経営の商業は15件だけだった。経営者の割合はその他のチベット人の町でも同様だった。チャムドでは748対92、ポワトラモでは229対3であった。アムドの中心部の状況はさらに悪く、チベット人は「観光客用の見世物」と陥ってしまった、とイギリス人のジャーナリストが述べていた。

チベットの発展状況も人口移転によって大きく影響されている。北京の補助金制度やインフラストラクチャーは、ほぼ全面的に中国人民がチベット内で独自の支配を保てるように管理されている。この様な傾向は都市部門、行政部門、商業部門や軍事部門などに見られ、チベット人社会はこういう部門から隔離されている(※5)

(※5)「共産党支配下のチベットの50年」チベット中央行政部の情報国際関係部門 2001年出版、ダラムサラ、2006年再出版、p45−49。

近年におけるチベットへの中国人移住のこの様な歴史的背景のため、現在の人口移転の停止とその反転をチベット人民は要求し続けている。我々チベット人民によるこの要求は、中華人民共和国憲法に祭られている少数民族の権利と一致している。

中華人民共和国憲法の法令第4条によると、「少数民族の人民が集中して居住する地域では地方自治が実践される。この様な地域では自治権力を実践するための自治政府の組織が設立される...話し言葉や書き言葉の使用やその発展、自民族の習俗、習慣の保存または改正の自由は全民族に与えられている。」言語、宗教、文化を基にしたチベット民族の独自性の保存を、この法令は保障している。しかし、中国人の継続的なチベット地域への流入により、チベット民族の存在自体とその独自性が危ぶまれている。それゆえに、中国人の人口移転を停止することによって、中華人民共和国憲法の法令第4条の目的と主旨が達成できることになる。

現在すでにチベット地区に居住している中国人に関しては、チベット人民側と中国人民側が正当な法を採択することにより決断しなければならない。チベット地区内に居住しているこれらの中国人をすぐさま撤退させることをチベット人民が期待しているわけではない。現在でのそのような撤退に関した基本的な現実問題とその複雑さは我々チベット人民も認識している。しかし、我々はチベット地区内の圧倒的な中国人の人口数には反している。それはチベット人民が中国から別離したいからではなく、チベット民族の独自性を保持するためである(※6)

(※6)「中国、チベット会談過程の要点説明文」、チベット局のカシャグより。チベット中央行政部の情報国際関係部門、ダラムサラ、2006年8月23日。p4

ダライラマ法王がチベット非武装化を提唱して「民族浄化」を企んでいると大騒ぎする代わりに、中国の権力者はチベット問題による頭痛を癒す効果的な薬を探すべきだ。そのような効果的な薬は北京の鼻先にある、とジェーン・インテリジェンス・レビュー誌の編集者であるクリスチャン・ル・ミエールは、フォーリン・アフェア誌にこう説明した、

「経済発展や漢民族人口の氾濫という二重戦略により西洋各国の将来的な異議を押さえ込む、というのが中国共産党指導者たちの目的だ。しかしながら、600万人のチベット人と800万人のウイグル人をカネとカラオケだけで服従させるというのは有り得ないだろう。収入増加やモダンな生活スタイルなどは、千年以上の文化的、宗教的伝統の損失への代償としては少なすぎると考えられている。」

北京が国土西側(チベット地域やウイグル地域)での諸問題を長期的に解決したいのならば、もっと急進的な政策を遂行しなければならない。最適な方法はすでに存在している。現存する香港やマカオなどのような特別管理地区(SAR)の範疇を西部の州(チベット地域やウイグル地域)にも拡張すればいいのである。

特別管理地区(SAR)という概念は、香港とマカオの元々の支配者であった2つの帝権、英国とポルトガルそれぞれへの懐柔目的で、1990年代に考案された。SARを設定した法律によると特別管理地区内の領土は「高度な自治権」と「行政権、立法権、独立司法権」が与えられている。

さらに、SARの協定によれば、SAR区域内での防衛軍は地元民で構成することは必須である。また、SAR区域の人民は表現、報道、集会、プライバシー、そしてチベットでもしこの政策が採択されたとしたら最も重要であるという宗教の自由が保障されている。SARの統治に組み込まれている抑制均衡のおかげで、このような権利保障の実施は、中国憲法によって保障されている自由と比較しても、さらに効率的に保障されている。

中国の西部地区(チベットやウイグル)の人民にとって最も魅力的なSARの条例は、中国人の入国は地元人民の許可を要するという条項22条であろう。(※7)

(※7)「中国の西部前線:北京が反抗的な西部の州を制御できるか?」クリスチャン・ル・ミエール著、フォーリンアフェアー、2009年9月-10月号


(翻訳:嵯峨真里奈)